噛みつき評論 ブログ版

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内閣支持率V字回復の軽さ

2010-06-09 20:35:26 | Weblog
 鳩山・小沢両氏の辞任直後、内閣支持率は約20%から60%(管首相の支持率)とあっけなく急上しました。参院選を直前に控えたこの交代劇が、小沢氏を悪役に仕立てて意図的に仕組まれたものか、偶然の所産なのか、あるいは両者が組み合わさったものか、知る由もありませんが、とにかく民主党にとっては笑いが止らないことでしょう。シナリオを書いた人がいるならば見事な仕事です。

 首相と17名中6名の閣僚が替わりましたが、民主党という大枠は依然としてそのままであり、そして管首相や新閣僚も従来の8ヶ月余の政権運用に多少なりとも責任があった立場です。鳩山政権の失政は鳩山・小沢両氏だけの責任ではありません。それを考慮すると支持率が急に3倍になるということに世論の「軽さ」を感じます。

 ここ代表選後の数日、各テレビ局は管氏や新たな閣僚候補者を出演させ長時間の発言の場を提供しました。ご祝儀気分も手伝って、彼らに好意的な報道がほとんどであったと思われます。また局としても今後のことを考えると、出演してもらう閣僚予定者らを批判的に扱って嫌われたくないでしょう。というわけで、彼らは魅力的な展望や頼もしい決意を国民にたっぷりと伝えることができました。

 その間、テレビをはじめとするメディアは与党の動静一色になり、野党は存在が無いかのような状況になりました。そのような状況に於ける支持率調査で与党支持が増加するのはある程度納得がいくものです。しかし20%から60%という極端な変化には驚きました。まるで一晩で忘れたように変わる、子供のような頼りなさを感じます。

 不支持から支持に転じた人の多くは政治家としての能力や政策の是非を細かく検討したわけでなく、テレビが伝える印象や新しい人に対する期待などによって感情的な判断をした可能性があります。

 このような大きな影響は新聞などの活字メディアでは恐らく無理で、その多くはテレビ報道によるものと思われます。改めてテレビの印象操作能力の大きさに驚かざるを得ません。そしてこれが選挙結果に結びつくとすれば、実質的にはテレビが支配する民主制度となります。

 テレビは演出によって活字メディアよりも自在に印象を操作できることに加え、一日の平均視聴時間は4時間とも5時間ともいわれ、長時間に及びます。したがって媒体として非常に強い影響力を持っています。

 媒体が主体性、そして恣意性をもつことは大きい問題です。媒体が主体的に介在することが結果的に民主主義制度を変質させているのではないでしょうか。形式的な主権者は国民ですが、テレビが単なる媒体でなく主体性を持つほど実質的な主権者はテレビになると言ってもよいでしょう。見識の低いテレビからは、それなりの政府しか生まれないということになります。

 選挙で民主的に選ばれたものは正当性がある。選挙結果は民意であるから最大限尊重されるべきだ。・・・こういった表現は割り引いて考える必要がありそうです。大人げないと思われそうですが、まるで錦の御旗のように民主主義を振りかざす人間が目立つもので・・・。

 [付記]

真偽不明ですが、以下はメディアの中からの内部告発とされたものです。

『 6月2日、プランCが発動された。
1、今週いっぱいは新総理、新閣僚紹介で民主党を持ち上げろ
2、来週いっぱいは新総理、新閣僚紹介で民主党を持ち上げろ
3、この間、郵政改革法案が強行採決されるが無視しろ
4、14~16日までは終盤国会の新閣僚の奮闘報道で持ち上げろ
  17~23日は国会閉会後の民主党新人候補の活動を中心に報道せよ
5、24日の参院選告示後は公平な報道に尽力せよ
このような指針が某メディアで出ている事実がある 』
 出所 ここ

