アンティークマン

 裸にて生まれてきたに何不足。

さざえ堂 設計者はダ・ヴィンチ

2008年10月21日 | Weblog
 さざえ堂 設計者はダ・ヴィンチ

 巻き貝の中へ入ったことってありますかねえ。らせん(螺旋)状に入っていくだろうって?まあそうなんですが、人が入ることが出来る巻き貝はないですが、巻き貝のような建築物ってあるんです。
 形が、貝のさざえに似ているところから、建物の名前が「さざえ堂」。場所は、福島県の飯盛山。そうです。白虎隊士中二番隊自刃の地があるところです。観光客の多くは、「白虎隊」が目当て。山からの帰り道にある「さざえ堂」は、ともすれば看過されがち。しかし、白虎隊ではなく、さざえ堂目当てで飯盛山へ来る観光客もいるそうで…私も大変興味がありました。
 さざえ堂は、江戸時代に建てられた仏堂。最大のポイントは、「昇降ともにらせん状の回廊で、同じ所を通らずに降りてくることができる構造」…入り口→らせん階段を登る→16mの高さ(3階)まで昇る→(一方通行で)昇りとは別のらせん階段で降りる→出口…。いわゆる、「二重らせん構造」を持つ建物。珍しいですよ、このような建物。

 さざえ堂は、1796年に建立されたといわれる仏堂。会津の人々がはるばる「西国三十三箇所巡礼」に詣でなくても御利益が受けられるようにと建てられた。回廊に沿って西国三十三観音がまつってあった(廃仏毀釈で、取り払われた。今は、なにやら額がかざってあった。興味は、建物そのものなもので、額が何であったか記憶なし…)。
 西国三十三箇所は、日本で最も歴史がある巡礼行であり、現在でも多くの参拝者が訪れる。近畿2府4県と岐阜県にまたがる33か所の観音霊場の総称。「三十三」は、観音菩薩が衆生を救うとき、33の姿に変化するという信仰に由来する…「3」で「ウワオー!と叫ぶ芸人がいるが、観音菩薩の末裔と思われる。そんなはずないか?ナベアツが、観音菩薩の33変化を知っているとは思えない…?
 「西国三十三箇所巡礼」踏破したいが…大変なんです。第一番から第三十三番までの巡礼道は約1,000km。四国八十八箇所の遍路道約1,400kmと比較すれば短いのですが、京都市内をのぞくと札所間の距離が長い!歩き巡礼は、無理ですねえ…そんなわけで逡巡しています。

さざえの殻の中へ侵入。築後210年を越えている。老朽化は当然だが、改修が行われているので、まだまだ大丈夫。上を歩いている人がいるらしく、「ギシギシ」と、きしむ音が聞こえる。床は階段ではなく、バリアフリーの板張り。すべり止めの細い板が20cm間隔で打ち付けられていた。楽々3階まで到着。最上階の天井を鑑賞して下り始める。確かに、人とすれ違うことがない。出口は、入り口の反対側だった。何とも、「不思議ではないのですが不思議」な体験をさせていただきました。

 「さざえ堂」、知名度は低いです。国の重要文化財に指定されたのも、平成8年でしたから。しかし、建築関係者の間では、知らない人はもぐり。
 一昨年、マガジンハウスの雑誌、「カーサ・ブルータス(主に建築やデザインの記事を載せている)」で、「建築家が選ぶ日本建築人気番付」という企画がありました。その中で、さざえ堂は、「東の横綱」に輝きました。
 また、「世界の名建築100選」に選ばれました(今年の1月)。そのことで、NHKがテレビ放送。男の二人組なのに、「アンガールズ」という…わけの分からない名前のお笑い芸人ペアが、その放送に出演しました。「an girls ?」英文法も間違ってるし?(実際はungirls とのこと。「女にあらず」ということでしょうか。さざえ堂とぜんぜん関係ないですよね)

 「さざえ堂」と同じような建物・・・
 現存するのは、茨城県取手市の長禅寺、群馬県太田市の曹源寺、埼玉県児玉町の成身院、青森県弘前市の蘭庭院。過去にあったとされているのは、新潟県新潟市、栃木県茂木町、茨城県結城市、埼玉県小鹿野町、東京都台東区など。こう見ると、10のさざえ堂があったらしい。ただ、二重らせん構造になっていて、上りと下りの2つの通路が表裏一体に合わさっている…これは、飯盛山のさざえ堂だけ。
 なんのために?については、飯盛山のさざえ堂と同じ。時間とお金がなく、西国三十三箇所などへ巡礼に行けない皆様のため…「お参りすれば札所を拝んだのと同じ功徳がある」として建立。

 さざえ堂、メビウスの輪を連想します。(紙テープ等の切れ端を)180度ひねって接着するとメビウスの輪ができる。この輪、中央をチョキチキとハサミで切っていくと、大きな1つの輪が出来る。タネのない手品!三分の一のところをチョキチョキとハサミでずーと切っていくと、1つの大きな輪(この輪は捻られすぎなので、メビウスの輪ではない)と、1つの小さな輪(これは、メビウスの輪)ができる。この2つの輪はつながっている。不思議です~!メビウスの輪は、わけが分からないなりに、すぐに作れるので、なんとなく身近。プリンターのインクリボンやカセットテープのエンドレステープに利用されているし…。全然無理なのが、二つのメビウスの輪を、そのふちに沿って貼り合わせるとできる、「クラインの壺」。こうなると、私の硬化した脳では、まったく解らない。

 一時は日本に10もあった、さざえ堂。一体どこから来たのか。北は青森から南は東京までの10人の大工さんが、相談せずに思いついた?これは、考えづらい。設計図があったはずだ。
 フランスに、さざえ堂と酷似したものがある。ロワール地方、シャンボール城の二重らせん構造階段。設計は、レオナルド・ダ・ヴィンチ。
 ダ・ヴィンチの二重らせん構造階段の設計図がオランダの書物に掲載された事実がある。間違いなくこれでしょう。
 日本へ伝わって来たレオナルド・ダ・ヴィンチの設計図。それを見て、さざえ堂を造った人たちがいた。こういうのを、「夢とロマンがある」と、いうのですよね。「ダ・ヴィンチ・コード」を読んでいたので、すぐに、「さざえ堂=レオナルド・ダ・ヴィンチ」と考えました。
 なぜ、そう繋がるんだって?「さざえ→巻き貝→黄金分割(黄金比、Golden-ratio)→ダ・ヴィンチ・コード→レオナルド・ダ・ヴィンチ」という簡単な連想です。

 時間を整理してみると…
1452年 レオナルド・ダ・ヴィンチ誕生
1796年 飯盛山に、さざえ堂建立
1868年 白虎隊士中二番隊、飯盛山で自刃
 白虎隊士たちも、さざえ堂を「不思議な形だなあ」と眺め、拝観して、「どうなってるんだろう?」と、鳩首を寄せ合い、周囲を走り回って遊んだことでしょう。

白虎隊自刃の地 ムッソリーニも感動

2008年10月20日 | Weblog
  白虎隊自刃の地 飯盛山 

 白虎隊士中二番隊の蘇生者、飯沼貞吉の墓を進むと、興味深い墓を発見。白虎隊の武士道に感動したドイツ人が、「自分の墓を白虎隊と同じところに」と望み、願いが叶って眠っていました。父母と子ども1人の3人。
 そのすぐ先に、山の斜面を削って平地を造ったような細長い場所がありました。そこが、白虎隊自刃の場所。狭いですよ。しかし、見晴らしが良く、鶴ヶ城がよく見えました。

