十分な議論もなく、突如、国民の前に現れた印象が強い裁判員制度だが、批判する動きが出てきた。
半ば強制的に裁判員に選ばれた場合、裁判員が様々な不利益をこうむることについての議論に加え、文芸春秋11月号に載った、元東京高裁部統括判事の大久保太郎氏の「裁判員制度のウソ、ムリ、拙速」は違憲という視点から同制度を批判している。だが違憲など法理の問題における異論は常にあり、どうでもよい。
もっとも重要なことは、裁判員制度がより公正な裁判を実現できるのかということであり、この視点からの論評はあまりお目にかからない。公正な裁判を実現する上で、以下の点が大きな障害になるのではないかと懸念する。
①素人が、事実を正確に評価・認定できるだろうか。
②この仕事に不適格な裁判員が選ばれる可能性がある。
③他人に同調しやすい付和雷同型の多い日本人に独立した意見を期待できるか。
④裁判員は時間に制約のある場合が多く、早く評決を出そうとする力が働く可能性があること。
以下理由を述べる。
①刑事裁判の機能は、事実をできる限り正確に認定し、適切な量刑を決定することだ。争点が幾つもあったり、矛盾した事柄があったりと、複雑なケースも多い。難しい仕事であるからこそ、判事はもともと難しい司法試験合格者の中でも優秀な人材が選ばれてきたのだろう。全体の3分の2が無作為で選ばれた素人で可能だとすると、従来の優秀な人材の教育・選抜システムはあまり必要ないことになる。
②同制度は平均的な一般人を想定していると思うが、6名では平均化は難しく、ばらつきが避けられない。簡単な詐欺に引っかかる人、怪しい宗教を信じる人、つまり乗せられ易い人もいれば、事件の正確な把握が困難な読解力の低い人もいる。陰謀説を信じるなど現状認識が異にし、話が噛み合わない人もいる。社会への理解が十分ではない20歳の若者もいる。どうしようもない不真面目なものもいる。6名ではこのような不適格な人が多く紛れ込む可能性を排除できない。
③6名の素人がみんな自分の意見を自由に発表するだろうか。「私も同じです」と言っておけば、反論されることもなく、被告を裁くという重圧も軽減される。日本人の付和雷同気質はその傾向を助長する。また職業裁判官に比べ感情に左右される度合いも大きいと思われる。米国の陪審員は美男美女に甘い評決をする傾向があるとも言われている。悪人面には逆の傾向があるだろう。
④最高裁、法務省、日弁連共同の広告には「多くの場合、裁判員の仕事は3日以内で終わる」と書かれている。このような期待を持って参加したところ、5日や10日になったら、「早く終わらせてくれ」という強い要求が出るだろう。議論は収束していないが、これ以上仕事を休めないので判決を出しましょう、では被告はたまらない。
裁判員制度の利点として裁判の迅速化が言われているが、時間の制約を設けて迅速化を図るのはおかしい。拙速につながる。公判の密度を高める方向での迅速化ならわかるが、それなら裁判員制度でなくても実現可能だ。
文春の記事によれば、同制度は司法制度改革審議会の中坊公平氏らが熱心に導入を図り、国民に詳しい説明もされず、また国会でも実質的な論議をされず04年夏、成立したという。
この制度の背景には一般国民の判断というものに対する盲目的な信頼があるのではないか。言うまでもなく、民主主義は国民の判断への信頼を基盤としている。しかしそれは集合(マス)としての平均化された国民の判断である。裁判員制度は僅か6名の平均化されない人たちが直接被告を裁くのだ。無作為に選んだ素人6名に3名のプロをつけて、政治を任せられるだろうか。
チャーチルの「民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば」という有名な言葉は民主主義を盲目的に信じる軽薄な者に対する警告だとも解釈できる。民主主義のワイマール体制はヒトラーを生んだように、マスの判断であっても間違いはしばしば起こる。
少なくとも1名の裁判官の賛成が条件とは言え、評決は裁判官3名、裁判員は6名の合計9名による多数決で決定されるので裁判員は大きな影響力を持つ。裁判員の当たり外れによって裁判の結果が大きく変動するようでは裁判の公正さは損なわれてしまう。
前回に書いたが、同じ想定の事件についての模擬裁判が2ヶ所で行われたが、一方では殺人未遂で実刑判決、他方は傷害致死で執行猶予付き(実際の服役なし)の判決が出た。
この制度を推進した人たちは、予想だけに基づいて制度をつくった。このような分野で確実な予想は不可能だ。法曹界の偉い方々が大勢よってたかったとしてもいい加減なものしか作れない。従って、この制度の成否は「やってみないとわからない」ことになり、それではあまりに無責任だ。
司法制度改革審議会のメンバー13人のうち中坊氏ら法曹関係者は約半数を占め残りは実業家、労組代表、主婦連代表、作家などである。司法試験合格者を3000人に激増させることもこの審議会で決められた。(審議会のHP)
こんな影響の大きいことをなぜ机上の予想だけに基づいて決めたのか。いまからでも同一の想定事件について、無作為抽選から始める実験裁判を数箇所で実施し、制度の信頼性を確かめてから実施すべきである。模擬裁判によって判決がまちまちになることを懸念する。一般人の常識を裁判に取り入れるために、公正さが損なわれては話にならない。