 1993年の総選挙の期間中、テレビ朝日が共産党を除く野党による非自民政権樹立を促す報道を計画したことが発覚し、大きい問題となった椿事件がありました。したがってこの種の情報を全くの偽物と片付けることはできません。一方、荒井国家戦略相の事務所費問題は各メディアが取り上げていますが、6月9日20時現在、朝日新聞だけは何故か取り上げていないようです。同種の問題であった松岡利勝、赤城徳彦両元農水相の時との違いに驚きます。

日本経済新聞のジレンマ

2010-06-07 09:55:24 | Weblog
 四半期ごとに経済成長率が発表され、それに一喜一憂するような国は例外的だそうです(佐和隆光氏の言)。近年の四半期の前期比変化率はせいぜい1%程度でありそれが直接生活に影響を与えるほどのものではありません。投資をしている人にとっては、成長率は全体の趨勢を把握するには必要な指標ですが、一般の人には、騒ぐほどの意味はないと思います。

 経済は生活の基盤であり、重要なことです。しかし経済紙なら知りませんが、一般のメディアまでが、したがって国民の多くが成長率の細かな動向にこれほどまでに強い関心をもつことには少々違和感があります。

 私の推測ですが、これには日本経済新聞の存在が少なからず関わっているように思います。日経は経済紙というものの読み応えのある文化欄やスポーツ欄まであり、他の全国紙と同様、一紙の購読で足りるという構成になっています。そのためもあるのでしょうが、約300万部と中位の全国紙並みの部数があります。

 そして、日経がもっとも信頼できる新聞と評価されている事実があります。2007年2月の調査によると「読者信頼度」は日経が1位で、2位読売、3位朝日と続きます。これは朝日新聞が外部に依頼した「新聞読者基本調査」によるものです。15歳以上の9千人を対象とし約4900人が回答したもので、社外秘扱いとなっているデータから明らかになったとされています。日経の信頼度が比較的高いのは私も同意しますが、その理由のひとつは恐らく朝日などに比べ記事に色がついていないためでしょう。

 また比較的高いレベルの読者層を対象としているようで、社会に影響力のある層に広く読まれ、その影響力は部数以上のものがあると考えられます。

 問題は、もっとも信頼度が高く部数も多い新聞が経済記事中心の新聞であることです。読者の頭の中は知らずしらずのうちに経済の占有割合が高くなっているのではないでしょうか。

 1980年代以降、英米に始まった市場重視の新自由主義の流れは日本にも広がりましたが、これには日経新聞が大きい影響を与えたのではないかと思われます。市場における自由な競争が効率的で望ましいこととされ、優勝劣敗が当然とされる風潮を生みました。そして経済における考え方が経済以外の領域にまで影響を及ぼしたと思われます。

 ホモ・エコノミクスとは自己の利益を最大限に追求するように合理的に行動すると想定された人間を指す経済学の用語ですが、この二、三十年は現実の人間の方がホモ・エコノミクスに近づくよう奨励されてきたような感があります。

 日経新聞は経済の比重が高いながらも社会、政治などを総合する一般全国紙としてのクオリティペーパーであり、それだけに社会への影響力は大きいものがあります。もし経済中心の新聞ではなく、一般紙がもっと高い信頼度を保っていれば日本の社会は少し違ったことになっていたかもしれません。

鳩山政権を支援する朝日社説

2010-06-03 09:25:57 | Weblog
 鳩山首相はついに辞任を表明しました。それにしても不思議なのは、地位と仕事を中途で放棄せざるを得ないという厳しい境遇の只中にあって、奇妙に明るい首相の表情です。この表情は国のために立派な仕事を成し遂げた直後なのかと一瞬錯覚するほどです。これは普通の人間にはきっと解けない謎でしょう。それはさて措き、辞任表明の前に書かれた6月2日の朝日社説は鳩山首相の政権維持を求める極めて異色の内容です(以下、一部を引用)。