 この場所から、鶴ヶ城が燃えているのを見たのだろう(誤認でしたが)。その、同じ場所に自分が立っていると思うと、なんとも感慨深いものがありました。そして、自分の今立っている足元で、20人の若者が自刃した。

 ただ…どうも不思議なんですが、狭い場所ですよ。20人が自刃したら、折り重なったでしょう。見苦しいと考えるのではないかなあ。腹を切った子、のどを突いた子、頸動脈を切った子・・・ある子は茂みに入り、またある子は、道の方へ行き…と、お互いが見える範囲で、お互いが折り重ならないように散らばるような気がするのですが。全員同じ場所で…だとしたら、もっと広いところを選んだのでは。屍になっても、同士に迷惑をかけないと考えるのではないかなあ。会津藩校日新館什の掟に、みんなでまとまって死ぬるべしなどはない。今となっては、場所などどうでも良いことですが引っかかるものがあります。

 来た道を引き返し、エスカレーターが着いた広場へ戻りました。
「ひとりのドイツ人が、会津の若き騎士たちへ」の碑文が刻まれた記念碑を見て、白虎隊が世界中に知れ渡っていることを認識。
 並んで、ムッソリーニがローマ市民の名で贈った記念碑があります。碑は、ポンペイ遺跡から発掘した古代円柱で、上部にマサカリ(斧)を持った鷲が羽を広げています。
 碑文には、「文明の母なるローマは白虎隊勇士の遺烈に不朽の敬意を捧げんがため、古代ローマの権威を表すファシスタ党章のマサカリを飾り、永遠偉大の証たる千年の古石柱を贈る」と記されていました。また裏へまわると、「武士道の精華に捧ぐ、1928年6月ローマ元老院とファシスト有志より」と刻されていました。

 ムッソリーニ!ファシスト!飯盛山でこの懐かしい名前に遭遇するとは思いませんでした。新鮮な感動でした。ムッソリーニは、自分の思想を、ファシズムと名付けた。共産主義、民主主義等の徹底的排除。暴力的独裁。侵略主義。こう並べると、悪逆非道、大悪人ですね。お友達ではありませんが、このムッソリーニ、大変な勉強家で英・独・仏語ができる。母国語のイタリア語を入れると、カルテリンガル!バイリンガルの倍です。世界の指導者で、カルテリンガルの人ってもう出ないでしょう。さらに、哲学・思想・芸術にも造詣が深かった。日本の歴史も熱心に学び、白虎隊に大いに感動し記念碑を建立してくれた。しかも、ポンペイ遺跡から発掘した石柱。エンタシス形式の柱で、見事なものでした。もう、30年以上も前ですが、ポンペイへ行ってきました。印象に残っているのは、遺跡をアジトに、学校へも行かず、観光客のスキを狙っている少年たち。彼らも今は40歳代、立派なマフィアになっていることでしょう。バスに乗ってナポリまで行きましたが、バスを降りるとき、「このまま乗ってな。降りたら何時間生きていられるかわからんぞ」と運転手に注意されました。すれ違う人が皆強盗殺人犯に見えました。こちらもそのように見られているのか、被害に遭わずに済みましたが…。ナポリは今どうなっているか、検証に行かなければ。

 ムッソリーニは、「独身税」「子無し税」を提唱していました。日本も、少子化対策の一環で、これらを検討する必要が…よく考えると、それもファシズムですね。
 ムッソリーニの言葉に、いいのがあります。「社会主義とは、ペテンであり、喜劇であり、幻想であり、ゆすりである」…感心します。ものの分かった人だったのです。ユーモアを大切にしたのでしょう。イタリア国内では人気がありますから。

イタリアとドイツからの二つの記念碑の向かいに、19人の「会津の若き騎士たち」の墓がありました。19の墓石が一列に並んでいました。線香の煙がもうもうと立ち上っていました。お参りさせていただきました。下山のエスカレーターはないので、引力を利用する得意の下段方法で降りてきました(早い話が、階段を自分の足で下りてきた)。

 飯盛山の出口近くで、「戸の口堰洞穴」を見ました。猪苗代湖から会津平野へ水を引いた洞穴です。20人の白虎隊士中二番隊が、鶴ヶ城の情勢を確認するため飯盛山に向かう際、この洞穴を抜け穴として使ったと伝えられています。生き残りの、飯沼貞吉が話したのでしょう。子どもの頃からこの洞穴で遊んでいたので、内部を熟知していたとのこと。敵の目を逃れて移動するには、もってこいの連絡通路だったわけです。洞穴を出て山へ登り、自刃したのです。
 戸の口堰洞穴、豊かな水量でした・・・








飯盛山 白虎隊士中二番隊の蘇生者

2008年10月19日 | Weblog
   飯森山 白虎隊士中二番隊の蘇生者

 「飯盛山(いいもりやま)」と、聞くと、「ああ、白虎隊の!」と、なりがちですが、実際日本には、「めしもりやま」と読むものを含めると、10指にあまる飯盛山があります。
 私がこのたび訪れたのは、福島県会津若松市にある、白虎隊士自刃の地の飯盛山です。標高は、314m。観光客は、年間200万人。
 飯盛山にあるのは…
○ 白虎隊士中二番隊十九士の墓
○ 正栄寺、宇賀神社
○ さざえ堂
○ 白虎隊士自刃の場
○ イタリアからの記念碑
○ ドイツからの記念碑
○ 松平容保の歌碑
○ 飯沼貞吉の墓(白虎隊士中二番隊の蘇生者)
○ 白虎隊記念館

 さあ、飯盛山へ登るぞ!む、むむー…。階段が、急斜度!壁のよう。士気を削がれるが…なんと、ありました。動く歩道が!エスカレーター、300円。ここは見栄を張らず、300円払った。30mほどで二本目のエスカレーターへ乗り換え。労せずして、中腹の広場へ到着。
 イタリアからの記念碑、ドイツから贈られた石碑を見て、山へ向かって右手の白虎隊自刃の地へ。
 途中、白虎隊士中二番隊の蘇生者、飯沼貞吉の墓を見る。飯沼貞吉は、「武士道」を語るに、重要なメッセージを持っています。

 戊辰戦争(会津戦争)に際して、会津藩は、玄武隊、朱雀隊、青龍隊などを組織した。その一つ、14~17歳の武家の男子によって構成された部隊が白虎隊。
 白虎隊は本来は予備兵力。「士中隊」「寄合隊」「足軽隊」から成り、隊員数は、340名程度。
 1868年。戦況は圧倒的不利。城下防衛が任務だった白虎隊も、前線へと進軍した。まず、ここですね第一のポイントは。少年兵は、ただ死にに行くだけであることを意識しない人などいたはずがない。それでも行かなければならなかった。領民総玉砕もいとわずでしたから。
 精鋭をあつめた士中隊。二番隊は、戸ノ口原というところで、潰走。飯盛山へ後退した。武家屋敷が燃えているのを、鶴ヶ城が落城したものと誤認。総勢20名が自刃。ここが第二のポイント。その中で、飯沼貞吉だけが一命を取りとめた。

