明治時代の歴史家重野安繹(しげのやすつぐ)博士の「木曽義仲の松本成長及佐久挙兵説」(昭和8年発刊松本市史P103~P105)
がとても興味深い。
武蔵国から母小枝御前ともに逃れてきた駒王丸(義仲幼名)が松本で成長したとする理由は
育ての親中原兼遠は当時信濃国権守(ごんのかみ、いわば副知事)であり
「国府たる松本にありて信濃国中の政務を執りしなり」と松本に館があったと思われる。
今日の木曽谷と称するところは当時は人跡稀なるところで人を教育成長させられるようなところではなかった。
「何を苦んで人跡稀なる木曾山中に育てんや」
鳥居峠を開き驛路を設け人が住めるようになったのはもっと後年のことだ。
義仲四天王の今井兼平、樋口兼光は中原兼遠の子息でそれぞれ今井村、樋口村におり義仲と成長を共にした。
中原娘の巴御前(実在は?)も義仲と「振分髪の昔より馴れ染めたるものなり」
とお互い行き来できる距離であったのだろう。
駒王丸を追討しようとした悪源太義平については
「義平が義仲を左程厳重に捜索せざりしは其時の事情に依て明らかなり」
などと説いた。
という訳でわざわざ現在の木曽谷あたりに隠れ住む必要はなかったということだ。
「平家物語・延慶本」には「信濃国安曇郡木曽、木曽の山下で木曽仲三兼遠が育てた」
「吾妻鏡」には「中三権守兼遠は義仲を抱いて信濃国の木曽に逃れ」とある。
当時奈良井川は木曽川と呼ばれ明治7年に奈良井川に改名されたようだ。
更に鳥居峠以南は美濃国だったそうだ。
となると、朝日村や小曽部辺りも木曽に括られていたのだろうか?
小曽部は木曽部から転訛したとの説がある
この辺り当時はかなり辺鄙な所だったであろうから隠れるにはちょうど良いし
今井村の兼平や兼光とも容易に行き来ができる。
朝日村の光輪寺始め近隣には義仲にまつわる言い伝えがいろいろあるし
松本の神社、寺にも義仲の子供義高(清水冠者義高)に関する口伝(?)がいくつかある
また義高の住んでいた屋敷は清水にあったとされる。
俗説では義仲は木曽の山猿で京都上洛後狼藉略奪をしたと言われているが
それも負ければ賊軍として後年刷り込まれた虚像のようだ。
松尾芭蕉や芥川龍之介も惚れた木曽義仲
歴史的資料が少ないので諸説あるが松本成長説を信じつつ汚名返上を願う。
がとても興味深い。
武蔵国から母小枝御前ともに逃れてきた駒王丸(義仲幼名)が松本で成長したとする理由は
育ての親中原兼遠は当時信濃国権守(ごんのかみ、いわば副知事)であり
「国府たる松本にありて信濃国中の政務を執りしなり」と松本に館があったと思われる。
今日の木曽谷と称するところは当時は人跡稀なるところで人を教育成長させられるようなところではなかった。
「何を苦んで人跡稀なる木曾山中に育てんや」
鳥居峠を開き驛路を設け人が住めるようになったのはもっと後年のことだ。
義仲四天王の今井兼平、樋口兼光は中原兼遠の子息でそれぞれ今井村、樋口村におり義仲と成長を共にした。
中原娘の巴御前(実在は?)も義仲と「振分髪の昔より馴れ染めたるものなり」
とお互い行き来できる距離であったのだろう。
駒王丸を追討しようとした悪源太義平については
「義平が義仲を左程厳重に捜索せざりしは其時の事情に依て明らかなり」
などと説いた。
という訳でわざわざ現在の木曽谷あたりに隠れ住む必要はなかったということだ。
「平家物語・延慶本」には「信濃国安曇郡木曽、木曽の山下で木曽仲三兼遠が育てた」
「吾妻鏡」には「中三権守兼遠は義仲を抱いて信濃国の木曽に逃れ」とある。
当時奈良井川は木曽川と呼ばれ明治7年に奈良井川に改名されたようだ。
更に鳥居峠以南は美濃国だったそうだ。
となると、朝日村や小曽部辺りも木曽に括られていたのだろうか?
小曽部は木曽部から転訛したとの説がある
この辺り当時はかなり辺鄙な所だったであろうから隠れるにはちょうど良いし
今井村の兼平や兼光とも容易に行き来ができる。
朝日村の光輪寺始め近隣には義仲にまつわる言い伝えがいろいろあるし
松本の神社、寺にも義仲の子供義高(清水冠者義高)に関する口伝(?)がいくつかある
また義高の住んでいた屋敷は清水にあったとされる。
俗説では義仲は木曽の山猿で京都上洛後狼藉略奪をしたと言われているが
それも負ければ賊軍として後年刷り込まれた虚像のようだ。
松尾芭蕉や芥川龍之介も惚れた木曽義仲
歴史的資料が少ないので諸説あるが松本成長説を信じつつ汚名返上を願う。
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