「目前の参院選を何とか乗り切るために、鳩山由紀夫首相に辞めてもらう。そういう狙いが見え見えである。考え違いというほかない」
「確かに深刻な失政である。外交・安全保障分野に限らず、首相の言葉の軽さと判断のぶれは目に余る。国の指導者としての資質に疑問符がつき、内閣支持率の危機的な水準は世論が首相を見放しつつあることを示している」
「しかし、時代は決定的に変わったはずではなかったのか」
「トップリーダーの力量、理念政策の方向性、政治手法や体質といった政党の持つ統治能力そのものを有権者が見比べ、直接選ぶ。それが時代の政治の姿であるはずだ」
 「鳩山政権の迷走でかすんだ感があるとはいえ、政治の質を根本的に変える試みの意義は大きい」
 「いま民主党がなすべきは、政権8カ月の失敗から何を学び、どこを改めるのか、猛省することである」

 つまり有権者が直接選んだ政権であり、政治の質を根本的に変える試みの意義が大きいから、深刻な失政があっても資質に重大な疑問があっても継続しなければならない、というご主張になりましょうか。

 これは政権の機能よりも選挙という民主的な手続きを経て成立したことを重視する非現実的な形式論であります。大事なことは国民が無能な政権によって不利益を被らないようにすることです。また「民主党が8カ月の失敗から学び、改める」というのは抑止力に関して鳩山氏の「学ぶにつけ・・・思いに至った」という発言と符合します。勉強は政権を取る前にしておくものであり、また資質が勉強によって改まるとは考えられません。

 5月29日の社説でも「首相は歩み続けるしかない」と継続を支持しています。ついでながら、同社説では、普天間飛行場の移設問題に関して「私たちは5月末の期限にこだわらず、いったん仕切り直すしかないと主張してきた」と述べ、これは社民党の主張と一致します。5月末決着を反故にすれば12月のトラスト・ミー発言で失った米国政府に対する信用をさらに失うことになると考えられますが、朝日の「腹案」でもあるのでしょうか。

 朝日新聞は民主党政権の成立に力を貸してきたわけですから、少しはこの政権に責任を感じてもよい立場です。「トップリーダーの力量、・・・」などが期待外れとなった以上、、形式論を楯に政権の継続を主張するのは見苦しいことです。いさぎよく「衆院選前、私たちは民主党の姿を誤って伝え、有権者の期待を煽って投票を間違った方向に誘導しました」と認める程度の度量があってもよいと思います。

報道の雪崩現象が民主を潰す

2010-05-31 10:02:30 | Weblog
 食品の消費期限や賞味期限がひとたび問題となるとメディアの関心はそれに集中し、それまで見過ごされていた些細なことまで大きく報道されます。産地偽装問題も然(しか)り、環境ホルモン問題もまた然りであります。産地偽装は良くないことですが、騙されているとも知らずに美味いと満足している客もいるわけで、一面トップで大騒ぎするほどの大問題ではありません。

 ひとつの問題に関心が集まると同種の問題はニュース価値が増加し、大きい報道がさらに関心を呼ぶという、増幅していく循環現象(ポジティブフィードバックといい、不安定化の要因になります)が起こります。その結果、ひとつのテーマに報道が集中する現象が生じるわけです。

 このところの報道を見ていると、鳩山政権は失態に次ぐ失態という印象があります。少しくらいは良い点もあるのでしょうけど、報道ではあまり見えません。現在は「ダメな鳩山政権」というテーマに最大級のニュース価値があるためでしょう(むろん良いことがまったくなしということも考えられますが)。

 鳩山政権が1日でも早く潰れる方が日本のためになると思っている私には、ネガティブな報道はいっそう耳に心地よく響きます。

 最近の調査では鳩山内閣の不支持率は支持率の3倍以上であり、視聴者の大部分は鳩山内閣を支持していません。このような状況では政権の失策などのネガティブなニュースが視聴者に「受ける」わけであり、メディア各社はこれでもかとばかり、ネガティブ報道を競います。

