富田林百景+ 「とんだばやし」とその周辺の魅力を発信!「ええとこ富田林」

大阪の東南部に位置する人口10万ちょっとのごく普通の町、富田林。その魅力を、市民の手で発見していきます。

2021年度 第3回(通6) まち巡り「喜志~富田林コース」

2021年10月20日 | とんだばやし観光会

本来は9月26日に実施する予定でしたが、コロナ緊急事態宣言で順延となっていました。

宣言が解除されて、10月10日に実施することができました。

 

〈画面をクリックすると拡大します〉

今回のコースは「喜志~富田林コース」です。

まず、出発点 近鉄 喜志駅東口より喜志七郷の内、木戸山、喜志(大深 おうけ)、桜井の各地区を巡り、粟ケ池で昼食を取ります。

後半はまず美具久留御魂神社に参り、巡礼街道を国の史跡 お亀石古墳・オガンジ瓦窯跡、新堂廃寺に向かいます。そして、東に方向を変え新堂地区に向かいます。

新堂地区では光盛寺や木造の役行者像をみて、最後に清水大師に向かいます。

そして、富田林駅近くの巡礼街道「歯痛の観音さん」(西国三十三度満願供養塔)で解散となります。

 

集合場所のランドマーク「聖徳太子御廟」

高さが3m半もあるのに、厚みが28cmしかありません。

大正10年(1921)聖徳太子の1300年遠忌を記念して建設され、ちょうど今年が100年目。当時の喜志駅は大阪鉄道 「太子口喜志」駅でした。

「従是東弐拾五町」と、叡福寺の里程を示しています。

 

隣は「華衜(道)元祖小野妹子之墓」の碑 つまり「華道家元池坊建之」した碑です。

「當驛ヨリ東壹里山田村ニアリ」とこれも里程を示す道標です。高さは2.75m。

集合時間の30分も前からたくさんの参加者が来られました、参加者は18名。

 

さあ、出発です!3つのグループに分かれ、安全確認をする応援スタッフも加えて出発。

 

木戸山地区 融通念仏宗 極楽寺に着きました。

 

山門右にはインパクトのある「神変行者大菩薩」、役行者(えんのぎょうじゃ)の坐像。円の餃子(えんのぎょうざ)ではないよ。

寄木造りの木造で玉眼嵌入、一本高下駄を履いています。

 

喜志の惣墓(木戸山、大深、桜井地区の集合墓地)

これはお相撲さんのお墓、「大碇(おおいかり)」「門弟中」。

 

「今碇」の力士の墓を横に見て、いせ道に向かいます。

 

桜井地区の中心の明尊寺。

浄土真宗本願寺派のお寺でなんと鎌倉時代、文永十年(1273)の開基と言われています。

 

桜井の町を抜けて、まっすぐ正方位条里地割の東西の道を行くと、ここに東日本大地震 大槌町奇跡の復興米栽培田があるはずですが...ない、ない!

「このへんにあったはずやが、どこにあるんや?」

 

9月12日に喜志町子供会のみなさんに刈られて、もうありませんでした。

(2021年7月23日の写真)

 

向かいは櫻井町青年会館

櫻井の地車庫と...

 

「太神宮常燈」

高さ273cmの大きな伊勢灯籠。建造年は天明八年(1788)年。233年前。

 

次は桜井の井戸

「水あらへん、どうなっとんの?」

 

江戸時代は清水で、「水がとても冷たく甘味であった」ので、遠方からも汲みに来たとか...

伝承では、「むかし聖徳太子が馬に乗り、鞭で地面を叩くと、水が湧きだした。」という伝承があります。

また、「弘法大師が高野山に行く途中で、錫杖で地面を叩くとコンコンと水が湧きでた。」ともいいます。

 

これくらい、湧き出たのでしょうね。

 

すこし前(2012年)の写真。ザリガニがいます。

なんと、「太子信仰」と「大師信仰」の二つの信仰をもつ桜井の井戸。

2つの信仰を合わせ持つ「桜井の井戸は」、叡福寺に至る「いせ道」に近く、すぐ前の道、「東高野街道(国道170号旧道)」をまっすぐ行けば高野山にもいけるので、そういう伝承が生まれたのではないでしょうか?