 飯沼貞吉、折角蘇生しても生きていけませんよ。再び、自刃しようとしなかったのは、「追い腹を切る事を禁じられた」からですね。「絶対服従」これが、教育で最も大切なことです。ここが、最重要ポイントです。
 白虎隊というと、自刃した19名と、飯沼貞吉かのような認識になっています。実際、生き延びた白虎隊士は、290名だそうです。この人数は、白虎隊士の80%。
 飯沼貞吉は、生き残ってしまった自分をせめて、会津から姿を消した。14歳が戦闘の混乱の中を逃避行…。逃避直後は、喜多方市の造り酒屋に数日間身を寄せた後、不動堂に隠れ住み1ヶ月ほど滞在したところまで判明しているそう。その後の数年の行動は不明。
 4年後の1872年、18歳で工部省技術教場に入所。修了後、電信建築技師となり逓信省に勤務。日本全国の電信電話架設に尽力した。78歳で死去(1854年~1931年)。
 良く生き続けてくれました。10歳から、会津藩校日新館で教育されていたからだと確信しています。しっかり勉学に励み、国民に貢献してくれました。「ならぬものはならぬ」つまり、「絶対ダメ。絶対服従」そのことが呼吸をするように当たり前の教育。玉砕のために戦場へ行き、城が落ちたのに自分たちだけ生きていられないという考え…。自刃を禁止されたら、屈辱に耐えてそれを守る。教育の成果です。

 「戦後の日本の教育が悪い」何が悪いのか?どこが悪いのか?「服従」を教えなかったのが悪いのです。何度も言いますが、自由だよ、平等だよ、思った通りにやってごらん、夢は叶うよ、みんな違ってみんないい、オンリーワンだよ、子どもが主人公・・・歯が浮いて、全て抜けてしまうような言葉の数々。その無責任さ、危険さを考えず、それらの言葉を発し、「民主教育の担い手でございます」などとほざく。勘違いでそう思っている人もいれば、サボタージュの言い訳としてそれらの言葉を並べるものもいる。能力がないので、そういう言葉で保身する人もいる。口先だけで、汗をかくことをしなかった大人たち・・・その成果は、身勝手な無差別殺人に代表されています。社会が悪い?「悪いのはオマエだ!」と、言ってやりたいが言われても理解する力がないでしょう。社会に、自由も、平等もあるわけがない。そんなことぐらい子どもだって知ってますよ。思った通りにやってごらん?思った通りに歩行者天国へ来るまで突っ込んだってか!思った通りにやるのは、犬や猫…いや、犬や猫だって考えて行動しますよ。夢は叶う?いつまでも寝言言ってろ!みんな違ってみんないい…みずずさんのお考えの通りならもちろんいいです。曲解して犯罪の弁解に使われてはたまりません。オンリーワン?だからなんなんだ!ベトちゃんドクちゃんのような気の毒な例を除いて、皆生まれてきたときからオンリーワン。あらためて、言われるまでもない。子どもが主人公?このような言葉を発する教員は辞めさせた方が日本のためです。子どもをおだててどうする?指導力のなさをカバーするのかね?姑息な。人は皆、自分が主人公だろうが!おっと、このカテゴリーになると興奮してしまう。「だめなものはだめ、服従させる教育」を取り戻そうよ。日本の大人たち、特に教育に携わる者は、会津藩校日新館什の掟に学んでほしい。一つ間違わないでほしいことは…武士道をしっかり理解して子ども達に指導していただきたい。「皆さん!白虎隊のように、努力が報われなかったら自刃しましょうね」ではないってこと。

 飯沼貞吉の墓は、飯盛山にありますが、他の隊士の墓から距離を置いて建っています。その理由は、生き残った事に対し「武士としての最期を遂げず生き恥をさらした」という非難があるからでしょう。生き残ってこそ武士道。死を選ぶのは、武士道とは全く違います。

「愛」を兜に掲げ、閻魔大王へ嘆願書を書いた武将

2008年10月18日 | Weblog
  「愛」を兜に掲げ、閻魔大王へ嘆願書を書いた武将

 山形県で見逃してはならないのは、直江兼続(なおえかねつぐ)の兜でしょう。大きく「愛」の文字が掲げられています。文字を兜に付けること自体まれでしょう。しかも、「覇」「気」「武」「勇」など、勇ましい文字ではなく、「愛」ですから。その兜の本物が、上杉謙信が祀られている上杉神社の稽照殿(宝物殿)にあります。撮影禁止のため写真は撮れませんでしたが、しっかりと、目に焼き付けてきました。見たいと思ったものを、首尾良く見ることが出来るのは、高跳びでバーをクリアしたときの感じに似ています。

 戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、直江兼続。上杉謙信から…
 「天下を取るは小事に過ぎず、義を貫いて生きるが大事」
 「目先の利に心を曇らされず、不利益を承知の上で背筋を伸ばして生きる事が『義』の精神」と諭された。
 この言葉を深く心に刻み、稀代の義将へと成長。謙信の死後、上杉景勝を支え、「義」を貫いた。景勝の奥さんは、兼続の姉、つまり、景勝と兼続は義兄弟でした。

 兼続はどんな人物だったか…史実の点を私の60年の経験に裏打ちされた慧眼で繋ぐと、次のような線となります。
◎ 天下統一を目指す織田信長軍と戦った。このときすでに兜には、「愛」の文字をつけていた。
◎ 豊臣秀吉は、兼続の人間性と才能を見込み、家来にならぬかとオファーを出した。しかし、兼続は、「わが主君は上杉景勝様のみ」と、拒否。秀吉は、ますます兼続が気に入り、上杉景勝には、「よい家臣を持っている」と、会津120万石を与えた。兼続(上杉家の家老)には、米沢30万石を与えた。家老にですよ!信じられないけど、史実なのです。
◎ 伊達政宗に対して不遜な言動をした。
 大坂城での出来事→伊達政宗が、当時すでに入手困難になっていた、「天正大判」を同席の諸大名に自慢げに回覧した。兼続は、素手ではなく扇子で受け、卵焼きをフライパンで返すようにして表裏を見た。「苦しゅうない。手に取って見よ」という正宗に対し、「お金は、不浄。私の手は、上杉謙信様の代よりの采配を預かるもの。こんな小汚いものを触れるか!冗談言うな」と、天正大判を投げ返した。
 また、江戸城内では→伊達政宗とすれ違った時、兼続は挨拶しなかった。当然正宗は、「挨拶はコミュニュケーションの基礎・基本だ。身分からいって私に挨拶しないとは無礼だ」と、言った。兼続は、「(戦場で)敗走する後ろ姿しか見ていないので、中納言様(政宗)の顔を知らなかったのでごめんね」と言った。伊達政宗も形無し。
◎ 真田幸村は、勝手に兼続を師匠とした。あの、有名な真田十勇士の主君がですよ。十勇士のメンバー知ってますか?猿飛佐助、霧隠才蔵、三好清海入道、三好伊三入道、穴山小介、由利鎌之助、筧十蔵、海野六郎、根津甚八、望月六郎です。小学生の頃、暗記して自慢したものです。昔覚えたことは、今でも覚えている。新しいことはすぐ忘れる…昨夜の食事内容もおぼつかない…。
◎ 直江兼続の家来になりたがる戦国武将が続出。強力な軍が出来ていった。
 武勲も何度かあるが、どーも戦が下手だったような気がするのです。圧倒的な数の軍勢を持っていながら、少数相手に苦戦したり、敗走を余儀なくされたりしているんです。兜に愛ですから、手加減したんでしょうか?
◎ 徳川家康から嫌われていた。兼続は、石田三成とお友達だったので、家康とは対立の立場を取った。家康からの度重なる上洛要求も、徹底して拒否した。当然家康は怒った(このことが会津征伐から関ヶ原の戦いへとつながっていく)。