 これがさらに支持率の低下を推し進め、最終的に支持者として残るのは鳩山政権や民主党を「信仰」する層だけとなるでしょう。こうなると余程のことがない限り、逆転は難しくなります。

 昨年の衆院選の前、多くのメディアは民主党に好意的な報道を続け、それに乗せられた国民は期待感をもち、民主党大勝の一因になりました。そして8ヶ月後の今、民主党に加担したメディアは鳩山政権批判を繰り返しています。鳩山政権批判は当然のことですが、結局のところ、メディアは粗悪品を素晴らしいものに見せる無責任な広告屋の役割を果たしたに過ぎず、我々はメディアに振り回されただけということになります。

 無能というより有害というべき鳩山政権の誕生に大きな力を貸したマスメディアが責任を感じて、いま政権批判をしているのならばたいへん殊勝なことですが、恐らくそうではなく、力を貸したのは単なる評価能力の欠如、政権批判は読者・視聴者に「受ける報道」という骨の髄まで染みついた性癖の現れと見るべきでしょう・・・困ったことですが。

党首として沖縄訪問は子供の理屈

2010-05-27 10:01:39 | Weblog
 抑止力に関する自らの「無学」が招いた結果とは言え、鳩山首相は基地移設問題で激しく燃え上がった沖縄住民の反応によってはなはだ困難な状況に陥っています。その最中、閣僚である福島大臣が沖縄訪問して、まだ火勢が足りぬとばかり「火をつけて回って」いらっしゃるそうです。これは基地の辺野古移設を決めた政府の足を引っ張ることであり、閣僚としての鳩山内閣への背信行為です。

 社民党党首として沖縄を訪問したので問題ないというのが福島党首のご主張のようですが、小学生の理屈のようで、どうもこれが納得できません。ひとつの人格を党首と閣僚という二つに都合よく「分割」できるものでしょうか。

 この場合、党首としての職務を優先すれば閣僚としての職務を損なうことになります。逆も同様です。二つの職務の要請が相反する状態、つまり利益相反ということになるわけです。原発を推進する立場で仕事をしている人間が原発反対運動にやってきて「今日は市民運動家として参加します」と言っているようなものです。A社の役員が競合関係にあるB社の役員を兼ねるようなものと言ってもよいでしょう。利益相反行為は一定の範囲内のものは不法であるとされ、法による規制対象にもなっています。

 閣僚が内閣に背く行為をする場合は、閣僚を辞してからするのがあたりまえのやり方です。鳩山首相もずいぶん甘く見られたものです。そして、それに呼応するかのように鳩山首相は福島党首のご期待に十分お応えになっています。

 福島氏の背信行為に対して鳩山首相は不快感を示しながらも「私としては、党首としての発言はわかります」と理解を示しています。公然と内閣の足を引っ張る行為に対してこの寛容さはちょっと理解できません。党首の立場であろうが、内閣の仕事を妨害する人間はクビにするのが普通の社会のやり方です。

 正々堂々と背信行為を働く閣僚、それに対しクビも切らず、逆に理解を示す首相、範となるべき政治のトップレベルでこのような異様なモラルの有り様を見せられるといささか不安になります。「友愛」あるいは「みんななかよく」なのでしょうけれど、どこかで見かけた「鳩山幼稚園」という言葉が浮かびました。

裁判員の理解能力は3/115なのか

2010-05-24 10:11:53 | Weblog
 入院中の娘の点滴に水を入れて死亡させたとして母親が傷害致死などの罪に問われ、9日間の日程で行われた裁判員裁判で、京都地方裁判所は懲役10年の判決を言い渡しました。常識では考えにくい異常な事件であり、被告の精神状態は重要な要素であると考えられます。

