噛みつき評論 ブログ版

マスメディア批評を中心にしたページです。  姉妹ページ 『噛みつき評論』 もどうぞ(左下のBOOKMARKから)。

トヨタが受けた風評被害

2010-07-26 10:00:03 | Weblog
 7月14日頃、トヨタ車の急加速事故は大半が運転ミスによるものだったという報道がありました。ただし、年初の洪水のような報道に比べるとごく「控えめ」なものでした。以下は同日の毎日JPの記事です。

『米紙ウォールストリート・ジャーナル(電子版)は13日、トヨタ自動車の急加速問題で、米運輸省道路交通安全局(NHTSA)がトヨタ車を調査した結果、急加速による事故の原因は大半がドライバーの運転ミスだった可能性が高いことが分かった、と報じた。

 NHTSA関係者の話として報じたもので、事故を起こしたトヨタ車から数十台を選び、車載の事故データ記録機(EDR)を解析した結果、大半の事例でアクセルが全開の状態だったほか、ブレーキも使用されていなかった。NHTSA関係者は「ドライバーがブレーキを踏もうとして誤ってアクセルを踏み込んだことを示している」と分析したという。

 (中略)米科学アカデミーへのNHTSAからの報告によると、トヨタ車の欠陥が原因で死亡事故につながったと立証できたケースは、これまでのところ昨年8月にカリフォルニア州で高級車レクサスが暴走し、乗っていた一家4人が死亡した事故の1件だけだという。

 ただし、アクセルペダルが戻りにくくなっていた欠陥とフロアマットに引っ掛かるケースは、急加速の原因につながっていた可能性があり、NHTSAは今後も調査を続ける。

 トヨタ車の急加速問題をめぐっては、米議会から「速度を調節するための電子制御スロットルシステム(ETCS)の欠陥が原因ではないか」との指摘が出ていた』

 より重大な問題である電子制御スロットルシステムに欠陥が見つからなかったことが判明したことによって、トヨタにかけられていた疑いの根拠の多くが失われたということになります。むろんフロアマットなどの問題が残りますが、全体の信頼性という点では年初での認識と大きな違いがあります。

 年初の派手なリコール報道によってトヨタ車への信頼度は大きく低下しました。その時流に乗って、多くの評者達はトヨタの利益重視のためだとか、世界一という驕りがあったとか、まことしやかな解説をし、メディアはそれらを好んで取り上げました。これらの「解説」はトヨタの品質に問題があるという前提でなされたものですが、その前提の多くの部分は失われたことになります。改めて高尚な「解説」を伺いたいものですが、何も聞こえてきません。

 派手な報道によってトヨタの信頼が大きく傷ついたのは否定できません。トヨタに不利な情報を大きく取り上げるなど、情報の「編集」が行われたかどうかはわかりませんが、結果として、センセーショナルな報道は誤った認識を生みだしました。ブレーキを踏んでも急加速したといった、実際は根拠のない事実を繰り返し大きく報道することによって事実と思わせてしまったわけです。

 この度の、急加速事故の大半が運転ミスによるものだったという事実の判明は、誤った認識を改める絶好の機会なのですが、報道はウォールストリート・ジャーナルやフィナンシャル・タイムズの記事を紹介するだけの簡単なものがほとんどです。

 大騒ぎを引き起こした原因が実は間違っていました、と認めたくないとは思いますが、メディア各社には報道によって傷つけたトヨタの信用の一部を回復させる責任がある筈です。

 根拠のない報道によって信用を傷つけ、損害を与えたわけですから、それをふれまわった時以上の努力でもって回復に努めるのがまともな人のやり方です。いつものことながら、風評被害に対する責任感の乏しさ、そしてメディアの驕りを感じる次第です。

口蹄疫、英・蘭では殺処分以外の方法

2010-07-22 10:49:15 | Weblog
 今回の口蹄疫の流行のために殺処分された家畜は6月末で約27万6,000頭に達したとされています。農家の方々の無念さ、および処分を実施された方々の苦労は想像を絶するものがあると思われます。処分の様子を見て、肉を食べることにためらいを感じた方も少なくなかったのではないかと思います。

 一方、口蹄疫は2週間ほどで自然に治癒するとも報道されていたので、なぜあれだけ広範囲に殺処分をする必要があるのか、という疑問を拭えませんでした。しかしマスコミは広範な殺処分に何の疑問を抱かなかったようです。