 

そして粟ケ池に着きました。広大な水面は富田林市最大規模。

この池には大蛇(龍)伝説があります。

「富田林の大池 粟ケ池に住む雄の大蛇(龍とういう説もあり)が、狭山池に住む雌の大蛇と結婚しました。おめでたい話なのですが、狭山池の雌の大蛇は夫が住む粟ケ池へ毎晩通っていきました。そうなると通り道にある田畑は踏みつけられ、人や牛は飲み込まれるなどで、みな困り果てていました。

村の若者からは退治しようという話も出ましたが、祟りがあってはたまらないと長老たちは若者たちをなだめます。どうすればいいかを話し合った結果、粟ケ池の雄の大蛇を狭山池に向かい入れて一緒に暮らしてもらうことになりました。

そこで人々は狭山池の中に祠を建てて粟ケ池の雄の大蛇を迎え入れました。現在狭山池の中にある龍神社に今も夫婦で仲良く暮らしています。」

 

ふたりが仲良く暮らしている狭山池の龍神社

水が干上がっても龍神淵があるので大丈夫です。

 

ちょうどお昼どきになったので、楽しいお昼ごはんを食べようと、あずまやを案内してもらっているところ。

 

あ、ちょっと待ってください。その前に、紙しばい。

ご当地、喜志出身の「加賀屋甚兵衛物語」。

中身を話すと長くなるので、興味のある方は下をクリックしてください。

《リバイバル・アーカイブス》甚兵衛(じんべい)ものがたり

 

お昼ご飯を食べて休憩してから、今度は美具久留御魂神社へ。

式内社の美具久留御魂神社の主祭神は大国主命。出雲の神様(出雲大社の祭神)です。しかも、荒魂(あらみたま、神道における概念で、神の霊魂が持つ2つの側面。荒魂は荒々しい勇猛果敢な側面)を祀っており、社伝によれば、崇神大王10年(紀元前88年)、この地にしばしば大蛇が出没したので、大王自ら視察して「これは大国主命の荒魂によるものである」と言い、大国主命荒魂を祀らせたのに始まるといいます。

 

二上山の向こう側の大神神社が大国主命の和魂(にぎみたま、優しく平和的な側面)を祀っているのと対照的で、両社はほぼ同じ緯度(美具久留御魂神社:北緯34度31分4.72秒、大神神社:北緯34度31分43.5秒)にあり、有名な「太陽の道 北緯34度32分 春分の日と秋分の日に太陽が通る道」に乗っかっています。

 

美具久留御魂神社が地元の神様でなくなぜ遠くの出雲の神様、しかも荒魂を祀っているのでしょうか?

これはおそらくヤマト王権の形成過程に関係があると思われます。

ヤマト王権が大和地方の有力な豪族であった時代、3世紀後半か4世紀初め頃、各地に同じく強大な豪族がいました。特に出雲地方、吉備地方の豪族は強大でその後ヤマト王権が連合するに当たって、とても「怖い」存在でした。

とても「怖い」出雲地方の神様の荒魂を鎮めて、一緒に和して連合していくために、この地に出雲の神様を鎮める社が創られたと考えられます。

そういう意味では、以降のヤマト王権の大きな役割を果たした「神社」ですから、もっともっと評価されていいかと思います。(諸説あります。)

 

これは朝鮮通信使の絵馬。下拝殿の右のお部屋に掲げられています。

宮司さんがいつもお部屋を開けて、見えるようにしていただいていますのでぜひご覧ください。

 

「朝鮮通信使の絵馬」元禄八年(1695) 喜志 桜井村の11名の名前が連記されています。この絵馬は非常に珍しい絵馬で類例があまりないようです。

李氏朝鮮から来た第7回の朝鮮通信使の6艘の船団の様子が描かれています。

将軍の代替わりに、朝鮮王朝より江戸幕府に派遣された一行で正使・副使・書状官の3使に輸送係、医師、通訳、軍官、楽隊など500人近い集団であったようです。江戸時代は12回来ています。

ところで、朝鮮通信使と桜井村の接点は? 2つ考えられる点があると思います。

1.明和六年(1769)の喜志村様子明細帳に、「朝鮮人来朝帰国之節、人馬掛リ相納申候」とあり、通信使が来るたびに喜志村が助郷に行っていたこと。

2.500人近い異国情緒たっぷりの集団で、行列の見物は民衆にとって大きな娯楽であったようです。朝鮮通信使は正使や副使などの外交官の他に、美しく着飾った小童や楽隊、文化人、医師、通訳などが随行員に加わっており、20~30年に一度不定期でやってくる通信使は、ところどころで4~5日宿泊するので、来ればすぐ情報が伝わり、通信使と民衆は直接接することができたようです。

旅程にかかる時間は、享保4年(1719)を例にすると対馬から大坂の海路に45日間、大坂の滞在に6日間、大坂から江戸の陸路に18日間をかけています。全行程には8ヶ月から10ヶ月を要し、ゆっくりと江戸城に向かいました。

きっと来たら、大坂まで見物に行ったのかもしれませんね。

 

あと一つ気になるのは、絵馬の御座船の描写が緻密なのに対し、上書きされている「喜志櫻井村 (11名連記)」の字がへたくそであるということ。

文字の間隔も一定せず、文字の大きさもまちまち...