 精神鑑定が行われたのは、刑法第39条の「心神喪失者の行為は、罰しない」あるいは「心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する」に該当する可能性があったと判断されたからでしょう。精神科医によって結果は115ページの鑑定書にまとめられました。しかし、裁判員にわかりやすくするため、115ページの鑑定書は3ページに要約され、それだけが証拠として採用されました。時間の制約もあるのでしょうが、たったの3ページとは一般市民の理解能力はずいぶん低く評価されたものですが、これは裁判所の姿勢を示すものと考えられます。

 裁判の資料として3ページの要約で十分とされたわけですが、元の115ページの鑑定書には事実やその解釈、結論に至るまでの理由が詳しく書かれていたことと思われます。要約は恐らく結論が中心で、そこに至る過程が大きく省かれたと考えられます。裁判員は鑑定書の結論が妥当性であるかを判断することができたのでしょうか。これでよいのなら今までの詳細な鑑定書は無駄であったことになります。

 精神鑑定はその結果によって死刑にも無罪にもなるほど重要なものですが、鑑定者によって結果が大きく異なることが珍しくなく、高い信頼性のあるものとは言えません。曖昧な領域に無理やり線を引くという作業であり、主観性を排除することは困難です。従って結論に至る過程の開示は重要だと思います。

 裁判員裁判では裁判員にわかりやすいこと、予め決められた短い期間に終わらせることが要請されます。そのための簡便化が3ページの要約なのでしょうが、裁判の本来の機能である被告を正しく裁くという点が軽視されているように思われます。裁判員にとっては数日間の問題ですが、被告にとっては数年、場合によっては命にもかかわる問題です。

 裁判員裁判が台風の襲来のため3日間の予定が2日間に、4日間が3日間に短縮されたことはありますが、数百件の裁判の中で審理が思わぬ方向へ進み、確認のためなどで延長されたという話は寡聞にして存じません。時間管理が優秀なのでしょうけど、審理途中での期間延長が裁判員の不満に結びつくことを恐れたためという心配はないのでしょうか。

 裁判員制度開始からほぼ1年、裁判員経験者の「良い経験になった」などの意見を載せるなど、マスコミには同制度に対する好意的な評価が目立ちます。しかし多くは裁判員など、裁く側からの視点であり、裁判の主人公である被告側の利益という視点に立つものがありません。裁判は裁判員が「良い経験」をするためのものではなく、被告が公正に裁かれるためのものです。

 最高裁の裁判員に対するアンケート調査でも「弁護士や検事の説明がわかりやすかったか」という問いはあっても、「弁護士や検事の説明が十分理解できたか」という問いはなく、裁判員が十分理解した上で評決を行ったかという重要な疑問に答えていません。

 裁判員制度を維持するための効率化を重視するあまり、十分な審理を受けずに判決を下されるようなことがあっては本末転倒です。効率化には当然負の部分もある筈で、それが裁判の本来の機能を損なっていないかという視点をマスコミは忘れているような気がします。

(参考拙文 算数のできない人が作った裁判員制度)
(参考拙文 最高裁の欺瞞)

(上記の傷害致死事件の鑑定書に関する記述はNHK京都放送局の放送に基づいたものですが、現在見ることができません。参考までにNHKの放送内容をまとめたものと思われるサイトを挙げておきます。 Sousyoku News Networkwww)

私の辞書に恥という言葉はない

2010-05-20 09:59:32 | Weblog
 「私の辞書に不可能という言葉はない」といったのはナポレオンですが、わが首相もなかなか非凡なものをお持ちのようです。前回、日本を「恥の文化」であるとするルース・ベネディクトの「菊と刀」に触れました。「恥を知れ」という言葉もあるように、恥の意識が日本人の行動を強く規定しているのは確かであると思います。しかし、日本の代表である鳩山首相は例外のようです。

 鳩山首相が「力強く」繰り返してきた「普天間飛行場の移設問題は5月末に決着する」という約束は、「6月以降になっても、詰める必要があるところがあれば当然努力する」というご自身の発言によって事実上、反故にされる見通しとなりました。