 ところが、広範な殺処分以外の方法があるという記述を見つけました。厚生労働省の医系技官、木村盛世氏のサイトです。木村氏は新型インフルエンザの際、ものものしい水際作戦の無意味さを指摘した方であります。以下、私が言うより信用度が高いので、当の木村盛世オフィシャルWEBサイトから要点を引用します。(FMD=口蹄疫)

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【FMDの特徴】
1.蹄が2つに割れている動物に罹る、感染力(他にうつす力)が強い感染症
2.牛の成体の場合、死に至ることは殆ど無く、通常動物は2週間程度で回復する(豚は牛よりも致死率が高い)
3.罹った動物の他、carrierと呼ばれる生物や風等、不特定多数によって伝搬されるため封じ込め不可能
4.人にうつったという報告はない
5.感染した動物を食べても人には影響ない
6.治療法はない
7.ワクチンは100%の効果無し

FMDに罹った動物は痩せて、商品価値がなくなると言われている。報道にも「蔓延すれば畜産業界に大打撃を与えかねない」とあるが、実際に殺処分がメインに行われている状況下では、生き残った牛の商品価値を論ずるに足りる証拠はない。殺処分が行われるようになったのは1940年以降であり、それまではFMDに罹患した家畜は治るまで放置されていた。

以上の事実を鑑みると、何故多量殺処分が必要なのかという疑問がわくが、日本ではこうした議論は全くと言って良いほど起こらない。
何故なのかと考えれば、
(1)FMDには殺処分、とインプットされている
(2)FMDの事をよく知らない
(3)殺処分が有効と主張する獣医師、いわゆる専門家、官僚、政治家達に対して、そうでは無いという勇気がでない、などが挙げられるだろう。

日本では「殺す事が最良の方法」以外の意見が報道されないことは、極めて不自然だと感じざるを得ない。

殺処分に関する議論は、2001年イギリスで大流行が起こったときから活発に行われており、mediaも多く取り上げている。

結果として、イギリスは、殺処分の対象を緩和することし、「明らかに健康だと思われる牛に関しては、殺すか殺さないかは農家の決断にゆだねる」との見解を出したのである。

日本の悲惨な状況を鑑みてのことと考えられるが、2010年6月28日、オランダ政府は、
「今後FMDの流行の際、殺処分は2度と行わない」という声明を発表した。

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 イギリス、オランダ両国が殺処分以外の選択肢を採用したことはそれが現実的な方法であることを示しています。それは少なくとも報道に値するものであり、そしてメディアはそれを知ることのできる立場であります。にもかかわらず報道しなかったわけで、メディアの「資質」に問題があると思わざるを得ません。

 私たちは宮崎の痛ましい状況を連日のように見せつけられました。それは宮崎の現場に群がった各社の大勢の記者達のおかげなのでしょう。しかし、それらのメディアに記者は大勢いても、海外の動向を調べたり、それらを適切に評価する人がどこにもいらっしゃらないのでしょう。


(貿易には「清浄国」の問題がありますが、これについては木村氏の第2の官制パニック、口蹄疫-(2)をご覧下さい)

原発稼働率低迷とマスコミの遺産

2010-07-19 10:00:51 | Weblog
 日本の原発稼働率は、08年で58.0%、09年は64.7%ですが、アメリカと韓国の稼働率は2000年代から90%以上、フランスやカナダも75%を超えているそうです。つまり日本の原発の3分の1以上は遊んでいて、その分は石油や石炭、天然ガスを燃やして埋め合わせているわけです。そのために発生するCO2は莫大な量であり、自然エネルギーや省エネなどで低減できるレベルとは比較になりません。

 また「稼働率が低ければ、目算の産出エネルギーが目減りするわけだし、運転技術が低くトラブル停止も多いと見られ、外部評価が低くなることもある。事実、昨年からのUAE、ベトナムでの海外商戦の敗因の1つに、この稼働率が影響したと見る関係者は多い」とされています(なぜ上がらない? 原発稼働率 WEDGE Infinity) 。

 同記事では、日本の稼働率が低い理由として、アメリカに比べて検査期間が長く、検査の周期が短いこと、そして地震や故障・事故によって停止したプラントが、点検の長期化及び地元了解が得られず、再起動できないことが挙げられていますが、さらに以下のように日本社会の特殊な事情にも触れています。

