オウム真理教の幹部7人に死刑が執行された。首謀者である麻原とその弟子の6人が同じ死刑であることには違和感がある。麻原の犯した罪の重大さは死刑でも償えるようなものではないが、弟子の6人はもし麻原と出会わなければ普通の生活をしていただろう人達である。組織のまじめ一員として、上司の意向に忠実に従って犯した罪を裁くのは難しい。ハンナ・アーレントは、ユダヤ人の大量殺戮に重要な役割を果たしたアイヒマンは極悪人などではなく、単に組織に忠実な普通の人間として評価して物議を醸したが、ここにも同じ問題がある。しかし麻原と部下の刑が同じでは不公平だと言えるが、地獄送りなど、死刑より重い刑はないので仕方がない。また十数人の死者という被害の重大性を考えれば1人の死刑だけではバランスを欠き、国民の納得が得られないこともあるかもしれない。数のバランスを取るというのには少し違和感があるが。
オウム真理教はカルト集団だと言われる。だが宗教団体とカルト集団の境界は曖昧である。千人ほどが集団自殺したアメリカの「人民寺院」はカルトに分類されるだろうが、イスラム原理主義のIS(イスラム国)やタリバン、ボコハラムは宗教なのか、それともカルトなのか、区別は難しい。中世のヨーロッパでは数万人が魔女とされ、その多くが残酷な火炙りにされたが、これにはキリスト教が深く関わっている。淫祠邪教という言葉は古くからあり、邪教の存在は珍しいことではなかったと思う。
信教の自由は憲法で保障されている。オウム真理教への捜査が遅れたのも、メディアの批判が及び腰であったのも、信教の自由が影響していたと言われている。信教の自由がオウム真理教を強く保護したのは事実である。無論、信教の自由が悪いとはいうことではない。物事には両面があるだけのことである。
無害な宗教と有害なカルトとは明確に区別できない。しかし両者とも神など、ありもしないものをあると主張し、人を騙す点では同じである。よく言われるように神の不存在証明は現実には不可能と言ってよい。宗教側が神の存在を証明するのが筋だと思うが、できるわけがないので誤魔化しているようである。宗教とカルトは本質的に同じものと考えられる。違いは反社会的な行為が目立つかどうかだけである。とにかく組織的に大勢の人を騙すのはよくない。
オウム真理教ほどでなくても信者の全財産を巻き上げたり、家族を奪ったりする宗教被害は決して少なくない。このようなことは野放しにされている。メディアも警察も腰が重い。本人が何を信じようと自由であるが、それを他人に押しつける行為は少し違うように思う。日本は宗教の信者が特に少ない国であり、布教活動にある程度の制限を課することができると思うが、運悪く、創価学会があるので無理かもしれない。日本は政教分離の国の筈であるが不思議なことに誰も問題にしない。
オウム真理教は高学歴の信者が多かったそうだ。これは高学歴でも宗教の嘘を見破ることができなかったことを意味する。つまり教育の問題でもある。簡単に不合理なものを信じない、騙されないだけの知識を与えていなかったということになる宗教のもつ正の面、負の面とともに宗教が本来もつ不合理性を教えるべきである。不合理なものに騙されないようにするのが教育の役割である。
オウム真理教はカルト集団だと言われる。だが宗教団体とカルト集団の境界は曖昧である。千人ほどが集団自殺したアメリカの「人民寺院」はカルトに分類されるだろうが、イスラム原理主義のIS(イスラム国)やタリバン、ボコハラムは宗教なのか、それともカルトなのか、区別は難しい。中世のヨーロッパでは数万人が魔女とされ、その多くが残酷な火炙りにされたが、これにはキリスト教が深く関わっている。淫祠邪教という言葉は古くからあり、邪教の存在は珍しいことではなかったと思う。
信教の自由は憲法で保障されている。オウム真理教への捜査が遅れたのも、メディアの批判が及び腰であったのも、信教の自由が影響していたと言われている。信教の自由がオウム真理教を強く保護したのは事実である。無論、信教の自由が悪いとはいうことではない。物事には両面があるだけのことである。
無害な宗教と有害なカルトとは明確に区別できない。しかし両者とも神など、ありもしないものをあると主張し、人を騙す点では同じである。よく言われるように神の不存在証明は現実には不可能と言ってよい。宗教側が神の存在を証明するのが筋だと思うが、できるわけがないので誤魔化しているようである。宗教とカルトは本質的に同じものと考えられる。違いは反社会的な行為が目立つかどうかだけである。とにかく組織的に大勢の人を騙すのはよくない。
オウム真理教ほどでなくても信者の全財産を巻き上げたり、家族を奪ったりする宗教被害は決して少なくない。このようなことは野放しにされている。メディアも警察も腰が重い。本人が何を信じようと自由であるが、それを他人に押しつける行為は少し違うように思う。日本は宗教の信者が特に少ない国であり、布教活動にある程度の制限を課することができると思うが、運悪く、創価学会があるので無理かもしれない。日本は政教分離の国の筈であるが不思議なことに誰も問題にしない。
オウム真理教は高学歴の信者が多かったそうだ。これは高学歴でも宗教の嘘を見破ることができなかったことを意味する。つまり教育の問題でもある。簡単に不合理なものを信じない、騙されないだけの知識を与えていなかったということになる宗教のもつ正の面、負の面とともに宗教が本来もつ不合理性を教えるべきである。不合理なものに騙されないようにするのが教育の役割である。
刑執行の事実をを冷静に受け入れたで、
表題に触れようと思います。
旧オウム教団が、坂本弁護士一家殺害や
、冤罪まで起こした 松本サリン事件の
凶行を重ね始めても、警察捜査やマスコ
ミの追及が及び腰だったのは、間違いな
く日本国憲法「信教の自由」の厚い壁が
あった為と、拙方も思います。
「物事には二面性ある」はその通りで、
旧オウム教団の場合も、高学歴の幹部衆
でも その二面性が見抜けなかったとい
う事でしょうか。
教育の問題は、確かに大事でしょう。
「宗教の持つ不合理性」は、いずれ若い
世代に教えるべき事共と心得ます。
これ確か、平成の初期に、文科省や自民
文教部会が、宗教教育の是非につき議論
した事を聞いてまして、実現すれば貴記
事の様な教育にも道を開いたのではとい
う気もしますが、やはり左派野党を頭目
とする勢力の妨害で、潰えた様な記憶が
ありまして。
信教の自由が尊重されてきた背景として、宗教はよいもの、とする価値観があったのだろうと思います。これが間違いのもとであったわけで、宗教には悪いものもあるという認識がなかったのでしょう。
「平成の初期、文科省や自民
文教部会が、宗教教育の是非につき議論
した事」
かなり昔の事てですが、よくご存じですね。やはり潰したのは左派野党ですか。ありそうなことですね。