 「職を賭す」「命がけでやる」とまで言ってきた5月末決着の帰結として気の抜ける思いがします。「5月末決着」は「5月未決着(みけっちゃく)」のことかと揶揄した新聞がありましたが、なかなか上手いですね。

 それにしても「職を賭す」とまで言った約束を平然と破ることのできる神経は驚異的です。しかも、米側の同意、移設先の同意、与党の同意、すべてがメドさえ立たないという完全反故です。「平然と」ということが鍵になりますが、首相の頭には恥という回路が存在しないようです。宇宙人と名付けた人はなかなかの慧眼だと思います。

 鳩山首相がオバマ大統領に「Trust me」と言ったのは有名ですが、昨年末ルース駐日米大使にも「任せてください。時期が来れば現行計画に戻します」と言ったそうです(文芸春秋6月号「台風の目はみんなの党か舛添か」)。昨年末の時点で最終の決着を現行計画だと考えていたのならば、ずいぶん不誠実な話です。

 日本を代表する人物はいろんな意味で「範」となる宿命を負っているといってもよいと思います。その人物が約束を平然と破れば社会のモラルに悪影響を与えることは自明です。既に株取引で数千万円、贈与税で約6億円の申告を「漏らしっぱなし」にして平成の脱税王という異名を与えられ、納税モラルを低下させた実績があり、まさにモラルの反面教師です。

 対外的な国の信用を失うことも大きい損失ですが、政治家はウソをつくものだという諦念、政治への不信感の広がりは後々まで影響を及ぼす深刻な問題だと思われます。

 どこの世界でも、重大な約束を反故にした者は辞めていただくのがあたりまえですが、何故かマスコミは寛容です。一応の批判はしているものの、取るに足りない事件を起こした吉兆や不二家への攻撃などと比べると質・量とも雲泥の差があり、まったく理解に苦しむところです。

  5月17日の読売新聞はつぎのように報じています。
『平野官房長官は17日午前の記者会見で、月内の閣議了解を目指している、沖縄県の米軍普天間飛行場移設に関する政府の対処方針について、「閣議了解にするか閣議にかけるのか方法は別にして、政府の考え方は明確にする。首相発言ということでペーパーを出して、それで了解するという方法もある」と述べた』

 なるほど、いつもの平野氏に似合わずなかなかの深謀遠慮に基づく発言です。首相発言ということにしておけばきっと誰も信じないので罪が軽い、ということなのでしょう。

付和雷同と小選挙区制

2010-05-17 09:53:22 | Weblog
 第二次大戦中、日本軍の捕虜となり死亡したアメリカ兵の割合は38.2%に上ります。これに対してドイツ軍の捕虜となったアメリカ兵の死亡割合は1.1%という数値(*1)があります。日本軍の捕虜の扱いはたいへん苛酷なものであったようで、この大差に驚きます。

 これに対し、日露戦争におけるロシア兵捕虜や、第一次大戦におけるドイツ兵捕虜はある程度の自由が与えられ、丁重に扱われたとされています。第一次大戦から30年足らずで、同じ国がなぜこんなに変わってしまったのか、大変興味を惹かれる問題です。

 歴史をみても日本民族が他の民族に比べて残虐性が強いという印象はなく、むしろ世界でも有数の犯罪率の低さ、治安の良さを考えると、日本国民は比較的温和な性質を備えているようにも感じられます。

 捕虜の扱いだけでなく、組織的な自爆攻撃つまり特攻や、補給の軽視による日本兵の大量餓死・病死なども特異なことと思われます。なぜ日本にこんなことが起きたのかを説明することは複雑で、私などにはとてもできませんが、以下の二つのことは関係がありそうに思います。