 「一般市民やメディアの原子力敬遠…といった日本独特の諸要素を解消していくことができなければ、今後着実な原子力推進は危ぶまれる。事実、いったん故障や事故で停止したプラントがなかなか再起動できないのは、地元を含む国民の原子力業界に対する不信が強いからだ。ある関係者は、「停止プラント再開のもっとも高いハードルは、“地元了解”」と言い切った。こうした社会認識と国や事業者へのプレッシャーが、“安全”のための合理性を妨げてきた理由であることは否めない」

 つまり、日本の原発稼働率が低迷してきたのは、原子力に対する日本社会の不合理な認識のためということです。不合理ということは科学的でないということあります。メディアは科学的な認識に基づかない、危険を煽る報道を続けて、原発に対する特異な認識を日本の社会に「確立」しました。

 一例を挙げると、新潟県中越沖地震の翌日、朝日新聞の朝刊第1面に「放射能含む水、海へ」の見出しが載り、次の日の1面にも「放射性物質 大気中へも」という見出し載りました。漏れた量は全く影響のない微量なのですが、いずれも記事を詳細に読まないとわかりません。社会はこの見出しに反応し、付近の宿の予約の7~9割がキャンセルされるなどの風評被害を生じました。影響のない微量であれば1面トップに載せる必要があるとは考えられず、原発の危険を誇張するという意図が感じられます。

 このようなメディアの反応、つまり針小棒大、あるいは理不尽な反応のために運転が出来なくなるのであれば、原発の関係者はまったく実害のない微小なトラブルは隠しておこうという誘惑に駆られることでしょう。

 原発事業者のデータ隠しや改ざんの発覚もあり、原発への不信感が高まったことがありました。隠す方も悪いのですが、理解能力のないまま誇張して恐怖を煽るメディアにも責任の一端があると思われます。

 諸外国に比べ日本の原発稼働率が低い理由のひとつに日本メディアの特殊性があるのではないでしょうか。十数年前、ダイオキシン問題が世の中を覆った時期がありましたが、当時、世界で発行されたダイオキシンに関する本の8割以上を日本が占めました(参考拙文 「環境問題を食いものにする人々」)。最近では、新型インフルエンザのとき、街にマスク姿があふれたのは日本だけでした。

 どうやら、恐怖を煽るという点において、日本のメディアはとりわけ優れているようです。メディアが恐怖を煽り、一部の出版業者がそれに乗じて恐怖本を売り、さらに恐怖を増幅するという構造があります。心配のあまり本を買わざるを得ない国民はたまったものではありません。これらの構造と日本の「主観的幸福度」が低いこととは無縁でないと思います。

 メディアは非科学的な報道を続け、原発の危険を煽ってきました。その積年の「遺産」が原発稼働率を引き下げ、CO2大量排出の大きな要因となっています。メディアがCO2の削減を主張しながら原発の危険を煽るのは、表で水をかけながら、裏で火をつけて回っているようなものです。

投票を左右する新聞情報の「品質」

2010-07-12 10:01:56 | Weblog
  前回、マスメディアには投票先を選ぶための情報を提供するという役割があると述べました。7月8日の朝日新聞にはほぼ1ページを割き「上げるのか 消費税」と題して、賛否両論を載せています。今回の参院選では消費税の増税が主な争点であり、時宜に適った企画なのですが、残念なことに一方の論者の人選にいささかの問題があるようです。

 消費税上げの必要を説く土居丈朗慶大教授の主張はまともであり問題はないのですが、森永卓郎氏の方は大いに問題ありです。そもそも真面目な学者と、ほとんど冗談みたいな人を並べるのは土居氏に対して失礼であるばかりか、読者に対し森永氏がまともな人物であるかのような誤解を与えてしまいます。

 どんな人物であれ毀誉褒貶はつきものですが、以下の評価はまともなものだと思います。
森永卓郎という日本の癌」・・・城繁幸氏
「破廉恥で利己的な強欲タレント」・・・潮匡人氏

