<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

ありなりとなりあなろなびくなび

2017年10月30日 08時02分07秒 | Weblog

アリ・ナリ・トナリ・アナロ・ナビ・クナビ

これは法華経最後のチャプターにあたる陀羅尼品(だらにぼん)のうちの、毘沙門天王の陀羅尼神咒(だらにじんじゅ)である。短い。短いが金剛力を発揮する。神咒だから、神のコトバである。音波・声紋のパワーである。「神」は形容詞で「優れた、不可思議の、パワフルな」の意。

仏陀はゆたかである。力を発揮する。緩むことなく精進して進め。仏陀の守護は無限無量である。

毘沙門天王がそういうって法華経の教えを説く人たちを鼓舞している、激励している。あなた方に刃向い苦しめる者たちがいてもわたしがあなた方を守り抜くから安心をするがいい。そういう後ろ盾の役目の神咒となっている。

毘沙門天王は仏の教えを守護する四天王のうちの一人で、多聞天王とも呼ばれている。法華経を説いておられる仏陀(釈迦牟尼世尊)の前に進み出て、法華経守護を約束し誓っている場面である。

大乗仏教の法華経を弘めて歩く行者たちは、降りかかった災難災厄のただ中にあっては、この神咒を懸命に唱えて、怯(ひる)もうとする己を鞭打ち叱咤して歩いたであろう。そういう図が想起される。

法華経は妙法蓮華経、梵語ではサッダルマ・プンダーリーカ・スートラ。「正しい教えの白い蓮の華の経典」を意味している。鳩摩羅什が漢訳した。8巻28品からなる。紀元前1世紀ごろにその思想が形成され、紀元前後に韻文が文章化され、散文が紀元後1世紀ごろに成立したとされる。仏陀(釈迦牟尼世尊)が霊鷲山(りょうじゅせん)の山頂で説いた教えである。竺法護訳の正法華経もある。ダルマ=法は仏の教え・真理の意。華は白い蓮の華の意。サッダルマの「サッ」は「正しい」「妙なる」「不思議な」「優れた」の意。白い蓮プンダーリーカは淤泥華である。世の悪・己の煩悩を根底にしていてもそれに染まらずに真っ白は清浄の華を咲かせる。

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彼らも賢い しぶとい 

2017年10月30日 07時38分13秒 | Weblog

寒いなあ。寒いよお。10月30日、月曜。朝7時40分。空はどんよりしてほの暗い。風が少しある。畑のアスパラガスの柔らかい茎と葉が靡いている。僕はセーターを着込んで対応する。新聞の天気予報では気温が前日比マイナス5℃。最低12℃、最高18℃。これでもうさすがに畑の野菜を食い荒らす虫たちもいなくなるのではないか、殺虫剤も撒かなくて済むようになるのではないか、と思う。既に此処まででキャベツもブロッコリーもカリフラワーもギザギザになるまで食い破られている。それでも巻いたキャベツの中央にまで突き進んで、ちゃっかり防寒している青虫たちがいるにはいる。彼らも賢い。

昨夜、蚊に悩まされた。パソコン灯りを慕って飛び回る蚊はでっかい蚊だった。何度もピシャリと叩いて見たが逃げられてばかりだった。お布団に入ってからもなおブーンブーン羽音がした。とうとう殺虫剤を噴霧した。蚊たちも温かい室内に入り込んでしぶとく生き残っている。

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山里は寒さが募ってきていよいよ寂しい

2017年10月29日 20時40分13秒 | Weblog

今夜は此の歌を想起してしまった。我が山里はそうでなくとも寂しいところである。そうであるのに秋が深まって草が枯れていく。木が落葉していく。人の訪れもない。

山里(やまざと)は 冬ぞ寂しさ まさりける 人目(ひとめ)も草も かれぬと思へば    源宗于朝臣 (みなもとのむねゆきあそん)(28番) 『古今集』冬・315

寒い。都ではない山里はもう冬に入ってしまったのだろう。人の気配もなくて寒い。寂寞としている。寂しい。誰も来ない。草でさえもが枯れてしまっている。そう思ってみるといよいよ寂しい気持ちが勝ってくる。

「かれる」は掛かり言葉。草が「枯れる」と人が「離(か)れていく」が重なり合っている。「冬ぞ」の「ぞ」は強意。

作者は、血筋では天皇家に繋がってはいたのですが、出世に恵まれず不遇でした。臣下に下って、源性を賜っています。

もうやすむとするか。まだしかし9時を過ぎたばかりだ。老爺の冬は夜が長い。

 

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我が弟に追善供養の必要はあるまい

2017年10月29日 18時41分33秒 | Weblog

往復280kmを運転した。台風22号は過ぎ去っていった。昼過ぎには秋晴れのいい天気になった。夕方5時半に帰宅した。温泉の硫黄分が染み付いてる。臭い。

明日は10月30日。明後日は31日。弟の命日である。阿弥陀仏はお浄土に迎えて救うと約束されているから、弟は救われているだろう。お浄土での安らかな日暮らしをしているだろう。お浄土に迎えて成仏に導くと約束してあるから、そうなっているだろう。心配には及ばない。悔やむことはない。成仏を果たしているのだから、こちらからの追善供養などの必要はさらさらないだろう。