 ルース・ベネディクトが著書「菊と刀」で日本文化を「恥の文化」と述べたように、日本人の行動を規定するものは西欧のように罪の意識ではなく恥の意識であるということが関係しているように感じます。罪は内面の神に対するものであり、その制御効果は普遍的です。これに対し、恥は所属する集団内のものであり、その集団内で恥とされない行為には制御効果はありません。軍という集団内で非道な行為が広く行われたのは恥の意識が生じなかったためではないでしょうか。

 もうひとつは明治期の東京帝国大学の教師であったチェンバレンは日本人の特徴として「付和雷同を常とする集団行動癖」を挙げています。これは現代のマスメディアの横並び集中報道にも見られるとおりで、メダカの群れのように一斉に同じ方向に走りだす性質です。

 日本軍の特異さは罪よりも恥が規制する文化と付和雷同気質に関係があるのではないか、というお話ですが、まったくの私見なので決して信用あるものでないことを付け加えておきます。

 さて、皆が同じ方向に走り出すという特性、つまり付和雷同気質は組織や集団による仕事には好都合なのですが、同時に暴走の危険も包含します。国民もマスコミも付和雷同であれば、気になるのはこの気質と小選挙区制の組み合わせです。

 昨年の総選挙では、小選挙区での得票率は民主党が47.4%、自民党が38.7%に対し、当選者は民主221、自民64となっています。得票の比は1.22倍ですが、当選者の比は3.45倍です。小選挙区制は1.22倍→3.45倍という増幅効果をもち、付和雷同傾向をより強めます。日本を不安定化させるという意味で、危険を孕む制度であると言えそうです。

(*1)これは鳥飼行博研究室の「War」→「総力戦における動員」→「連合軍捕虜POWと日本軍捕虜の死亡率」から引用しました。ここでは豊富な写真を含む膨大な戦争資料を見ることができます。
加藤陽子著「それでも、日本人は戦争を選んだ」には日本軍の米兵捕虜死亡率37.3%、ドイツ軍では同1.2%という数値が出ていますが、大きな差はありません。

もうひとつの豊かさの基準

2010-05-13 09:56:12 | Weblog
 半世紀ほど前、多くの家庭では4~5人の子供がいて、母親の多くは専業主婦でした。働き手は父親だけで、ひとりで全員の生活費を稼いでいたわけです。むろん当時の生活は貧しいものでしたが、たいていは1人の働き手が多人数の家族を支えることができました。

 一方、豊かな時代である近年は少子化が顕著で、合計特殊出生率は1.3前後で推移しています。そして子供を多く生まないのは経済的な理由が大きいとされています。経済的に豊かになった筈なのに経済的な理由で子供を少数しか生めなくなったとは何かおかしい気がします。

 現在は豊かな暮らしを享受していますが、その多くは生産性の飛躍的な向上によるものです。例えば従来10人かかっていたものが1人で生産できるようになったというわけです。またそれに加え、女性が社会で働くようになったことも寄与しているでしょう。

 しかし得られた豊かさの多くは衣食住や遊びに費やされ、子育てに充てられる部分が相対的に少なくなった結果と考えられます。むろんそれと関連して教育費の高さも大きい理由になるでしょう。

 20世紀は大量生産の時代であり、需要喚起、つまりそれを消費者に買わせるためのメディアによる広告が大きい役割を果たしたとされています。産業とメディアはライフスタイルに支配的な影響を与えてきたわけで、子育てよりも車や住宅、衣料などへの支出を多く配分するひとつの要因になったと考えられます。

 もし赤ちゃん関連の産業が巨大であったなら、世の中に子育ての夢をばら撒いて、出生率はそれほど低下しなかったかもしれません。教育産業は巨大ですが、出生率が増えても彼らの売上に寄与するのはずっと先の話であり、あまり広告の動機にはなりません。

 一方、社会の仕事が複雑化しているため、ある程度の教育費の増加は止むを得ませんが、高等教育の需要を満たすことによって肥大化した教育産業が高額の費用に見合っただけの役割を果たしているかというと、たいへん怪しいと思います。昔に比べ、教養豊かな人が多くなったという話もあまり聞きませんし、書籍の販売は低下の一途です。