 「消費税を上げる必要なんかありません」という森永氏はその根拠として円と国債が上昇していることを挙げ、日本の財政は危機的ではないとします。また日本は97年にデフレに突入したが、当時の税収は54兆円間。今は37兆円なので、デフレを止めれば税収が17兆円増える、と主張します。そして日銀の資金供給を2倍にすればデフレは一瞬で止ると。

 こんな簡単なものなら苦労はないと思いますが、怖いのは、朝日新聞に載るのだからとこの珍説を信じてしまう読者が生れることです。朝日は森永氏にお墨付きを与えた形になります。そして、悪いことに森永氏の意見は極度に単純化され、わかったように思わせるように作られています。

 複雑な要因が絡み合っている事象に対して、ひとつの要因だけを取り上げ、全体を断定的に結論付けるやり方はわかりやすいのですが、扇動者に似合うやり方であり、誠実さが感じられません。

 まともな主張であれば消費税上げに反対の意見を掲載するのならよいのですが、ようやく財政健全化の気運が出てきた現在、冗談のような意見のためにせっかくの気運がしぼんでしまっては悔いが残ります。

 このような記事を掲載すれば、経済に関する朝日の見識レベルが疑われます。もしそうでなければ消費税上げに反対する勢力に加担するためと思われても仕方ありません。このような記事は有権者の賢明な投票行動にとって有害だと思われます。

 7月11日の天声人語にこんな一節があります。
「国民は程度に応じた政府しか持てない、と古くから言う。だが先日の小紙、作家の池澤夏樹さんが『どうも政府のレベルは国民のそれを下回ってきた』と寄せていた。『われわれの実力からすればもう少しましな政府は持てないものか』と。
後段では有権者の1票の意味を説き、政府のレベルが低いのは投票の結果であるような話になります。

 マスコミは第4権力とも言われるように、政治や投票行動に大きな影響力を持っていることは事実であり、レベルの低い政府しか持てないことにマスコミが少なからぬ責任を負っていることは明らかです。天声人語の筆者は責任の一端を担う立場でありながらまるで他人事のように書いています。マスコミが投票するわけでなく、たしかに建前ではその通りですが、いささか厚顔無恥の態度と言えるでしょう。

選挙よりスポーツ優先のマスコミ

2010-07-09 10:45:57 | Weblog
 元朝日新聞「天声人語」執筆者の栗田亘氏は、「この10数年、首都圏で催されるサッカー日本代表のほとんどの試合に足を運んできた」ほどのファンだそうですが、その栗田氏でさえ、W杯報道の洪水には辟易(へきえき)すると書かれています(6/23新聞案内人)。サッカーに興味のない私にとっては「辟易度」は何倍にもなります。

 一方、相撲界の野球賭博報道もサッカー報道に勝るとも劣らずで、連日トップ報道です。相撲ファンでない者にとってはムカつくほどの辟易度ですが、なぜ相撲の賭博をここまで大きく報道する必要があるのか、理解できません。暴力団の利益になったことは悪いにしても、たかが博打をやっただけのことであり、多くの人がやっていると思われる賭けマージャンや賭けゴルフと質的な差はありません。「けしからん」ことだと息巻いておられる記者の中にも「前歴」のある人は少なくないと思います。

 そして、大見出しの記事だけでなく、社説やコラムまでが野球賭博問題をそろって取り上げていることに驚かされます。つまりサッカーや相撲を大きく報じるのは読者・視聴者に迎合するためというより、メディアの記者や編集者自身が政治よりもスポーツに興味をもっているためではないかと推定できます。

 相撲に興味のない者にとっては無論のこと、普通程度に興味がある者にとっても、相撲はトップ記事を続けるほど重要な問題ではありません。参院選挙を間近に控えているとき、そろってスポーツ問題ばかり取り上げているメディアの見識を疑いたくなります。メディアの情報伝達量は限られており、スポーツが大きく占有すれば他の記事は縮小あるいは廃棄されます。その結果、選挙への関心が薄れ、投票先を選ぶ意欲も低下します。選挙がいまひとつ盛り上がらないと報道されていますが、メディアが自ら招いた結果に過ぎません。

 選挙を2日後に控えた本日(7/9)、ようやく主要紙は選挙情勢を一面で伝えていますが、それも情勢分析が中心であり、投票先を選ぶための情報は断片的なものしかありません。朝日によるとまだ選挙区で約4割、比例区で3割が投票態度を明らかにしていないそうで、彼らにはもっと情報が必要と思われます。

