自分の子供には「相手の立場になって考えろ」と教えている。でないと相手の気持ちも、また弱点もわからないからだ。メディアのことを知りたい思えば、相手の気持ちになるとよい。記事を素直に読むだけではわからない裏の顔が見える。
保守系と目される編集者が朝日へ迎えられ、朝日の雑誌の編集を任されることもある(この編集者はその後、朝日を離れ、現在は保守系雑誌で活躍中)。外の顔を見ている限りこのような事実は理解できないと思う。
もし、家族持ちのあなたが左派系雑誌の編集長を任された場合のことを考えてみるとよい。あなたの最大の関心事は、販売部数となるだろう。減れば首が飛ぶからだ。以前からの読者という固定客で支えられている現実を認識することになる。方針の転換は固定客を失う恐れがある。彼らをより満足させる記事を載せるのが無難な選択となる。より過激な方針が部数を伸ばすこともある。左と右を置き換えても同じである。「販売部数が減ってもいいから君の信念を貫いてよろしい」なんて甘いことはまずあり得ない世界である。
編集者にしても経営者にしても最優先事項は会社の維持・発展と自分の地位向上である。如何に立派なことを云っていても潰れれば元も子もないのだから、これは仕方がない。日本の戦時体制下では新聞はみな軍の手下になり下がったが、「社員を路頭に迷わすわけにいかなかった」というのが戦後の代表的な言い訳のひとつである。社員のために犠牲になった と言いたいようであるが、社員の中に自分も含まれている。いまも体質はたいして変わらないと思った方がよい。
左や右の路線を継続するのは、それが固定客を大事にする商売の方法でもあるためだ。固定客は自分の考えに近い記事を歓迎する。この状態が続くと社会認識や思考方法、言葉の定義にまで及ぶ謂わば"文化"の異なる二つの固定客の集団が出来る。どちらも対立側の主張を読むことはあまりないから"文化"は純粋になり、違いは大きくなる。新聞や出版社の利益のために国内に「理解の壁」ができるのだ。「理解の壁」は社会にとってよいわけがない。
そのうち双方の過激な者同士が激しい議論を始める。一種の代理戦争である。"文化"が異なっているので話がなかなか噛み合わない。同じ日本人ながら、互いに相手がエイリアンに見えたりして、理解は期待できそうにない。議論が激しくなるほど雑誌は売れて、経営者も編集者もニンマリ、となる。読者とは金を払って踊らされているだけの上客なのだ。
歴史問題をネタにすることは販売を促進するひとつの有効な手法である。数十年昔の出来事はその真偽がなかなかわからない。わからない以上、様々な解釈が出てくる。対立相手のアタマを熱くする解釈は歓迎される。双方が熱くなれば販売部数は伸びる。しかしやり過ぎると昨今の事情を見ればわかるとおり、日中関係に水を差すなんてことになる。
南京事件などの歴史問題を一般の人間が正しく判断するなんてことは不可能である。一般人が得るのは2次、3次情報ばかりだ。AではなくBであると思うのはその人が読んだものによって決定されるといってよい。双方の固定客が与えられた情報に基づいて、熱くなって議論するのは滑稽な風景である。
もっとも経営者や編集者達が使命感をもっている場合があることは否定しない。行動の背景にはたいてい複数の動機がある。上に述べたのはメディアの性格を理解するための、ひとつの側面である。要するに、メディアの中心部には常に商人の魂が座っていることを、理解していただけたらと思うのである。
保守系と目される編集者が朝日へ迎えられ、朝日の雑誌の編集を任されることもある(この編集者はその後、朝日を離れ、現在は保守系雑誌で活躍中)。外の顔を見ている限りこのような事実は理解できないと思う。
もし、家族持ちのあなたが左派系雑誌の編集長を任された場合のことを考えてみるとよい。あなたの最大の関心事は、販売部数となるだろう。減れば首が飛ぶからだ。以前からの読者という固定客で支えられている現実を認識することになる。方針の転換は固定客を失う恐れがある。彼らをより満足させる記事を載せるのが無難な選択となる。より過激な方針が部数を伸ばすこともある。左と右を置き換えても同じである。「販売部数が減ってもいいから君の信念を貫いてよろしい」なんて甘いことはまずあり得ない世界である。
編集者にしても経営者にしても最優先事項は会社の維持・発展と自分の地位向上である。如何に立派なことを云っていても潰れれば元も子もないのだから、これは仕方がない。日本の戦時体制下では新聞はみな軍の手下になり下がったが、「社員を路頭に迷わすわけにいかなかった」というのが戦後の代表的な言い訳のひとつである。社員のために犠牲になった と言いたいようであるが、社員の中に自分も含まれている。いまも体質はたいして変わらないと思った方がよい。
左や右の路線を継続するのは、それが固定客を大事にする商売の方法でもあるためだ。固定客は自分の考えに近い記事を歓迎する。この状態が続くと社会認識や思考方法、言葉の定義にまで及ぶ謂わば"文化"の異なる二つの固定客の集団が出来る。どちらも対立側の主張を読むことはあまりないから"文化"は純粋になり、違いは大きくなる。新聞や出版社の利益のために国内に「理解の壁」ができるのだ。「理解の壁」は社会にとってよいわけがない。
そのうち双方の過激な者同士が激しい議論を始める。一種の代理戦争である。"文化"が異なっているので話がなかなか噛み合わない。同じ日本人ながら、互いに相手がエイリアンに見えたりして、理解は期待できそうにない。議論が激しくなるほど雑誌は売れて、経営者も編集者もニンマリ、となる。読者とは金を払って踊らされているだけの上客なのだ。
歴史問題をネタにすることは販売を促進するひとつの有効な手法である。数十年昔の出来事はその真偽がなかなかわからない。わからない以上、様々な解釈が出てくる。対立相手のアタマを熱くする解釈は歓迎される。双方が熱くなれば販売部数は伸びる。しかしやり過ぎると昨今の事情を見ればわかるとおり、日中関係に水を差すなんてことになる。
南京事件などの歴史問題を一般の人間が正しく判断するなんてことは不可能である。一般人が得るのは2次、3次情報ばかりだ。AではなくBであると思うのはその人が読んだものによって決定されるといってよい。双方の固定客が与えられた情報に基づいて、熱くなって議論するのは滑稽な風景である。
もっとも経営者や編集者達が使命感をもっている場合があることは否定しない。行動の背景にはたいてい複数の動機がある。上に述べたのはメディアの性格を理解するための、ひとつの側面である。要するに、メディアの中心部には常に商人の魂が座っていることを、理解していただけたらと思うのである。