 現在は生産年齢人口の3人が1人を支えていますが、合計特殊出生率が変わらなければ2055年には1.2人が1人を支えることになると試算されています。福祉の大幅な低下は避けられず、社会の維持すら難しくなるでしょう。

 社会の維持に必要な次の世代を育てる余裕がないというのでは、半世紀前より豊かな社会になったとは必ずしも言えません。子供手当てなどの弥縫(びほう)策がなければ子供が減少する社会はやはり不自然であり、どこかでボタンを掛け違えたような気がします。

 参考拙文誰も触れたがらない大事なこと

本当は頭の悪い人

2010-05-10 09:39:22 | Weblog
 与謝野馨氏は街頭演説で、同じ東大卒の鳩山由紀夫首相を「本当は頭の悪い人」と発言されたそうです。よくぞ言われたと思います。私も半年ほど前からまったく同じことを思っていましたが、個人のHPと言えども文字にするのは憚られました。バカ呼ばわりとあまり変わりませんから。

 与謝野氏の演説は「試験の答案は書けるけど、責任感を持ってモノを考えることができない人。弟の邦夫さんもそう言ってました」と続きます。これにも納得できますが、「本当は頭の悪い人」や「平成の脱税王」発言は与謝野氏の強い危機感を示すものと思われます。

 鳩山氏の首相としての資質に問題があるということはもはや議論の余地のないことと言ってよいでしょう。しかし腑に落ちないのはなぜ資質に問題のある人物が民主党の代表に選ばれたのかということです。メディアが伝える鳩山氏の言動からでも容易にわかることが、身近にいる議員達にわからなかったというのは不思議です。

 また、普天間問題だけでなく、高速道路料金問題、郵政問題などのたび重なる首相の不手際に対して与党内から目立った批判が出ないことも不思議です。なにか鳩山氏を批判できない事情があるのでしょうか、それとも誰かの言論統制が効いているのでしょうか。

 与謝野氏は文芸春秋5月号で民主党の政治を「悪しきアマチュアリズムによる権力の乱用に過ぎない」と総括されていますが、なかなか的を射た言葉だと思います。頂点に立つ鳩山首相自身が「学ぶにつけ、沖縄に存在する米軍全体の中で海兵隊は、抑止力が維持できるという思いに至った」と、今、学ばれている最中であることを公然とお認めになっており、アマチュアリズムを証明したことになります。

 十分に学ばれてプロの政治家になられるまではたして何年くらいかかるのでしょうか。その間に財政破綻や外交の失敗などの取り返しのつかない重大事が起こらないとは限りません。

 9日の日経の「風見鶏」は対米戦争に大きくかかわった近衛文麿と鳩山首相の類似を指摘し、政治不信の後、米英との戦争に走った過去の教訓を今こそ肝に銘じるときだと、危機感を露わにしています。

 漢字の読めない首相や、「申される」というように尊敬語と謙譲語を混ぜて使われる首相が続きました。政治に必須のことではないとは言え、かつてあまり見られなかった現象です。お二人に共通することは豊富な資金力ですが、それにものを言わせて首相になったという勘ぐる人もいることでしょう。それを否定するためにも月1500万円の「子供手当て」の使途を明かして欲しいものです。もし使途が公正なものと判明すれば、選んだ側の目がひどく曇っていたということなるでしょう。まあどちらも歓迎できるものではありませんけれど。

 しかしLOOPYなどと言われ、資質まで酷評されても職を投げ出さず、発言はころころ変わっても「決して変わることのない権力への執心」はまったく尊敬に値します。もっとも単なる「厚顔無恥」と解釈することも可能ですが。

 困ったことに、制度上、この政権はあと3年あまりも続く可能性があります。そのことに対し、マスメディアの危機感はいささか少なすぎるように思う次第です。