てすさび日誌

哀しき宮仕えを早期リタイアし、“サンデー毎日”のomorinが生活の一コマや雑感を認めた日誌です(2005/4/20~)

37年ぶりの再会

2012-03-11 12:35:00 | 健康と医学
 今朝の山陽新聞読者のページ「集い」欄に懐かしいS本氏の名前を見つけた。37年余ぶりであり、あの頃のことが走馬灯のように蘇った。

 入社4年目の秋、25歳の若さで「寺の病」を患い、43日間入院治療をする羽目になった。この間の闘病記は『ヘモ日記』として残しているので記憶は定かである。当時家内は三男を宿しており、大きな腹を抱え長男と次男の手を引いて毎日見舞ってくれた。

 軍医あがりのO先生は、凡そ医者らしからぬ型破りな方で、「病院」を「村」に見立てて、患者の中から入院歴に応じて村長、助役以下役員に任命し自治会運営していた。術後のガーゼ交換には痛みが伴うので、役員が交代で付き添い励まし合った。

 夜の回診後にはO先生を囲んで人垣ができ、先生の社会時評を拝聴した。ある時には、私に向かって「君は(背が)高いなぁ。戦争中でなくてよかった。タマの当たる率がそれだけ高い。但し、宇宙船に乗る時は一番後だ」などと気さくに冗談を飛ばされた。
 また、定期的にセミナーを開いて、手術シーンを収めた8㍉の映写をしたり、膨大なレコードライブラリーの中から名盤を聴かせてくださった。当時映画『かもめのジョナサン』が大ヒットしており、ニール・ダイアモンドの劇中歌などは退院してすぐにレコードを買い求めたほど。

 43日の入院生活を無為に終わらせてはならじと一念発起して、やがて(3カ月後に)生まれてくる三男が日本語をマスターするのと競う意味で、リンガフォン・フランス語のテープを持ち込んで挑戦した。このレースは後にあっけなく負かされた。

 冒頭のS本氏は、私の直前に手術を受けるはずだったが、極度の緊張から血圧が上昇、そして一気に下がりはじめ顔面蒼白、失神して酸素吸入などで手術は不能となった。
 そのS本氏は偶然にも家内と中国郵政研究所の初等部、中等部を通じての同窓と分かった。なんという奇遇と家内と顔を見合わせた。以来37年ぶりに紙面上での再会である。

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2012年(平成24年)3月11日付山陽新聞より
コメント (2)
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