 

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観察はそこで中断した

2017年10月29日 11時37分46秒 | Weblog

風呂場で人の裸を観察する。もちろん男性の。腰の下に足がある。歩けるように2本ある。すらりとしている。歩くと前に進む。反対方向にはくるりと回る。歩くところが前になる。常に前を向くように造られている。足は膝のところで曲がる。曲がらなかったらどうなっただろうと考える。足の先は平べったくなっている。これで安定が保てる。巧い具合に造られているなあと感心する。足の付け根のところには性器と排尿器排便器が配置されている。そこに配置されている理由も理解できる。腰の上部からは胴体になっている。腹があって胸があって背中があって、首と肩がある。肩からは長い手が伸びている。その全体の支えを背景にして頭が最上部に陣取っている。全体は皮膚に覆われていて内部は見えない。見えないけれどたくさんのたくさんの臓器や脳や神経や骨や筋肉や血液などなどなどなどがびっしり詰まっている。全てが調和して機能している。

肉体の主が声を発して話し掛けてきた。びっくりした。我に返った。観察はそこで中断した。

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朝風呂入って酔いがさめたようだ

2017年10月29日 08時51分14秒 | Weblog

朝風呂入って酔いがさめたようだ。夕食後も寝るまで部屋で冷酒をちびりちびりやっていた。柿の種おかきを肴にして。ホテルの部屋は五階。一晩中風が唸った。朝食をすませてごろりとしているところ。窓に日が射してきた。明るくなった。これからどうしよう。このままゆっくりするか。

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風の音が酷いですなあ

2017年10月28日 22時42分47秒 | Weblog

風の音が酷いですなあ。台風接近ですなあ、確実に。夜酒をだらだらこっくんこっくん飲んでおりました。もう止めましょう。やすみましょう。それにしても外は風の音が酷いですなあ。温泉には明日の朝行くことにします。

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風雨の中の露天風呂はスリリング

2017年10月28日 17時03分13秒 | Weblog

雨風の中の露天風呂はなんともスリリングであった。白濁の湯壺にさざ波がたった。肩までは湯に浸かっているので、風雨を受けるのは顔面だけ。目を瞑っていればそれですんだ。周囲は山脈。紅葉も見える。ここは山頂近い場所。風の音が次第次第に高くなって行くようだ。6時になる前にもう一度温泉を浴びたい。硫黄温泉の硫黄臭が好きだ。

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唐津くんちの祭りがもうすぐ始まる

2017年10月28日 02時38分36秒 | Weblog

唐津には唐津くんちがある。エンヤーエンヤーの掛け声をかけて山車が引き回される。三日間続く唐津神社の秋の恒例行事である。男たちは山車を引いて笛を吹いて掛け声をかけて張り切る。これではちまき姿白装束の男が練り上げられる。胆力定力(じょうりき)がつく。女衆はご馳走を作ってねぎらう。誰彼となく大盤振る舞いをする。祭りだ祭りだになる。今年ももうすぐだ。沿道は押すな押すなである。町衆で賑わう。何万人と観光客が詰めかける。三年間唐津に住んでいたことがあった。この時期になると町と町衆が一変した。宵山から始まった。華やかな出で立ちの大きな山車が何台も何台も通り抜けて行った。唐津は海の美しいところである。玄界灘に面している。砂浜沿いに虹ノ松原が延々と続く。唐津城が聳え立つ。魚が豊富でこれがおいしい。祭りの期間中「あら」という高級魚が出回る。ドデカイ。値が張る。まる一匹煮られて食い尽くされる。刺し身も鍋料理も頗る旨い。

そのアラという魚を昨日刺し身で食った。釣り好きの友人に頂いたのである。彼は仲間と船を借りて壱岐対馬辺りまで行くらしい。船頭さんに漁場を教えてもらうらしい。そこで珍しく高級魚が釣り糸に釣れたのである。電話があって貰いに行って来た。有り難い話である。友とは有り難いものである。大きなヒラマサという魚も丸ごと頂いた。もちろん既に裁き終わったものだった。アラの刺し身だけで腹いっぱいになった。

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充実充足感のお釣りをもらった

2017年10月27日 18時02分38秒 | Weblog

裏の畑の梅の木の周辺あたり一角の雑草を掘り上げた。小さな手鍬で根気よく。手袋なしでやったので、指の先、爪の中が泥だらけになった。そうして日が暮れて地が見えなくなるまで、黙々と働いた。お陰で一角がきれいさっぱりした。充実充足感のお釣りをもらった。ふふふ、だ。ホウレン草の種蒔きまでには到らなかった。まあいい。明日という日もあろう。作業着の上下とも汚してしまった。夕方4時過ぎからだったからそう長時間ではなかった。蔓延っていた雑草の草山が出来た。

老爺はいつまでこうしたことができるのだろう、ふっとそう思った。

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