5日の朝、NHK第一放送では沖縄からの「便り」を伝えていました。放送された「便り」は米軍人と交流のある70代の男性からのもので、このような視点の意見がメディアに取り上げられることはたいへん珍しいのでご紹介します。
『軍人が勤務を離れ、市民の隣人に還ったとき、彼らは本当の善き隣人になります。私達は彼らのたくさんの親切、優しさに触れることができました。この交流は他国の文化や教育など多くのことを学ぶ機会でした。そしてこれまで何げなく学んできたことが私達の暮らしの中に息づいています。
軍作業という職場で技術や英語を仕事を通して習得して大成した人。70代から80代のお年寄りが外国人と楽しく英語で話している情景は他府県では見られないことと思います。知人のアメリカの軍人は言います。私達にも悲しむ家族がいる、命はひとつしかない、死にたいと思ったこともない。自分の国の平和のためでなく、他の国の安全のために駐留して、基地反対、ヤンキー帰れと、毎日毎日言われると、考えさせられることは多い。基地があるからと片付けず、日頃の友好、交流を通じて信頼関係を深めることも大切だ思います』
沖縄では基地反対の人が大多数であるかのように報道されていますが、半数ほどは基地容認と見られています。しかし容認の立場からの発言はあまり聞こえてきません。沖縄の2大紙、朝日と深いつながりがある沖縄タイムズと琉球新報が共に左よりであることも関係があるでしょう。
「便り」から想像できるように、米軍基地が日本の平和と安全に寄与していると考える人は容認論となるでしょう。逆に言えば、反対論者は米軍基地は迷惑なだけの無用のものと考えているのでしょう。つまり反対か容認かは米軍基地が日本の平和と安全に有用と考えるか否かで決まると考えられます。つまり基地が無用と考える人は他国からの軍事的脅威がないと信じる立場であり、有用と考える人は脅威があるとする立場です。
集団的安全保障に於いても同様、意見対立の根本は他国からの軍事的脅威を認めるか否かであると思われます。将来にわたって脅威が全くないとなれば沖縄の基地や集団的安全保障など、不人気で面倒なことはまったくやらなくてもよいわけです。
つまり他国からの軍事的脅威の有無が問題の核心です。しかし、それについての議論が十分になされてきたとはとても思えません。マスコミの怠慢というべきでしょう。つまり我々は議論の前提となるべき重要な部分を曖昧なままに放置して、反対だ、賛成だと騒いでいると見ることができます。これでは実のある議論など期待しようもありません。
日本に対して軍事的な侵攻をする能力と意思のある国が存在しない時代は「9条があれば平和が保たれる」でも実害はなかったわけですが、現在は必ずしもそうとは言えません。米軍基地や集団的安全保障に反対するためには軍事的脅威が将来にわたってあり得ないということを説明する必要があります。納得できる説明をせずにただ反対するのは極めて無責任であります。
たまたま同じ時間帯の解説番組であるニュースアップではNHKの広瀬解説委員が南沙諸島問題を取り上げていました。中国がフィリピンの目と鼻の先で埋め立てを強行したのはフィリピンの基地に駐留して睨みをきかせていたアメリカ軍が1992年に撤退し、この地域に軍事的空白が生まれたからである。そこで去年、フィリピンは軍事協定を結びなおしてアメリカの関与を強めようとしているが中国の進出は抑えきれていない、と述べています。
集団的安全保障に反対する勢力は憲法に違反するという理由を挙げています。しかし「日本は憲法を守ったが侵略された」では笑い話にしかなりません。少々古い話ですが、イザヤ・ベンダサンは「 日本人は、水と安全はタダだと思っている」と述べました。いま改めて世界の「常識」を思い起こすのもよいでしょう。
『軍人が勤務を離れ、市民の隣人に還ったとき、彼らは本当の善き隣人になります。私達は彼らのたくさんの親切、優しさに触れることができました。この交流は他国の文化や教育など多くのことを学ぶ機会でした。そしてこれまで何げなく学んできたことが私達の暮らしの中に息づいています。
軍作業という職場で技術や英語を仕事を通して習得して大成した人。70代から80代のお年寄りが外国人と楽しく英語で話している情景は他府県では見られないことと思います。知人のアメリカの軍人は言います。私達にも悲しむ家族がいる、命はひとつしかない、死にたいと思ったこともない。自分の国の平和のためでなく、他の国の安全のために駐留して、基地反対、ヤンキー帰れと、毎日毎日言われると、考えさせられることは多い。基地があるからと片付けず、日頃の友好、交流を通じて信頼関係を深めることも大切だ思います』
沖縄では基地反対の人が大多数であるかのように報道されていますが、半数ほどは基地容認と見られています。しかし容認の立場からの発言はあまり聞こえてきません。沖縄の2大紙、朝日と深いつながりがある沖縄タイムズと琉球新報が共に左よりであることも関係があるでしょう。
「便り」から想像できるように、米軍基地が日本の平和と安全に寄与していると考える人は容認論となるでしょう。逆に言えば、反対論者は米軍基地は迷惑なだけの無用のものと考えているのでしょう。つまり反対か容認かは米軍基地が日本の平和と安全に有用と考えるか否かで決まると考えられます。つまり基地が無用と考える人は他国からの軍事的脅威がないと信じる立場であり、有用と考える人は脅威があるとする立場です。
集団的安全保障に於いても同様、意見対立の根本は他国からの軍事的脅威を認めるか否かであると思われます。将来にわたって脅威が全くないとなれば沖縄の基地や集団的安全保障など、不人気で面倒なことはまったくやらなくてもよいわけです。
つまり他国からの軍事的脅威の有無が問題の核心です。しかし、それについての議論が十分になされてきたとはとても思えません。マスコミの怠慢というべきでしょう。つまり我々は議論の前提となるべき重要な部分を曖昧なままに放置して、反対だ、賛成だと騒いでいると見ることができます。これでは実のある議論など期待しようもありません。
日本に対して軍事的な侵攻をする能力と意思のある国が存在しない時代は「9条があれば平和が保たれる」でも実害はなかったわけですが、現在は必ずしもそうとは言えません。米軍基地や集団的安全保障に反対するためには軍事的脅威が将来にわたってあり得ないということを説明する必要があります。納得できる説明をせずにただ反対するのは極めて無責任であります。
たまたま同じ時間帯の解説番組であるニュースアップではNHKの広瀬解説委員が南沙諸島問題を取り上げていました。中国がフィリピンの目と鼻の先で埋め立てを強行したのはフィリピンの基地に駐留して睨みをきかせていたアメリカ軍が1992年に撤退し、この地域に軍事的空白が生まれたからである。そこで去年、フィリピンは軍事協定を結びなおしてアメリカの関与を強めようとしているが中国の進出は抑えきれていない、と述べています。
集団的安全保障に反対する勢力は憲法に違反するという理由を挙げています。しかし「日本は憲法を守ったが侵略された」では笑い話にしかなりません。少々古い話ですが、イザヤ・ベンダサンは「 日本人は、水と安全はタダだと思っている」と述べました。いま改めて世界の「常識」を思い起こすのもよいでしょう。