まるで明治時代の引き札(宣伝のために作られた絵柄に後で商店名入れたようなポスター)のような感じで、汎用に出来上がった図柄に後で墨を入れた感じ。しかし、類例が見つかっていないので、やはりオリジナルかもしれません。

 

絵馬の所で説明に疲れた私(左端)と元気な参加者のみなさん。

 

喜志の宮を巡礼街道の所で右折、少し行くと3つの道標があります。

この道標には「左ハ ふじゐ寺道」と彫られています。

そして、村の出口がクランク状に屈曲しています。

このクランクがいつ形成されたがわかりませんが、中世なら防御的な意味、近世なら厄や魔物を村中に入れない民俗的な意味があろうかと思われます。

 

早くも巡礼街道を行き、お亀石古墳。

 

お亀石古墳、オガンジ瓦窯跡、新堂廃寺を見学。この3つの史蹟と現在の新堂、中野地区との関係を説明しました。そして、東の新堂地区へ。

 

新堂地区に到着。いまは若松町といいます。

会所丁の光盛寺 若松町五丁目11

元禄年間の新堂大工の建造。

「龍地山と号す。真宗本願寺派(西本願寺)にして、阿弥陀仏を本尊とする。至徳元年(1384)本願寺第四代善如上人弟、尊空の開基にして、寛永八年(1631)十月十四日より寺号を公称せり。境内は272坪を有し、本堂・庫裏、小番部屋、鐘楼門を存す。」

なんと開基は南北朝時代。新堂の村の成立は慶長の頃と考えられるので、それ以前に別の場所、おそらく旧新堂で開基したと考えられます。

指定の保存木幹周3.6m、樹高10mのイブキがあります。また山門に右側にイチョウの木がありますが、富田林の民話の「めおといちょう」はこの木です。ただし雌株しかありません。

 

光盛寺に残る古瓦。以前市文化財課に鑑定していただいたところ、

(軒丸瓦F-行基I1Za群 「布袋イ+リ行基1」)

七世紀中葉の単弁軒丸瓦。(白鳳時代(645~710)、山田寺式)とと分かりました。

もともとどこのお寺にあったのでしょうか?

 

本堂の礎石に2個の大きな礎石が混じっています。これは白鳳期の寺院の礎石と専門家の見立てです。

本堂は新堂大工により、元禄期に立て替えられましたが、なぜ2個だけ白鳳期の礎石が混じっているのでしょうか?ほかの礎石より4~5倍も大きい礎石です。

新堂廃寺に心礎以外に礎石が見つからないのは、おそらくその礎石が転用されたと考えられますが、ひょっとして新堂廃寺との関連が注目されます。

光盛寺の情報はこちら:新堂地区散策 2 2015.10.1

 

庄屋丁の専光寺 若松町四丁目1

現在の本堂は18世紀初頭の新堂大工の作。

本堂の外陣の中に柱を建て、耐震強度を増した新堂大工独特の構造をもつ建物。

「山号は大圓山と号す。真宗興正寺末阿弥陀如来を本尊とす。創建の年月は詳ならず。永正七年(1510)二月十五日より寺号を公号せり。境内は257坪を有す。本堂・庫裏、鐘楼門を存す。」

 

鐘楼にある釣鐘は戦中に供出され、軍需工場で品質調査のために穴が開けられ、戦後返還されました。今も釣鐘には穴が開いたままです。

 

南丁の教蓮寺 若松町三丁目5

ここも本堂は寛延2年(1749)新堂村大工頭 平岡作左衛門経定の作。

同じく耐震強度の高い外陣中央柱構造です。

「山号は甘泉山。浄土真宗興正寺末。阿弥陀仏を本尊とする。創建年月は詳かならず。永正七年(1510)十一月二十八より寺号を公号せり。」

専光寺・教蓮寺の情報はこちら:新堂地区散策 2015.9.16

 

新堂の町内の民家の軒先の祠におられる、にこやかな役の行者さま。

いつもアルカイックスマイルでお会いできます。

 

役行者さんから程なく、坂を下りる途中に、「弘法大師遺跡清水井」があります。

 

「お疲れ様、最後の立ち寄り場所です。」

 

「清水大師」、地蔵さま、観音さまなど堂の中にいくつかの祠があります。

 

現在もポンプで汲み上げ、沸かせば飲めます。地区の方々が管理されています。

 

清水大師からまっすぐ西へ、ここで解散。巡礼街道沿いの「歯痛の観音さん」。

 

なんで「歯痛の観音さん」かと言うと、お姿が歯が痛そうにしたはるから。

 

ほんとうは「西国三十三度満願供養塔」でした。安永三年(1774)、今から247年前に作られています。

ご参加いただきましたみなさま、お疲れさまでした。暑い日で、私はペットボトル4本飲みました。

次回はここです。よろしくお願いいたします。

まち巡りのご案内 - まち巡りのご案内 (jimdofree.com)

関連記事:とんだばやし観光会(5)

とんだばやし観光会—富田林観光ボランティア

撮影:2021年10月10日

2021年10月20日(HN:アブラコウモリH )

 

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