 放送や新聞は公共財であり、投票先を選ぶための情報を提供するという重要な役割があります。例えば、すっかりメディアから消滅した普天間基地移設問題や外国人参政権問題を民主党はどう扱うのか、財政再建の具体的道筋、中国の軍拡を含む外交政策、など投票に必要な情報は決して十分とは言えません。メディアが各党の掲げる政策を繰り返し、わかりやすく伝えなければ有権者は理解できないわけで、「また」不適切な議員を選ぶことになりかねません。

 政治のレベルを決めるのは民度である、といわれていますが、「民度」を「マスコミのレベル」と置き換えた方がよさそうです。

「はやぶさ」の帰還と事業仕分け

2010-07-05 08:41:56 | Weblog
 小惑星探査機「はやぶさ」7年ぶりに地球に帰還し、マスメディアと国民はその成功をを喜びました。事業仕分けで「それが国民の生活にどのような役に立つのですか?」とはやぶさの予算をばっさり切って、その勇名を馳せた蓮舫行政刷新担当相までが「偉業は国民全員が誇るべきもの。世界に向かって大きな発信をした」と絶賛されたそうです(関係のない国民までがなぜ誇れるのか不明ですが)。悪びれず、簡単に手のひらを返すさまはまるで子供のような無邪気さであります。

「はやぶさ」は12機の化学エンジンはすべてが使えなくなり。イオンエンジンも4機中3機までが故障という危機的な状況での、まさに薄氷を踏むような帰還でした。精密誘導のレベル、予想外の困難な状況を克服した技術、そして関係者の努力はたいしたものですが、同時に基幹部品の信頼性という課題も浮上しました。

 しかし、このようなプロジェクトは想定通りいかないのがあたりまえで、複雑なほど多くのトラブルが発生するのは当然のことです。今回は帰還という意味では成功しましたが、トラブルが少しでも異なっていれば帰還できていなかったかもしれません。

 成功か失敗かは紙一重かも知れず、その表面的な結果だけで評価を下すのは間違いです。成功にしろ失敗にしろ、そのすべての過程を詳細に検討して、次のプロジェクトに発展させていくことの是非を決めるのがまともなやり方でしょう。少なくとも単純な情緒的判断は適切ではありません。サッカーの試合に勝った、負けたというのとはわけが違います。

 昨年の事業仕分けによって、はやぶさプロジェクト予算額は17億円から僅か3千万円に削減されましたが、今回の成功によって恐らく復活することでしょう。単純に成功したから元に戻すということであれば、それはあまりにも情緒的な判断であり、ポピュリズムによる政治です。

 少なくとも政治家は感情的に左右されず冷静に判断できるだけの見識を持つ必要があります。科学技術に対する十分な見識をもたない政治家が情緒的な判断によって資源配分(予算)を決定するようでは国の将来が危ぶまれます。はやぶさの予算を98%も削ったとき、彼らは科学技術に対して如何なる見識を持ち、如何なる理由によって削減したのか、改めて訊ねてみたいものです。

 惑星探査のようなプロジェクトが「それが国民の生活にどのような役に立つのですか」という基準でしか評価されないならば、恐らく野心的なプロジェクトの大半は実現されなくなるでしょう。「それが国民の生活にどのような役に立つのですか」「2位じゃダメなんでしょうか?」という発言は蓮舫氏だけでなく、民主党幹部の科学技術に関する見識のレベルを示すものだ思われます・・・ちょっと怖いことですが。

試用期間をパスできない首相の連続生産

2010-06-28 10:10:56 | Weblog
 不良品が続出した場合、原材料や生産工程を見直すのは当然のことです。しかし政治の世界ではこのあたりまえのことに対して、議論さえも起きないのが不思議です。

 鳩山元首相が辞任し、これで1年程度しかもたない首相が4人続いたことになります。いずれも判で押したように就任時には高い内閣支持率を示していたものが、辞任直前には30%といわれる危険ラインを大きく下回り、20%前後となる始末です。

 内閣支持率は首相と内閣に対する国民の評価と考えられますから、1年間ほどの「試用期間」で国民は不合格の判定をしたと解釈できます。国民の評価が正しいとは限りませんが、この4首相の評価に関しては妥当であったと思います。

