アンティークマン

 裸にて生まれてきたに何不足。

楽観主義と日本の教育

2011年02月25日 | Weblog
 「楽観主義」…これは、いいです。但し、楽観主義者には、なろうと思ってもなれない。「ボクサーは、天性のものが全部」とおっしゃる、元ボクシング経験者の政治評論家がおられるが、楽観主義も天性によるところが大きい。
 先日私は、微熱が出て体中が痛み、5日間もプールへ行くのを休んでしまいました。「今年の桜を見られずに御臨終かな…」と、寝たり起きたり。そんな中、家人がスーパーにダイコンを買いに行くので一緒に行こうという。(どうゆう誘いじゃ!)痛む体にムチ打って、しぶしぶ行ったのですが…スーパーの入り口の花屋に、桜が売られていた。家人いわく、「ほら、桜を見られたでしょう!」
 そのためだけに、具合の悪い私を引きずり出す…なんたる楽観主義。悲観主義の権化である私は、いかに努力しても、病人を引っ張り出して花屋の桜を見せる事はできません。

 「永遠の楽観主義を持ち、夢を追って」という言葉を残した人が、ハーバート・ブラウン博士。昨年ノーベル化学賞を受賞した米パデュー大学の根岸英一特別教授の恩師。ブラウン博士は、「人材育成とは『夢』の追求を支援すること」だという。「夢」に、いつも違和感を覚える私ですが、この人材育成論にはすんなり頷けます。今の日本には、人材育成しかない。

 もっとも、人材育成は過去にも叫ばれていた。80年代に、各分野の急速な国際化や情報社会化、規制緩和の動きがあり、状況に柔軟に対応できる人材の育成が必要となった。そこで、「個性の重視」「変化への対応」「生涯学習体系」が教育政策の柱となった。時は、受験競争が過熱し、非行が社会問題化していた。このあたりから、「学力の二極化」が進み始めていた。二極ある場合、人は元来自堕落ですから、勉強したくない極がふくれあがる。つまり、日本の学力が落ち始めたのです。

 そして90年代に入って、唐突というか拙速というか…学校週5日制がが導入された。どうしてあれほど急いだのか?そのために、「授業量の縮減」「教科を超えた総合学習などでの質的転換」が図られた。これがいわゆる「ゆとり教育」。掲げられていた大看板は、「生きる力」…。
 その後は、国際学力テスト(PISA)の順位が下がる一方。悪者とされたのが、「ゆとり教育」。ゆとり教育は何も悪くない。80年代の教育政策が失敗だったということなのですが…。(そんなことを言う教育評論家はいないって?教育評論家の看板を掲げている人って、「教育」を知らないんじゃないの?目立つのが上手というだけ。当代ナンバーワンの教育評論家さんのコメントには、腹が立つことばかりですよ!おっと、興奮してしまいました)
 新年度からの新指導要領では、教科学習を再び増量する…。グリーン上で行ったり来たりするゴルフ状態になっています。

 教科学習量の増大については、ウエルカム。その段階で世界に遅れをとってはいけません。大事なことは、「ゆとり教育」で行われていたことの復活です。
 何度も言っていますが、日本は、科学技術立国。技術革新と商品開発に力を入れる。これは、学習量の増大が少しは役に立つ。

あと、クールジャパン。日本のよさ、「(人が)勤勉・実直・やさしい」「(仕事が)正確・丁寧・美しい」「社会が安全」。 日本の文化、「音楽、アニメ、ファッション、書画、寿司、柔道…」。これらは「ゆとり」で育てなければなりません。教科の学習量が増え、ゆとり教育もするとなると、児童生徒は暗くなるまで学校で勉強しなければなりません。上海の子たち(都市部の子たち限定ですけど)は、それ以上に勉強しているのですから、上海に勝とう思うなら、日本もそれぐらいやらなければなりません。え?競争は良くない?そういう人は、無人島で一人で暮らしなさい。「競争なきところに発展なし」です。 

 以上述べたことと、楽観主義をどう結びつけるか?

 「日本は、少子化だから、もうどうしようもないんじゃないか」ではなく、「少子化だから良い教育ができるぞ」という楽観主義でいこうということです。
 私は、「寺子屋への回帰」を提唱したい。少子化だからこそできる。
 習熟度別に分けた授業をしている学校は多い。しかしこれは、同じ教科内容について、時間をかけて骨を教えるか、肉まで含めて教えるかの違い。「個性を伸ばす教育」とは別のもの。寺子屋の場合、「学年なし、教科書なし」という教育。「秀でた才能を生かし伸ばす」には、寺子屋方式は理想的な教育です。これは、実現可能です。はじめからできないと決めつけると寺子屋方式などできやしない。楽観主義で行きましょう。

 今年の桜を観られないんじゃないかと鬱々としておられる方は、スーパーの花屋へ行けば悩みは解決です。