 直江兼続が生きた、戦国時代から江戸時代前期時代は、下克上の乱世。肉親同士でもその命を賭けて争う、親殺し子殺し…苛酷な時代です。その中で、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康が天下盗りに突っ走る。謀略、裏切り、欺き…何でもあり。
 そんな中で、ただ一人、「愛をかかげ、戦国を生き抜いた」。
 …現代も、戦国時代と同じです。謀略、裏切り、欺き。利益の追求が当然の原理とされ「勝ち組」「負け組」の格差が開く一方。そして、そのひずみがさらなる問題を産んでいく。現代の「愛」は、棚の上に揚げられっぱなし。

 兼続は、「愛」をどこから持ってきたか?普通に考えると、「愛染明王」か「愛宕権現」でしょう。
 「義」を突き詰めていって、「愛」にたどり着いたと考えられます。主君への「義」、民衆への「義」、家族への「義」これらの義は全て愛に置き換えられませんか!戦国武将で、残されている記録から「家族愛」を特筆される人、兼続だけでしょう。
 かくして、兜に大きく「愛」の文字を掲げた兼続は、「利」になびかず、「愛」を貫いて行ったのでありました。

 数多ある兼続のエピソードで、特異なものがあります。
 兼続の家臣が下人を無礼討ちした。下人の遺族が兼続に「無礼討ちにされるほどのことはしていなかった」と訴え出た。兼続は、それを了承し、慰謝料を払うと言った。遺族たちは下人を返せと譲らない。兼続は、「下人を返そう。そのほうたちがあの世へ迎えに行ってくれ」と、遺族3人の首をはね、その首を河原に晒した。その横に、「嘆願書 閻魔大王殿 この者どもを使いに出すから死人を返せ 慶長二年二月七日 直江兼続」と書いた立て札を立てた。死人を生かせなどの無理難題を突きつける輩に対しては、それ相当の対処をしますということなのですね。
 
 「常山紀談(江戸時代中期の逸話集。簡潔な和文体です。著者は儒学者湯浅常山)」に、兼続の評価が書かれています。
 「大男にて、百人にもすぐれたるもったいにて、学問詩歌の達者、才知武道兼ねたる兵なり。恐らく天下の御仕置にかかり候とも、あだむまじき仁体なり」
 「長高く容儀骨柄並びなく、弁舌明に殊更大胆なる人なり」
2009年1月から1年間、NHK大河ドラマ「天地人」が放映されます。その主人公が、直江兼続。脚色されて、ほめ讃えられるでしょうが、江戸中期にこれだけ褒められているのって、本物だなあと思います。
 なお、本物の兜の「愛」の字は、薄い銅板製。5~6カ所、小さなビスで兜に止めてありました。大きさは、およそ20cm×20cm。角張った力強い行書体でした。

 上杉神社は、山形県米沢市の米沢城址にあります。現在、米沢城址は、「松が岬公園」となっています。

蝉の声が岩に染み入った山寺

2008年10月17日 | Weblog
  蝉の声が岩に染み入った山寺

 10月12日。山形県をドライブする。どこへ行くか?もちろん「宝珠山立石寺」、通称「山寺」。どうして、お寺なんぞへ行きたいんだ?いつから敬虔な仏教徒になったんだって?家の宗教は仏教には違いないのですが、10月12日は、我が俳句の師匠である、松尾芭蕉の命日だからです。芭蕉の命日と、山寺とどういう関係があるか?芭蕉が、「閑けさや岩にしみ入る蝉の声」の句を詠んだのが、山寺ですから。
 というわけで、JR福島駅西口のホテルを出発。飯坂ICから東北自動車道へ。村田JCTで山形道へ乗り換え、山形北ICで降りる。地道を15分ほど走ると、もう山寺到着。JRも通っている。JR仙山線山寺駅下車、徒歩7~8分で山寺です。

 山寺は、慈覚大師が開山。それだけでありがたくなってしまいます。慈覚大師というと、山寺のほか、瑞巌寺(松島)、中尊寺(平泉)、毛越寺(平泉)、円通寺(青森県恐山)…を開山した、比叡山で最澄に次ぐ高僧ですから。自慢ですが、私は以上の5つのお寺の全てをお参り済みです。ですから煩悩が落ちており、人の悪口など言わないのです。慈覚大師は、実は痔が悪く、「痔核大師」と名乗ろうかと迷った時代があった。などの、でっち上げ話も創作しません。上品ですから。

 さて、鎌倉時代に建てられた山門で、300円の入場料を支払って登山開始。お寺なのに何で登山なんだって?山寺は、その名の通り、山全体がお寺。
 一番高いところに、大仏殿がある奥の院という寺があるが、そこまでの石段は、誰が数えたか千十五段。傾斜も急なので、健康な大人が休みなしで登っても30~40分かかります。一段一段登るごとに煩悩が落ちていく…その通りだと思います。

 すれ違う人々は、異口同音、「膝が笑って…」と、言いながら下りてきます。私は60年生きてきて、膝が笑うのを見たことがありません。
 可哀想なのは、子どもたち。無理矢理登らされる。親たちは、「もう少しだから」と、騙す。良くないですよ。「アイス買ってやるから」う~ん!感心しないなあ。中には、「頑張ればこんにゃく買ってやるぞ!」なんだその励まし方?門前町で、「力こんにゃく」という名で、ピンポン球大のこんにゃくの煮たものを売っていたのです。子どもですから、あれ買って!これ買って!普段見向きもしない玉こんにゃくでも、露店で売っていると魅力的なのでしょう。「もう、もう、いやだー」と、泣いていた子は肥満児でした。

 さて、私はというと、以前(11年前)は、体力に自信もあり、いとも簡単に上り下りしたのですが、今回は病人としての登山。さっぱり近づかない頂上を見上げるたび、くじけそうになりましたが、そこは見栄っ張り。見栄だけで登り切りました。下りの方がきついという声が聞こえていましたが、それは若い人の話。私の齢になると、地球の引力を応用するのが上手になっているため、下りは大変楽です。「老獪」のなせる技です。こう言うあたりがあまのじゃく。 どう見ても、後期高齢者と思われる方々も登っておられました。大変心配しました。煩悩を落とす前に、命を落とすんじゃないかと。幸いにも、私が山にいる間、救急車のピーポーピーポーは聞こえませんでした。いくら、救急車でも、千十五段の階段を上って来られません。もちろん自動車用のバイパスなどありません。救急患者はどうやって下ろすか?担架に縛り付けて人力で下ろすしかありませんね。

 頂上付近で心和むものを発見しました。
1 週刊ポスト
2 郵便ポスト
3 俳句ポスト
4 赤ちゃんポスト
 さて、どれでしょう。正解はこの文章の最後に。

 山寺は、その登っていく道すがらに寺やらゆかりの場所やらがあります。建物の数は、およそ40。大ざっぱですが…山門→根本中堂→姥堂→せみ塚(松尾芭蕉が「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の句を呼んだ)→弥陀洞→仁王門→納経堂→開山堂→華蔵院→三重の塔(高さ約1m。低ッ!)→五大堂(展望できる)→如法堂→中性院→大仏殿・奥の院…。
 それぞれのお寺にお坊さんがおられ(当たり前か)、猫の額ほどの土地を有効活用して野菜を作っているお坊さんもおられました。鎌倉時代には、1,000名を超す修業僧がおられたそうです。慈覚大師の山寺開山のコンセプトは、「明るく正しい人を養成する道場」だったとか…。

