『自殺サイトをめぐる男女3人連続殺人事件で、3月に大阪地裁で死刑判決を受けた無職前上博被告(38)が5日付で控訴を取り下げ、判決が確定したことがわかった。控訴は判決当日に弁護人がしたが、被告は「死をもって償うしかない」と取り下げの意向を固めていた。弁護人は「被告は適切に判断できる精神状態になく取り下げは無効」として、控訴審の期日指定を大阪高裁に申し立てる方針。』(asahi com 07/07/07)
要するに、前上博被告(判決確定後は死刑囚)は判決を受け入れ、「死刑にしてくれ」と言っているのに、弁護人は「ダメだ」と言っているわけだ。仏様のような、とっても親切な弁護士さんだ。
依頼人の利益にために働くのが弁護人である。被告の意向に反してまでの弁護行為をどう考えればいいだろう。おそろしく余計なおせっかいであると思うが、弁護人の動機が気になる。
3人を殺害した被告は、上級審まで争って、死刑を免れる可能性を追求するより、早期の死刑を選択した。仮に死刑を免れても、重荷を負いながら生き続けていくことに、あるいは自分の性格に社会と折り合いをつける困難さを感じたのかもしれない。しかしこんな他人の推定は意味を持たない。
誰よりも本人自身がよくわかっていることであり、長い時間をかけて本人が出した結論は尊重されるべきだ。生命にかかわる重要な決定を弁護人が勝手に否定するのは傲慢あるいは独善と言うべきである。自分の意に反してこんなことをされたら、私なら弁護人を即刻クビにする。私はこれこそ自己決定権を奪う、人権侵害と考える。もしかすると弁護人は反人権派か?(そんなのあったかな)
今のところ弁護人の動機は明確にされていない。死刑廃止の主張に沿うものなのか、自分の価値観を押し付ける「独善」によるものか、不明だ。弁護人は国選か私撰か知らないが、報酬を求めての行為ではないだろう。
光市の母子殺害事件は手弁当の大弁護団だそうだ。有名事件にはご親切な弁護士がいっぱいおられるのだ。そんな親切心とヒマがあったら弁護料が出せない人たちの弁護でもやったらどうかと思うが、世の脚光を浴びないならやらないよと、言われそうだ。
しかし、ご親切のために控訴審が実現すると大勢の人間が振り回されることになる。裁判所の処理能力は有限である。余分なものがひとつ割り込めば、どれかが遅れるか、はじき出される。被害者の利益にもならず、被告の利益にもならない弁護行為は、裁判という社会の資源を浪費することになる。税金によって運営されている限りある裁判制度だという認識を持ってほしい。
要するに、前上博被告(判決確定後は死刑囚)は判決を受け入れ、「死刑にしてくれ」と言っているのに、弁護人は「ダメだ」と言っているわけだ。仏様のような、とっても親切な弁護士さんだ。
依頼人の利益にために働くのが弁護人である。被告の意向に反してまでの弁護行為をどう考えればいいだろう。おそろしく余計なおせっかいであると思うが、弁護人の動機が気になる。
3人を殺害した被告は、上級審まで争って、死刑を免れる可能性を追求するより、早期の死刑を選択した。仮に死刑を免れても、重荷を負いながら生き続けていくことに、あるいは自分の性格に社会と折り合いをつける困難さを感じたのかもしれない。しかしこんな他人の推定は意味を持たない。
誰よりも本人自身がよくわかっていることであり、長い時間をかけて本人が出した結論は尊重されるべきだ。生命にかかわる重要な決定を弁護人が勝手に否定するのは傲慢あるいは独善と言うべきである。自分の意に反してこんなことをされたら、私なら弁護人を即刻クビにする。私はこれこそ自己決定権を奪う、人権侵害と考える。もしかすると弁護人は反人権派か?(そんなのあったかな)
今のところ弁護人の動機は明確にされていない。死刑廃止の主張に沿うものなのか、自分の価値観を押し付ける「独善」によるものか、不明だ。弁護人は国選か私撰か知らないが、報酬を求めての行為ではないだろう。
光市の母子殺害事件は手弁当の大弁護団だそうだ。有名事件にはご親切な弁護士がいっぱいおられるのだ。そんな親切心とヒマがあったら弁護料が出せない人たちの弁護でもやったらどうかと思うが、世の脚光を浴びないならやらないよと、言われそうだ。
しかし、ご親切のために控訴審が実現すると大勢の人間が振り回されることになる。裁判所の処理能力は有限である。余分なものがひとつ割り込めば、どれかが遅れるか、はじき出される。被害者の利益にもならず、被告の利益にもならない弁護行為は、裁判という社会の資源を浪費することになる。税金によって運営されている限りある裁判制度だという認識を持ってほしい。