 首相という最高権力者が4人も連続して合格判定を受けられないような事態こそ深刻な問題であると思わざるを得ません。とくに麻生、鳩山両元首相は素人目からも資質の点で強い疑問を感じました。首相を選ぶ仕組みが変わらなければ、また合格ライン以下の首相が誕生する可能性が十分あると考えられます。

 賭け事ではないのですから、前回の首相は「外れ」、今回もまた「外れ」というようなことでは困るわけです。日本中どこを探しても首相にふさわしい人物がいないというのならともかく、この辺りで首相を「生産」するシステムを見直して「当たり」がよく出るように変えようとするのが当然の方向の筈です。しかしそのような議論を聞くことはほとんどありません。このままでは「当たり」が出るようにと、天に祈るしかありません。

 近年、政治の劣化だとか、政治家の質が低下しているという指摘をよく耳にします。これが事実なら相応の理由があるはずです。例えば小選挙区制の1人区では政党の影響力が勝敗に大きく影響する結果、〇〇チルドレンといわれる議員が大量に誕生しました。政治的な実績がなくても、その時の優勢な党の公認と支援だけで当選できる可能性があるわけで、そのような議員数が多くなる分、有能な議員数が減ることも考えられます。

 中選挙区では優勢な政党の公認候補だけでなく、政治的な実績や優れた識見などによって比較的少数の支持を集めることで当選する可能性があります。少なくとも小選挙区制に比べ多様な人材が選ばれることでしょう。小選挙区制ではベストセラーばかりを並べた書店のようなことになりはしないでしょうか。

 かつて森喜朗元首相は「自分は麻生さんをやる。麻生さんには大変お世話になったことは忘れてはいけない」と公の場で表明しました。お世話になったことが首相(総裁)に推す理由だと公言しても、メディアに批判されなかった事実があります。情実やカネによって影響されず、総裁や代表にもっともふさわしい人物が選ばれているか、という視点がメディアに必要でしょう。

 政治制度は民意を如何に政治に反映させるかという観点から検討されてきたと思いますが、議員の質や議員によって選ばれる首相の質を重視するという観点からの検討はあったのでしょうか。小選挙区制によって2大政党制が実現しても政治が劣化したのでは話になりません。

 ともかく、これからも首相の出来不出来は運次第ということでは困るわけです。この問題に関するメディアの無関心も腑に落ちません。首相を選抜するシステム、選挙や政党などの制度についての問題提起が必要だと思います。課題(アジェンダ)設定はメディアの重要な役割の筈です。またそれでメシを食っておられる政治学者の先生方の仕事だとも思うのですが。

衣食足りて「退屈」を知る

2010-06-22 20:48:40 | Weblog
「時間をつぶしながら午後を過ごし、夜を過ごし、週末を過ごす。そうして時間をつぶしながら歳月を重ねるうち、ついには時間がおれをつぶすだろう」

 とても巧い表現ですが、これはスティーヴ・ホッケンスミスの「エリーの最後の一日」にある一節です。

「生きているのは、死ぬまでの退屈しのぎ」

 こちらは山本夏彦の言葉です(記憶によっているので不正確かもしれません)。どちらも時間と退屈しのぎがテーマです(忙しくて退屈どころではないという方には申し訳ありませんが)。

 一方、前々回に紹介した動物行動学者のフランス・ドゥ・ヴァールは
「私たちは人間の営みを、自由の探求とか、有徳の人生に向けた奮闘といった高尚な言葉で表現し勝ちだが、生命科学はもっと平凡な見方をする。人生とは、安全と社会的親交と満腹感に尽きる」と述べています。

 「人生とは、安全と社会的親交と満腹感に尽きる」という生命科学の見方にはある程度同意できるものの、やはりそれだけでは十分とは思えません。人間には退屈するという生来の性質があるからです。むろん他の動物が退屈しないとは言い切れません。猫でも子供のうちは好奇心が強く、じっとしているのが耐えられないようであり、これも退屈の現れと言えるでしょう。知能が高い霊長類などはもっと顕著かもしれません。しかし退屈を感じる強さでは恐らく人間に匹敵する動物はいないでしょう。