 10月12日に、入場料を払って山寺へ登った人は、売店のおばちゃんの発表では、およそ2万人。ピークは、紅葉が見事な11月上旬で、昨年の記録は、11月3日の5万人だそうです。「300円×5万人」、なかなかの売り上げですなあ。

 「閑けさや岩にしみ入る蝉の声」この句、見事です。今は、お参りの長蛇の列で、「喧噪や千切れ途切れの蝉の声」ってところでしょうか(上手いなあ~この句。私の作品です。季語も一つきちんと入っています。体言止めにしてあります)。
 蝉の句は、私の鑑賞では、芭蕉の句ベストテンに入ります。一番は、「蚤虱馬の尿する枕かな(のみしらみうまのしとするまくらかな)」です。なぜその句が芭蕉の一番か?奥の細道で馬小屋に泊まった芭蕉。蚤と虱に悩まされ、さらに枕元で馬が小便をする。しぶきが顔にかかってくる。汚い句だって?とんでもない。馬小屋で寝ている自分を、別のカメラから見ているのです。苦境にある自分を、冷静に見て笑っているのです。おもしろがっています。マゾヒストではありません。これこそが、芭蕉の俳句作法なのです。蚤虱の句はその典型です。なお、これはあくまで還暦パパの評論です。高名な評論家のパクリではありません。還暦パパ論をパクッて、けちょんけちょんにやられても一切の責任は負えません。私的には、大いに自信がありますけどね!

 山寺への途中、法定速度厳守で私が口ずさんでいた歌は、「山寺の和尚さん」。知らない人が多いでしょうが…歌詞は次の通り

 山寺の和尚さんが
 毬(まり)は蹴りたし 毬はなし
 猫をかん袋に 押し込んで
 ポンとけりゃ ニャンとなく
 ニャンがニャンとなく ヨイヨイ

 山寺の狸さん
 太鼓打ちたし 太鼓なし
 そこでお腹(なか)を チョイと出して
 ポンと打ちゃ ポンと鳴る
 ポンがポンと鳴る ヨイヨイ

 てっきり、宝珠山立石寺つまり、山形の山寺の和尚さんの歌かと思ったら…通称山寺は、千葉、京都、福岡…あちこちにあることが分かりました。猫を紙の袋(かん袋)へ入れて蹴って遊んだのはどこの和尚さんか?立石寺の和尚さんではなかったです。
 この歌の和尚さんは、福岡の大生寺の和尚さんのようです。宮崎の寺へ修業に行き、厳しさのあまり禅病(いわゆるひとつのノイローゼというか精神障害)に罹患。その狂態の様を、「猫を紙袋に押し込んで蹴って遊んだ」と、表現されてしまった。その後、大生寺に戻り、6年の修業のち禅病を克服。すさまじい話ですが、結果が良かったので安心。歌詞から、「動物虐待だ」などと早計な批判はできませんね。二番の狸の方は、メタボリックシンドロームへの警鐘だった…んなわけないか。

 クイズの正解は、2の郵便ポストです。ポスト所在地は、「郵便番号999-3301 山形市山寺4456-3 中性院」1日1回の集配です。「集配?集は、ポストがあるぐらいだから分かるが、配達もあるのか?」先述の通り、麓から千段も上の寺に住んでいる坊さんがおられるのです。集配は、「日本郵便山形支店」と、ポストに書いてありました。しっかりメモしてくる私って一体?このように、日常にある非日常が大好きなんです。99人が、「嘘だ」と感じても、実際は本当というのは痛快です。
 おそらく、日本郵便山形支店では、山登りに強い職員をセレクトして、山寺の担当者にしているでしょう。毎日、山寺往復では、いくら「力こんにゃく」を食べても疲労困憊ですよ。ポストへの投函は、きっと、特別な消印を捺してくれるのでしょう。確認していませんが。そのことを知っている人なら郵便物を持って登って投函しますね。郵政民営化後のサービスなのか、以前からそこにポストがあったのかは不明です。

 山寺、下山後の晴れ晴れした気分は何か?どっぷり汗をかいたからです。人は心のどこかで、腹の周囲の脂肪がストレスになっているのです。山寺を制覇した成就感、達成感、効力感はそのストレスを雲散霧消にしてくれるのです。
 慈覚大師の山寺開山の理念、「一段一段登るごとに、欲望や汚れを消滅し明るく正しい人間なろうとする所」…私は、前から明るく正しかったので、特に変化はなかったですけど。

鶴ヶ城 難攻不落の謎

2008年10月16日 | Weblog
  鶴ヶ城 難攻不落の謎

 鶴ヶ城といえば白虎隊。白虎隊は戸の口原で奮戦した。奮戦…は、美化した言い方、火力、つまり鉄砲を持たない14歳~17歳の子どもたちですよ、奮戦できるはずがない。「刀VS鉄砲」、死にに行くようなものです。それでも行った…子どもたちが。隊員のうち、20名が隊長とはぐれてしまい…はぐれる?迷子になるってこと。20人は戦場をさまよい、ようやく飯盛山に辿り着いた。飯盛山から鶴ヶ城が肉眼でもよく見えます。逆に、鶴ヶ城から飯盛山がよく見えます。その名の通り山の形状が、てんこ盛りの御飯状態ですね。白虎隊は、武家屋敷が燃えるのを、鶴ヶ城落城と誤認し、「敗戦なら生きて還るわけにはいかない」…その場で、20名全員が集団自決(一人蘇生)。

 会津若松を訪れて、鶴ヶ城をスキップ出来ない…しかし、お城なんてどこも同じ、外見は往時の面影を残していても、中は博物館。展示品は、似たり寄ったり。大きな期待は持っていなかった。
 ただ…どうして、難攻不落だったのであろうか?戊辰戦争でも燃やされていないどころか、一人の敵兵の進入も許していないのですから。不勉強なのかもしれないが、このことについて書いてあるものにはまだお目にかかっていない。もっとも視点が違うというか、そんなことを気にする人がいないってことでしょうか。
 
 鶴ヶ城は、若松城が正式の名前(国の史跡としての指定名称)なのですが、鶴ヶ城の方が通りが良い。そのほかに、会津若松城とか黒川城の呼び名がある。1593年に、城主の蒲生氏郷(がもううじさと)が、鶴ヶ城と名づけた。なぜ、「鶴」なのかの理由については不明となっている。所在地は、福島県会津若松市追手町。
 築城当時は、黒塗り。その後、白塗りに変えた。そのあたりで、「鶴」がイメージされたのであろうか?
 また、誰も唱えていない説でしょうが、還暦パパの調査によると、「亀ヶ城」があるんですよ。猪苗代城(いなわしろじょう:福島県耶麻郡猪苗代町)の別名が、なんと、「亀ヶ城」。湖を挟んで、「鶴と亀」。時間的にもほぼ符合。なぜ、鶴ヶ城としたかの答えとして、「亀ときたら、鶴だべ」…いい線いってると思いますがね。

 これまで、26ほどの日本の城を見てきました。印象深かったのは、世界遺産「姫路城」…外観がすこぶる美しい。内部が、往時そのままで保存されてあり、侍や忍者が出てきても不思議がない雰囲気。実に興味深かったです(昭和の大修理直後。高校3年生の時に行きました。古ッ!)。大阪城は、石垣がアンビリーバブルでした。「巨大な石、どうやって運んだのだろうか?ピラミッドの石より大きい」クレーンも大型ダンプもない時代に、大阪城をつくったのです…。

