アンティークマン

 裸にて生まれてきたに何不足。

羞恥心の読みは「さじしん」…?

2020年09月27日 | Weblog
 文体からは想像できませんが、浅田次郎さんは、自ら「含羞の人」を名乗っています。
 なぬ?「また、含羞かって」って?太宰治を書いたら、浅田次郎も書きたくなりましてつい…。
 浅田次郎さんの本を買って御本人にサインをいただいたとき、次郎さんと目が合いました。そのとき、彼は「ニヤリ」と笑ったんです。
 私は、「オラオラ、ジジイ!読めるのかオレの本を!老眼進んでるうだろう」と腹の中で思っての「ニヤリ」かなと思っておりました。浅田次郎なら、このくらいの口汚さは普通かな。放送禁止用語が活字になって出てきますから。ところが、浅田のエッセイで次のような記述を発見。
 「(含羞のためサインするのが嫌だったのだが)サインを求めてくる人たちは、皆、私の小説を読み、かつ購い、次回作を期待してくれているのだ。喝さいに胸を張れない男は卑怯者だ」
 つまり、浅田次郎の私への「ニヤリ」は、「ありがとう」だった…かな?
 太宰と、浅田の共通点は、「おもしろい」ところ。読者は、「根底にユーモアがあるという安心感」で読み進めることができるのです。
 浅田はともかく、太宰治ですが…太宰の含羞感は、あれですよね…あれ「武士道」。またそれか!と、いわれるのは覚悟しています。「含羞」は武士道です。新渡戸稲造と太宰治に接点はあるのかって?稲造の武士道の訳本が出たのは、1938年です。太宰が30歳の時。間違いなく、太宰は、「武士道を読み影響を受けています。
 中原中也も含羞の人でした。中也は、稲造の影響は受けていませんね。「武士道」が出る前に亡くなっていますから。
 私も含羞です。オマエは、「顔醜(がんしゅう)だろう」って?コレコレ!「自分の顔に胸を張れない男は卑怯者である事也!」
 せんだみつおさんも言っています、「顔醜だっていいじゃないか人間だもの」と。なぬ?「それは、相田みつをの間違いだろう」って?…同一人物かと思ってました。ナハナハ!
 なお、「羞恥心」というユニットがありました。「おバカタレント」と呼ばれた3人組。その中の一人が、マジで、「羞恥心」を「さじしん」と読んでおりました。「羞」と「差」の区別がつかない…。これでいくと、「含羞」は、「がんさ」ですね。「羞」と「差」…一画しか違わないから、まっ、いいかぁ。