半ば強制的に裁判員に選ばれた場合、裁判員が様々な不利益をこうむることについての議論に加え、文芸春秋11月号に載った、元東京高裁部統括判事の大久保太郎氏の「裁判員制度のウソ、ムリ、拙速」は違憲という視点から同制度を批判している。だが違憲など法理の問題における異論は常にあり、どうでもよい。
もっとも重要なことは、裁判員制度がより公正な裁判を実現できるのかということであり、この視点からの論評はあまりお目にかからない。公正な裁判を実現する上で、以下の点が大きな障害になるのではないかと懸念する。
①素人が、事実を正確に評価・認定できるだろうか。
②この仕事に不適格な裁判員が選ばれる可能性がある。
③他人に同調しやすい付和雷同型の多い日本人に独立した意見を期待できるか。
④裁判員は時間に制約のある場合が多く、早く評決を出そうとする力が働く可能性があること。
以下理由を述べる。
①刑事裁判の機能は、事実をできる限り正確に認定し、適切な量刑を決定することだ。争点が幾つもあったり、矛盾した事柄があったりと、複雑なケースも多い。難しい仕事であるからこそ、判事はもともと難しい司法試験合格者の中でも優秀な人材が選ばれてきたのだろう。全体の3分の2が無作為で選ばれた素人で可能だとすると、従来の優秀な人材の教育・選抜システムはあまり必要ないことになる。
②同制度は平均的な一般人を想定していると思うが、6名では平均化は難しく、ばらつきが避けられない。簡単な詐欺に引っかかる人、怪しい宗教を信じる人、つまり乗せられ易い人もいれば、事件の正確な把握が困難な読解力の低い人もいる。陰謀説を信じるなど現状認識が異にし、話が噛み合わない人もいる。社会への理解が十分ではない20歳の若者もいる。どうしようもない不真面目なものもいる。6名ではこのような不適格な人が多く紛れ込む可能性を排除できない。
③6名の素人がみんな自分の意見を自由に発表するだろうか。「私も同じです」と言っておけば、反論されることもなく、被告を裁くという重圧も軽減される。日本人の付和雷同気質はその傾向を助長する。また職業裁判官に比べ感情に左右される度合いも大きいと思われる。米国の陪審員は美男美女に甘い評決をする傾向があるとも言われている。悪人面には逆の傾向があるだろう。
④最高裁、法務省、日弁連共同の広告には「多くの場合、裁判員の仕事は3日以内で終わる」と書かれている。このような期待を持って参加したところ、5日や10日になったら、「早く終わらせてくれ」という強い要求が出るだろう。議論は収束していないが、これ以上仕事を休めないので判決を出しましょう、では被告はたまらない。
裁判員制度の利点として裁判の迅速化が言われているが、時間の制約を設けて迅速化を図るのはおかしい。拙速につながる。公判の密度を高める方向での迅速化ならわかるが、それなら裁判員制度でなくても実現可能だ。
文春の記事によれば、同制度は司法制度改革審議会の中坊公平氏らが熱心に導入を図り、国民に詳しい説明もされず、また国会でも実質的な論議をされず04年夏、成立したという。
この制度の背景には一般国民の判断というものに対する盲目的な信頼があるのではないか。言うまでもなく、民主主義は国民の判断への信頼を基盤としている。しかしそれは集合(マス)としての平均化された国民の判断である。裁判員制度は僅か6名の平均化されない人たちが直接被告を裁くのだ。無作為に選んだ素人6名に3名のプロをつけて、政治を任せられるだろうか。
チャーチルの「民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば」という有名な言葉は民主主義を盲目的に信じる軽薄な者に対する警告だとも解釈できる。民主主義のワイマール体制はヒトラーを生んだように、マスの判断であっても間違いはしばしば起こる。
少なくとも1名の裁判官の賛成が条件とは言え、評決は裁判官3名、裁判員は6名の合計9名による多数決で決定されるので裁判員は大きな影響力を持つ。裁判員の当たり外れによって裁判の結果が大きく変動するようでは裁判の公正さは損なわれてしまう。
前回に書いたが、同じ想定の事件についての模擬裁判が2ヶ所で行われたが、一方では殺人未遂で実刑判決、他方は傷害致死で執行猶予付き(実際の服役なし)の判決が出た。
この制度を推進した人たちは、予想だけに基づいて制度をつくった。このような分野で確実な予想は不可能だ。法曹界の偉い方々が大勢よってたかったとしてもいい加減なものしか作れない。従って、この制度の成否は「やってみないとわからない」ことになり、それではあまりに無責任だ。
司法制度改革審議会のメンバー13人のうち中坊氏ら法曹関係者は約半数を占め残りは実業家、労組代表、主婦連代表、作家などである。司法試験合格者を3000人に激増させることもこの審議会で決められた。(審議会のHP)
こんな影響の大きいことをなぜ机上の予想だけに基づいて決めたのか。いまからでも同一の想定事件について、無作為抽選から始める実験裁判を数箇所で実施し、制度の信頼性を確かめてから実施すべきである。模擬裁判によって判決がまちまちになることを懸念する。一般人の常識を裁判に取り入れるために、公正さが損なわれては話にならない。
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