 期待していなかった鶴ケ城。外観と城域に、「凄い城だなー」と、感じました。日本有数の城郭といえますよ。
 外観は、「中国の元(げん)時代のデザインの流れだ」と、見抜きました。紫禁城太和殿と似ているのです。「また、奇想天外な!それは、考えられない」と、思われるかもしれませんが、自信があります。1384年に築城ですが、1592年、蒲生氏郷(がもう うじさと)が近世城郭に大改造した、というか建て直したのです。蒲生氏郷はキリシタン大名で、クリスチャンネームは、レオンまたはレオだった!ハイカラなものです。会津若松市内の循環バスが、「ハイカラ号」というのですが…無関係ですね。レオンの目は、世界へ向いていた。レオンは、当然、紫禁城太和殿など、当時の中国の城のデザインは知っていたでしょうから、取り入れたとして何の不思議もないです。

 中はお決まりの博物館で、「ああそうですか」っ感じ。大したことないだろうという予測を裏切ってくれたのが、城域。石垣や土塁がよく残されておりました。水堀も現存。さらに、内郭と外郭の間に16の門を構え、延々10kmにもおよぶ水堀・土塁で囲んだ惣構えの広大な縄張りからなっていました。もちろん縄張り内は、戊辰戦争当時からあったと思われる樹木がうっそうと立ち並んでおります。その広いこと。今は、城域のあまりの広さに管理できなくなったためか、テニスコートにしたり、公園にしたり、県立博物館にしたり贅沢に使っています。

 さて、「鳥羽伏見の戦い」でその火蓋が切られた「戊辰戦争」。「奥羽越列藩同盟」もむなしく、新政府軍の標的とされ、城下へ突入された鶴ケ城。昼夜を問わず砲撃にさらされる熾烈な戦い。一ヶ月に及ぶ篭城戦に耐えた孤塁の堅城。
 なぜ、難攻不落だったか?私の結論は二点です。
1 盤石かつ大規模(10km)な、石垣、土塁。干上がることがない水堀。内郭と外郭の間の堅牢な門(16門)。敵の動きがよく見える広大な縄張り。
2 士気。白虎隊の陰に隠れてはいるが、50歳以上で構成された、玄武隊もあった。ほかに、朱雀隊、青龍隊、幼少隊…。とにかく、使命を全うするためなら自分の命は惜しまない。この強固な意志で戦われては、板垣退助が攻めきれなかったのも当然。

 会津武士道のほまれ、会津藩士たちの魂を支えた堅牢優美な鶴ケ城。往時の面影を今にとどめています。

戊辰戦争の生き残り 大内宿

2008年10月15日 | Weblog
  戊辰戦争の生き残り 大内宿

 ヨーロッパには、中世のたたずまいを残した町がそれはそれはたくさんあります。石の文化ですから朽ちることはないわけです。日本の場合、紙と竹の文化ですから、江戸時代の建物など保存は大変です。
 江戸時代の町並みを保存(再現のケースも含め)している所は何カ所かあります。そのひとつが、大内宿です(おおうちじゅく。「しゅく」ではなく濁って「じゅく」)。住所は、福島県南会津郡下郷町大内。今市市から会津若松市に通じる旧会津西街道、別名下野街道、通称南山通りとも…に沿った山間の平地(やや傾斜)にあります。アクセスは、国道121号線の湯野上温泉から車で10kmほど山へ入った所。戊辰戦争の大激戦地のひとつでもありました。焼き討ちを免れたのは、遠隔地の山間が幸いしたと思われます。

 塔のへつりから大内宿へ向かいました。20分で着くよていでしたが…あと、3kmというところで、渋滞。数分止まって、5mほど動く…何時になったら到着するか先が見えない。このようなとき、人間はどういう行動に出るか?観察の結果、大きく次の三パターンがあることが判明。
1 あきらめて、Uターンして帰ってしまう
2 車を、放棄して歩き始める
3 辛抱強く、止まって少し動いて…を繰り返す
 困るのは、オヤジの立ち小便。同じオヤジの一人でも、見たくないですよ。「お!車を放棄したな。歩くつもりだな」と、見るや…おもむろに立ち小便。長蛇の列の観衆…衆目監視の中、開き直りともとれる。用が終わると、わざとに(私が細かく観察したところでは、わざとと受けとれる)体じゅうをゆさ振っている。「もうやめろ!」と、言いたくなるほど…。奴さん、やけになってるな。広辞苑の、「羞恥心」のページを破り捨ててこの旅へ出てきたのだろう。一人やると、「連れ○○」で、別の車からも降りて用を足す。オヤジの特権みたいなもので、オバサンは降りてこなかった。観光バスも、もちろん渋滞に巻きこまれている。トイレの無いバスばかり、乗客はどうしているのだろうと心配になる。まさか、膀胱容量の大きな人ばかりを募ったツアーでもあるまい。私の場合、550ミリリットルぐらいまでなら我慢できる。自慢ネタに事欠くと、膀胱容量まで持ち出して自慢!これも、数か月後には、600ミリリットルに膨張するかもしれませんので要注意。

 あと、2kmのところまできた。このまま行くべきか?車を放棄して歩くべきか?得意の判断力も発揮できない。残り1kmのところで決心した。路肩に余裕がある場所に車を放棄して、歩きだした。私のマネ(?)をして、路肩に停め歩きだす人が続出。気がつくと、水戸黄門御一行よろしく、私の後ろに列が出来ていた。いつのまにか、「人生楽ありゃ苦もあるさー…」との大合唱…と、いうことはなかった。20分の予定が、90分かかって、目的地「大内宿」へ到着。

 全長約400mの道の両側に、「寄棟造、茅葺」の家がほぼ等間隔に並んで、江戸時代の宿場町を見事に保持していました。「伝統的建造物群及びその周囲の環境が地域的特色を顕著に示している」として、重要伝統的建造物群保存地区となっている。これは、宿場町としては妻籠宿(長野県)、奈良井宿(長野県)と並ぶものです。昨年、小泉純一郎さんも訪れたということで、そのときの写真を誇らしげに縁側に出しているお宅もありました。小泉さんが、煎餅を買って食ったという煎餅屋には、人の列が。
 道の両側に水路があり、ラムネやら、何やらの清涼飲料水を冷やしていました。

 昼食は、「そば」と決めていました。それも、「ネギ一本で食べるそば」。大内宿ならではのそばで、箸の代わりに、ネギが一本。そのネギを箸がわりにしてそばを食べる。時々、薬味として、そのネギをかじる。目当てのそば屋を発見!
「注文いただいてから、一時間半ほどお待ち願います」
・・・渋滞の中、膀胱をぱんぱんにしてまで頑張ってたどり着いたのに、ネ、ネ、ネギ一本で食う、そんな曲芸みたいなそばのために、さらに90分待つのか~!そこはさっさと失礼して、普通に箸でそばを食うそば屋へ入った。
 仲居さんに、「おすすめのそばは?」と訪ねると、「くるみそばか、高遠(たかとう)そばですね」もちろん両方注文。さらに、「10年味噌だんご」と「トチの実だんご」も注文。こうなったら、血糖値もヘチマも関係ない。
 くるみそばは、ツケダレにくるみをすり下ろしたものを入れて食べる。高遠そばは、大根おろしの絞り汁に生醤油で味付けをしたものをツケダレにして食べる。きわめて旨いわけではないが、初めてなのでそれなりに良かった。だんごは、期待通り旨かった。