 平均的な日本人は1日に4~5時間テレビを見るそうです。他にも、新聞、雑誌、文学、音楽、映画、パソコン(インターネット)、ケータイ、ゲーム、パチンコ、各種の賭博・・・、退屈しのぎの手段にはあらゆるものが用意されています。歴史解釈や神学の論争はあまりコストもかからず、何年やっても決着がつかない点で、優れた暇つぶしです。

 これらは文化と呼んでも差し支えないものです。もし退屈を感じることがなく、生産や食事など生存のために必要な時間以外を何もせずボーっと過ごすことができたなら、これらの文化の大半は生まれなかったでしょう。

 つまり退屈は文化の生みの親と言ってもよいでしょう。われわれに予め組み込まれたこの退屈という特性は科学や哲学、芸術、宗教の母体でもあります。退屈という特性があるからこそ、人間は様々な行動に駆り立てられるからです。しかし個人差の大きい領域であり、寸暇を惜しんで活動する人もいれば、何時間でも悠然と過ごせる人もいらっしゃいます。

 一方、「小人閑居して不善をなす」といわれるように、退屈しのぎの方法によっては害をなすこともあります。株や賭博で人生を棒に振る人も少なくないわけで、退屈の意味は人によって様々で、両刃の剣ということができます。

 退屈のおかげで文化が発達したと思われますが、我々が退屈しのぎに多大の対価を払っていることも確かです。衣食が足りたあと、退屈しのぎの相対的な価値は大きくなります。より高価な退屈しのぎへの方向は、経済成長を促すかもしれません。

 多くの動物は満腹すると眠ります。これはエネルギーの節約になり生存上の意味があります。人間に備わった退屈という機能は逆にエネルギーを消費するわけで、これが進化の観点からどのような意味を持つのか、ちょっと興味ある問題です。

国政よりサッカーのNHK

2010-06-17 09:42:34 | Weblog
 6月16日、参議院では首相の所信表明演説に対する代表質問とその答弁がありました。所信表明演説は内閣の基本方針を示すものですが、それは抽象的な建前論、つまりきれい事であり、内閣を評価する材料としての価値は限られます。それに比べ代表質問による答弁ではより多くの具体的なことが明らかになります。今回は管内閣の成立から参院選挙までの時間が少なく、新内閣を評価する材料が乏しい中で、この代表質問と答弁は貴重な判断材料です。

 ところが当日のNHKの夜7時のニュースは力士の賭博問題がトップ、ついでサッカー、国会ニュースは3分の2が過ぎてからの5分間だけ。夜9時のニュースウォッチ9でも賭博とサッカーと女性と刺殺事件で約3分の2が終り、国会は7分間だけでした。

 国政の重要さに比べれば力士の賭博やサッカーなど、どうでもよい問題です。視聴者の関心が強いとしても、公共放送がこれほどまで視聴者に迎合するのはおかしいと思わざるを得ません。生徒が喜ぶからといって、学校が教科書の代わりにマンガを採用するようなものです。

 NHKは午後の2時間半ほど、国会中継をしていましたが、平日昼間の視聴者は少数で、影響はごく限られたものです。空席の目立つ国会では、管首相の下を向いたままの抑揚のない棒読みが印象に残り、意欲が感じられませんでした。ただ政治家の必須条件なのでしょうが、質問の核心を外す答弁が巧みでした。

 ついでながら17日の日経新聞は1ページを使って代表質問と答弁の要旨を載せていますが、朝日新聞はわずか700字程度の目立たない記事で済ませています。サッカーや相撲に比べ、国会の質疑応答とはこれほどまで知らせる価値のないものでしょうか。

 民主党は国会を早く終え、ボロが出ないうちに逃げ切るつもりだ、というのが大方の見方ですが、メディアがこのような状況ではさらに判断材料が少なくなり、人気の固定化を助けて、民主党のずるい逃げ込みに加担することになります。・・・意図的かどうかは知りませんが。

 内閣発足時の高い支持率は1年も経たないうちに急低下するのが「慣例」となりました。やらせて見なければわからないといった面はあるにしても、これには発足前後にメディアが提供する情報の不足や偏りが大きく関わっていると考えられます。

 必要な報道より娯楽を優先させるのであれば商業放送と同じであり、公共放送の存在理由がなくなります。ニュースの大半をサッカーや相撲に費やすのでなく、その40分近くの時間を国会質疑の報道に充てるのが公共放送の役割だと思うのですが。

