文化人類学者ルース・ベネディクトによる日本文化論「菊と刀」は広く読まれた本です。西欧は内面的な罪の意識が規定する「罪の文化」であるのに対し、日本人のそれは「恥の文化」であるとされます。双方の規制効果は似ていますが、神の目はどこにもあるのに対し、恥の場合は他人から見られなかった場合、規制効果がありません。つまりバレなければやってしまおうというわけです。まあそれほど単純な話であるとは思いませんけれど。
東日本大震災などで、被災者の秩序ある行動が世界から称賛されました。ということは、世界の多くの地域では相対的に利己的な行動が常識であるということなのでしょう。この理由について、日本人の「公」の意識の高さを挙げる意見があります。
日本人の「公」の意識は武士階級の倫理である武士道が庶民階級にも影響を与えた結果であると司馬遼太郎は言っていたそうですが、理由はともかく、たいていの日本人は「公」を優先することを美しいと感じ、「私」を優先することを卑しいと思う感性を強く持っています。時代劇に出てくる武士道はかなり美化されたものと思いますが、精神のあり方として美しく、魅力的なものです。もろん、自由を制限される窮屈さもありますが。
舛添氏の行動を見ていると、彼が「恥の文化」や「武士道」とはほど遠い人物であるように見えます。公私混同が明確になってからもそれを恥じる様子は見られず、見苦しく言い逃れる行動ばかりが目立ちました。公私混同がひどいこと自体、公に対する意識の低さを示しています。
舛添氏は日本の古い文化の影響をあまり受けなかった新人類かもしれません。それは「私」に対し「公」を軽視した戦後教育をしっかり学ばれた結果かもしれません。たいへん成績優秀な方であったそうなので。
一方、舛添氏が辞任の意思を示された後、都議会の共産党は百条委員会を設置してさらに舛添氏を追及する姿勢を示しました。負けを認め、地位を去る決断をした敗将をなおも厳しく追討しようとする姿勢を私は見苦しく感じます。問われたのは知事としての資質であり、金銭疑惑は少額です。追討の必要など、あるとは思えません。辞任だけで十分であり、失意の人間をこれ以上追討することは美しくありません。
また、左派系テレビのなかに、共産党と同様、追討すべきだというキャスターが半数程度いたように感じました。見苦しいことを見苦しいと感じない人たちなのでしょう。共産党も左派のキャスターも戦後教育の優等生なのかもしれません。
舛添氏を知事にした責任は誰にあるのでしょうか。推薦した自民・公明と、選挙で投票した都民、それにマスコミでしょうけど、都民はマスコミの出す情報に従っただけですからマスコミの責任は重大です。舛添氏は自民党が政権を失った翌春に離党するという信頼を損なうような行動がありましたが、問題視されませんでした。不正確な情報が選挙結果を招いたのは間違のない事実です。しかし今回、それに関する謝罪は一切ありません。投票した都民の責任だ、と言わんばかりです。
舛添氏の不都合な事実を最初に伝えたのは週刊誌で、はるかに強力な取材能力をもつ新聞・テレビは無能でありました。彼らがしたのは問題が発覚してからの付和雷同だけでした。責任を感じることもなく、面白くしかも長持ちする最高のネタが努力もせずにとれたと、手放してでお喜びのことでしょう。
東日本大震災などで、被災者の秩序ある行動が世界から称賛されました。ということは、世界の多くの地域では相対的に利己的な行動が常識であるということなのでしょう。この理由について、日本人の「公」の意識の高さを挙げる意見があります。
日本人の「公」の意識は武士階級の倫理である武士道が庶民階級にも影響を与えた結果であると司馬遼太郎は言っていたそうですが、理由はともかく、たいていの日本人は「公」を優先することを美しいと感じ、「私」を優先することを卑しいと思う感性を強く持っています。時代劇に出てくる武士道はかなり美化されたものと思いますが、精神のあり方として美しく、魅力的なものです。もろん、自由を制限される窮屈さもありますが。
舛添氏の行動を見ていると、彼が「恥の文化」や「武士道」とはほど遠い人物であるように見えます。公私混同が明確になってからもそれを恥じる様子は見られず、見苦しく言い逃れる行動ばかりが目立ちました。公私混同がひどいこと自体、公に対する意識の低さを示しています。
舛添氏は日本の古い文化の影響をあまり受けなかった新人類かもしれません。それは「私」に対し「公」を軽視した戦後教育をしっかり学ばれた結果かもしれません。たいへん成績優秀な方であったそうなので。
一方、舛添氏が辞任の意思を示された後、都議会の共産党は百条委員会を設置してさらに舛添氏を追及する姿勢を示しました。負けを認め、地位を去る決断をした敗将をなおも厳しく追討しようとする姿勢を私は見苦しく感じます。問われたのは知事としての資質であり、金銭疑惑は少額です。追討の必要など、あるとは思えません。辞任だけで十分であり、失意の人間をこれ以上追討することは美しくありません。
また、左派系テレビのなかに、共産党と同様、追討すべきだというキャスターが半数程度いたように感じました。見苦しいことを見苦しいと感じない人たちなのでしょう。共産党も左派のキャスターも戦後教育の優等生なのかもしれません。
舛添氏を知事にした責任は誰にあるのでしょうか。推薦した自民・公明と、選挙で投票した都民、それにマスコミでしょうけど、都民はマスコミの出す情報に従っただけですからマスコミの責任は重大です。舛添氏は自民党が政権を失った翌春に離党するという信頼を損なうような行動がありましたが、問題視されませんでした。不正確な情報が選挙結果を招いたのは間違のない事実です。しかし今回、それに関する謝罪は一切ありません。投票した都民の責任だ、と言わんばかりです。
舛添氏の不都合な事実を最初に伝えたのは週刊誌で、はるかに強力な取材能力をもつ新聞・テレビは無能でありました。彼らがしたのは問題が発覚してからの付和雷同だけでした。責任を感じることもなく、面白くしかも長持ちする最高のネタが努力もせずにとれたと、手放してでお喜びのことでしょう。