 大内宿には、意見がある。ドーしようもないことかもしれないが、感想として述べさせていただく。
 茅葺き屋根の建物が緩やかな傾斜地に、整然と並んだ様、素晴らしい景観です。江戸時代に栄えた宿場町。見事に保存してあります。
 しかし、BUT! どうして、建物のほぼ全てが、土産物屋と食堂…つまり、商店なんだ?宿場町なら、旅籠、番屋、置屋、着物・履物屋、醤油屋、豆腐屋・・・あったでしょう。それらを生かして、江戸情緒を楽しみながら歩ける町にしてほしかった。現状は、町並みを見て、食事して、お土産を買って、帰りがけに小用を足して帰る。皆さん、膀胱パンパンにして来るんだから、それだけではあまりにも寂しい。「町並み展示館」もあるが、250円払って、いろりを見せてくれる・・・それって、入館料を徴収して見せるものかね!昼食を食べた、「山本屋 金太郎そば」といういうそば屋では、立派な和室のいろりで、本物の火を焚いて、炉端でだんごをあぶってくれたわ!町並み展示館!何を考えとるんじゃ!責任者を出せ!

 ともあれ、静かな山間に江戸時代の宿場町の風情を残す「大内宿」景観は素晴らしいです。住民は、この風景を守るために土地を大手不動産業者等へ、「売らず、貸さず」を貫いているそうです。
 景観の保全の資金にするため、駐車場を有料にしているのだそうです。と、いうことは、道端に車を放棄(停めて)して、さっさと観光してしまう人は…はい、大変失礼いたしました。

塔のへつり

2008年10月14日 | Weblog
   塔のへつり

 「塔のへつり」へ行ってきました。
 福島空港で車を借り、国道118号線を西へひたすら走る。空港から68kmですが…山を越えるので、国道とは名ばかり、「酷道」でした。舗装はしてありましたが、自動車教習所のS字カーブの連続、しかも急傾斜S字の箇所も…。スキーでいうと、スラロームです。下り始めると、羽原湖という人造湖へ出る。ここで、「ホッ!」としてさらに下り続ける。湯野上温泉で、国道121号線へ乗り換えて、南下。空港を出ること2時間で、塔のへつりに到着。

 塔のへつりは、川によって浸食された地形の特異なものとして、国の天然記念物に指定されています。川は、阿賀川。地元(福島県会津地方の南会津東部)
では、「大川」と呼んでいました。阿賀川が新潟県に入ると阿賀野川と名を変える。境界を越えると名が変わる。ドナウ川、ダニューブ川と同じケース。会津ともなると、川のネーミングも国際的。

 「へつり」とは何ぞや?地元の言葉で「険しい崖」。塔は、その名の通り「タワー」です。
 会津鉄道会津線の塔のへつり駅(無人駅)近くの林の中に車を止め(林の中なので、無料。後学のために…有料駐車場は、ありません。じゃまにならないところへ駐車すれば良い。皆さん林の中に…)、塔のへつり見物へ。徒歩3分で、土産物屋、休憩所が並ぶ開けた場所に到着。だんごやら、きのこ汁に目を奪われる…食べ物が無い時代に育ったので、「だんご」とか「まんじゅう」は、お正月にしか食べられない縁遠い存在でした。「今なら、貯金を下ろしてきたので食べられる。しかし、血糖値のこともあるし…」生唾を飲みながら、まずは目的の塔のへつりへ。

 出た!全長およそ250mにわたって、水面からの高さ、100m~150mの岩がそびえ立つ。その数、(大小合わせて)およそ10。主なものには、名前が付いている。屏風岩、烏帽子岩、護摩塔岩、九輪塔岩、櫓塔岩、獅子塔岩、鷲塔岩など。これらが、「塔」。どこにでもあるような名前。100万年かかって、水と風に浸食されてできあがった絶景ということで…名前が古めかしくてもいいことにします。
 では、「へつり」はどうなっているか…塔の足元が、川の浸食でえぐり取られている。高さ、3mぐらいの半洞窟が200mにわたって断続的に続いている。この世に、このような自然が作り上げた奇岩があるのか!と、驚かされます。似ても似つかないのですが、トルコのカッパドキアを連想しました。通じるものがあると思います。 
 吊り橋を渡り、へつりを散策できますが、危険箇所が多いためか規制されており、散策路はほんの少し。一歩間違うと、5mほど下の川へドボーンという箇所も。水が茶色のため、水深は分からないが、そそり立つ岩の基礎部分が隠れている所から、5~10mはあると思われます。

 塔のへつりを堪能させていただき、だんご屋へ。だんごも豊富。季節柄、きのこも豊富。栗も豊富。栗は、「ドン」の機械で焼いており、焼き上がったところで、釜を開ける。気圧の関係で、「ドーン」という音と共に釜が開くのですが、このとき栗の皮がはじけて割れる。大変食べやすい。この栗、「びっ栗」という商標で、500g500円。大きな栗です。もちろん、買いました。60年の人生で、このときほど大量の栗を食べたことはありません。

 びっ栗以上にびっくりしたのは、「まむし(蝮)」を売っていることで…どうして塔のへつりでまむしか?蝮は、日当たりの良い岩場が好きなので、たくさん住んでいるのでしょう。1本のペットボトルに1匹入れられたまむし。その数40~50本。何とか脱出しようと、もがいていました。生きたまむしのほか、酒に漬けたものや干したものも売られていました。干したものは、1本3,000円でした。味は…ない…紙を噛んでいるようなもの。干鱈や氷下魚の方がずっと旨い。まむしを食べて元気になる?なるわけないでしょう!それは思いこみ。

 塔のへつり…絶景でした。11月上旬は、紅葉でさらに良いでしょう。

未必の故意 毒草栽培

2008年10月10日 | Weblog
   未必の故意 毒草栽培

 よそ様の庭に、見事なエンジェルトランペットがありました。我が家もマネして購入したのが4~5年前。今年は、花をたくさんつけました。エンジェルトランペットに適した気象だったのか、どちらさんのエンジェルトランペットも良く咲いたようでした。新聞にも、「○○宅、見事なエンジェルトランペット」などの見出しで、写真入りで紹介されていました。
 晩夏に、害虫が異常発生し、通常虫の害が無い「青じそ」や「パセリ」まで、葉脈だけを残して食い荒らされました。しかし、エンジェルトランペットは無傷。虫にも、病気にも強い花です。

 勝手に生えてきた草花がありまして…ドンドン大きくなって、白い見事な花を咲かせました。花は、エンジェルトランペットにそっくり。幹も葉も、良く似ています。散歩の人も足を止めるほどの花で、自分が植えたわけではなかったのですが、内心自慢しておりました。花が終わると、実をつけました。実は、「バフンウニ」と形状がそっくり。チョウセンアサガオという名前らしい所までは分かっていました。

 宇江佐真理の随筆に次のようにありました(時代小説家ですが、随筆も書く)・・・
 (前略)町内の人が道路沿いにパンジーやベゴニアの植木鉢を並べて通り過ぎる人の目を楽しませているが、その中にチョウセンアサガオがあって驚いたことがある。チョウセンアサガオは、かの華岡清州が日本で初めて麻酔を使った手術を成功させたとき、麻酔薬の元となった植物である。別名を曼荼羅華(まんだらげ)。全草に猛毒がある。(後略)
 「ゲェー!こりゃ大変だ」と、調査隊を臨時招集。調査の結果、猛毒情報が出てくる、出てくる…