「共感の時代へ」フランス・ドゥ・ヴァール著

2010-06-14 10:01:08 | Weblog
 動物行動学者フランス・ドゥ・ヴァールの「共感の時代へ」は人間の利己心以外の性質に焦点を当てたもので、大変おもしろく示唆に富んだ本です。ダーウィンやローレンツ、ドーキンスらは生物学の立場から社会に大きな影響を与えましたが、本書も少なからぬ影響を与えるものと思います。

 ドゥ・ヴァールは集団で生活する動物に見られる協力関係に注目し、その仕組みを支えるものは共感だとします。痛みなど他者の情動を感じる能力はチンパンジーやラットにもあることを実験で明らかにし、共感能力は人間だけではなく、哺乳類に古くから備わっていた能力だとします。そして共感能力や互恵性は集団生活にとって欠かすことのできない大切な要素であることが説明されます。

 近年、自然選択(自然淘汰)、適者生存、利己的遺伝子などの言葉で表されるように、人間の利己的な面が強調されてきました。トマス・ホッブスの「万人は万人に対して狼」あるいは「万人の万人に対する闘争」のような、人間の自然状態は闘争であるとする考え方と同様です。

 自由な市場における競争に価値を置く新自由主義や市場原理主義は、リーマンショック後の金融危機がもたらした世界的な迷惑や格差拡大を受けて、このところ色褪せてきたように見えますが、この考え方も適者生存、優勝劣敗が基本になっています。もっとも物事(自然)がある状態にあるからといって、そうあるべきだとは言えない、とドゥ・ヴァールは述べています。人間の社会が自然に従う必要がないことは当然です。

 自然選択や適者生存という考え方は、世界を席巻した新自由主義の正当化に使われ、競争は善とされました(武力による競争ではなくてよかったですが)。ところで「適者生存」はダーウィンの言葉ではなく、英国の政治哲学者ハーバート・スペンサーによるもので、ダーウィン自身は自分の理論から弱肉強食のような考えが引き出されることを苦々しく思っていたとされています。

 ドゥ・ヴァールは「利他主義者を引っ掻けば、偽善者が血を流すのが見られる」という言葉がこの30年間、頻繁に繰り返されたと述べていますが、われわれは他者の行為を理解しようとするとき、利己心に重点を置きすぎていたのではないかという気がします。裏側を見るのが大好きな陰謀論者はこの典型例ではないでしょうか。

 公平についても興味深い実験が紹介されています。
「二匹のサルに同じ課題をやらせる研究で、報酬に大きな差をつけると、待遇の悪い方のサルは課題をすることをきっぱり拒む。人間の場合も同じで、配分が不公平だと感じると、報酬をはねつけることがわかっている。どんなに少ない報酬でも、もらえないよりはましなので、サルも人間も利潤原理に厳密に従うわけではないことがわかる」

 公平を好む気持ちが社会的に作られたものでなく、先天的なものだという事実は意外ですが、その意味は公平な配分によって嫉妬を招かないようにして集団の平和を保つことにあると説明されます。

 生存上、利己心が必要なものであるように、共感能力がありすぎても困るわけで、とりわけ敵と戦うときには障害になります。そのため共感をオフにするスイッチがついている説明されます。ナチの収容所で残忍な行為をする人間が家庭では良き父や夫になり得るというわけです。

 まあこのあたりは個人差の大きい部分であり、共感能力の大きさもまちまちで、無効スイッチをオフにする必要のない人間もいることでしょう。共感能力は男より女の方が高く、また競争関係にある男同士ではとくにこの無効スイッチが入りやすい傾向があるそうです。これらは実感できますね。

 以上、断片的な紹介になりましたが、最後に次の一節を引用します。

「社会的絆を結ぶのが非常に重要なことは否定のしようがない。私たちは人間の営みを、自由の探求とか、有徳の人生に向けた奮闘といった高尚な言葉で表現し勝ちだが、生命科学はもっと平凡な見方をする。人生とは、安全と社会的親交と満腹感に尽きる」・・・もし退屈ということがなければ私も完全に同意できるのですが。

 豊富な実験例やエピソードに加えてユーモアや皮肉もあり、楽しく読める本であります。ちなみにドゥ・ヴァールは2007年のタイム誌の「世界でもっとも影響力のある100人」の1人に選ばれているそうです。