 チョウセンアサガオは、全体が毒。しかも猛毒。間違って食べてしまった場合の症状は…妄幻聴、頭痛、めまい、意識喪失、呼吸停止、興奮、錯乱、炎症、悪夢…苦しんで暴れまわるさまから、「きちがいなすび」とも呼ばれているのだそうで…幼児の、致死量は4~5g。樹液が目に入ると、失明の恐れがある。
 華岡青州が世界で始めて、全身麻酔で乳がんの手術をしました。そのときの麻酔「曼陀羅華(まんだらげ)」は、チョウセンアサガオの葉を乾燥したもので、「通仙散」の処方に含まれている。
 曼陀羅華は、鎮痛、鎮痙(ちんけい)、咳止めに劇的に効くのだそうだが、毒性があまりにも強いので、今は使用が禁止されている。
 エンジェルトランペットは、チョウセンアサガオの一種で、観賞用として広く栽培されるようになったが、毒草として扱われている…。似てるはずです。

 とんでもないものを栽培していた。大麻などのレベルではない。
 さあこれからどうするか?切り倒すにしても、触らなければならないし、切ったときに樹液が体にかかったり、目に入ったり・・・。切り倒したとしてもその後の処理をどうする?
 バフンウニ状の実を盗まれ、殺人に使われたらどうする?実の中にある、ソバのような種は、犯罪に使いやすい…。久しぶりに困りました。

 宇江佐真理を読まなければ、何事もなく、「笑って、愚痴言って、悪口言って、ホラ吹いて、自分でボケて自分でツッコミを入れて」平和に過ごせていたはずなのに。現在は、数十人の幼児を死に至らしめる量の猛毒草を持つオヤジとなっている。最近しばしばパトカーが我が家の周囲を警邏しているが、監視されているのかもしれない。
 …猛毒草の栽培…犯罪になるのかねえ?逮捕された場合、「あいつが勝手に生えてきたんです。頼みもしないのに。だから無罪にして!」と言い訳しますが、それが通るかどうか。

 トリカブト(鳥兜)とキョウチクトウ(夾竹桃)が猛毒だとは知っていました。キョウチクトウの枝をバーベキューの串にして7人も死んでいます(フランス)。アジサイ(紫陽花)、スイセン(水仙)、スズラン(鈴蘭)、彼岸花も毒を持つのだそうです。
 ちなみにチョウセンアサガオの花言葉は、「偽りの魅力」エンジェルトランペットも同じ。なるほど、「偽りは毒」納得。

 再認識したことは、「虫が食う野菜・果物は安全」ということです。野菜・果物を買うときは、虫食いの跡が選択のポイントですね。しかし、虫食いは市場へは出てこない。農薬が効いているため虫も食わない野菜・果物を、一般消費者が食べ、生産者が市場へ出せない虫食いの安全なものを食べている?
 ひらめいた!輸入農産物の検査・検疫・・・虫を放って、食べるか食べないかを見る。安全確保はこの方法!いいんじゃないでしょうか!

手続きを人に任せて、何が留学だ! 

2008年10月09日 | Weblog
   手続きを人に任せて、何が留学だ! 

 留学仲介業者のゲートウエイ21が、東京地裁に破産を申し立てた。負債総額は約12億9千万円。留学予定者約1,300人が支払った前払い金計約9億5千万円の返還はほとんど見込めない。
 留学予定者ら債権者を対象にした説明会が都内で開かれた。ゲートウエイ21の社長が冒頭で謝罪、今後の対応を説明した。よく説明会を開いたものです。人前に出ないのかと思いましたが…。説明したところで、何らの進展もないのですがね。当然、参加者からは「納得いかない」「金返せ」「詐欺だ」などと厳しい発言が相次いだ。社長は、土下座して、「申し訳ない」と繰り返した・・・何のために出てきたのかね?この社長。贅沢三昧で、大変な浪費をくりかえしていたとの証言もありますが。

 人から、金を集めておいて「破綻しました。お金は返せません」これは、犯罪です。ゲートウエイ21は、間違いなく悪いです。

 被害者は、「家族を壊してまで、ここまでたどり着いたのに…」「退職して134万円を払い込んだ…」「人生の転機にしようと、少ない収入から毎月2万円をコツコツと貯め、189万円を支払った(34歳の男性)」
 夢を食い物にした。この罪は重いです。社長が土下座して謝り、起訴されたとしても、「お金」も「壊れた家族」も「辞めた会社」も「そのために費やした膨大な時間」もかえってきません・・・。

 さて、ゲートウエイ21は確かに悪い。それはそれとして…
 自分で手続きも出来なくて、何が留学ですか!小学生、中学生じゃないんだから!それぐらいの基礎的な語学力が無いのなら、留学など無理ってことでしょう。観光旅行へ行くんじゃないんだから。もっとも、遊びで、ウロウロしている日本の若者は、世界中にうじゃうじゃおりますが。

 被害者を鞭打つのかって?今はすでに別の話をしているのです。留学するのなら、「他人に手続きしてもらうなよ!誰が留学するんだ!」と、いう話です。

 アメリカ留学を例にとると、ESLという語学学校だけで、約全米50都市にあります。直接ESLへ申し込めばいいのです。申込のフォームまでインターネットですぐに出てきますよ。ESLの場合は、日本にも事務所を持っています(新宿、札幌、名古屋、福岡)。ESLの回し者ではありません。実際、ESLに学生を紹介し、成功した経験があるので例として出しました。
 ESLと連絡を取り、ビザ取得の書類をもらって学生ビザを取れば良いのです。そのビザで、ESLのみならず、その先の大学卒業まで滞在できます。ESLを卒業すると、ESLと提携している大学に無試験で入学できます。厳密な言い方をすれば、9グレード修了ということなのですが、それ以上のグレードがないので卒業としました。入学の時にテストがあります。その結果、いきなり9グレードから始めてOKとなれば、卒業まで最短で約1か月です。通常それは無理です。かなり英語が出来る人でも3か月程度はかけた方がよいです。なぜなら、ESLから大学へ入って、大学の講義が聞き取れなければお話になりませんから。耳を慣らすには、3か月は必要。全く英語がゼロの人も入学できます。入試はありませんし、入学のための基礎資格もありません。どのグレードから始めるかのテストはあります。日本で高校を卒業していれば、5~6グレードへの入学可でしょうが、私は、3グレードあたりから始めた方が良いと思います。大学の講義を聴き取るのは、半端なものではありませんから。英語力ゼロ、つまり1グレードから始めた場合、卒業となると9~12か月かかるかもしれません。日本人は、中学校から英語を学んでいるので、英語ゼロで入学する人はいませんが、外国の人は結構多いです。

 ボストンのESLの場合、9グレードを終えると、マサチューセッツ州立大学ボストン校へ無試験で入学できます。北大農学校の副校長だった、クラーク博士(Boys Be Ambitious「少年よ大使を抱け」の先生)は、マサチューセッツ州立大学アムハースト校の出身でした。いい加減な大学と、金儲けのために提携しているわけではないということです。こういうところが信頼できるのがアメリカです。少しでもおかしなことをすれば、訴訟ですから。この度のゲートウエイ21のようなことは、「ありえない」のです。

 これから留学しようとする人は、自分で手続きしてください。アメリカの大学卒業で、日本の公務員試験を受けられるようになっていますし…