野々村竜太郎元兵庫県会議員の前代未聞の号泣記者会見は世界に知れ渡りました。たしかに号泣場面は面白いのですが、これほどまで繰り返されるとちょっと気の毒に思います。さらに野々村氏が議員を辞め、公の場に姿を見せなくなってからも、彼のマンションの廊下にはマスコミの連中が鈴なりになって待ち構えていました。恐らく100人は下らないと思います。まことに下らないことですが。
これは精神的な拷問です。気の弱い人なら自殺の強い誘因となるでしょう。野々村氏は議員を辞め、1800万円ほどの返済も済ませています。職も名誉も失った失意の人間に対し、大集団でしつこく攻撃するのは見苦しい光景です。政務活動費のごまかしは名目で、号泣するキャラクターの面白さが報道の主な動機なのでしょう。
野々村氏にはさらに追い討ちがかかりました。県議会も既に、虚偽公文書作成などの疑いで告発していますが、兵庫県内の三つの市民団体が詐欺などの疑いで刑事告発したそうです。こちらも集団による追い討ちです。わざわざ警察に「いいつけ」たわけです。大悪人並みの扱いです。失礼ながらそれほどの大物にはとても見えません。
野々村氏の不祥事のレベルと報道のレベルが釣り合いません。マスコミによるバッシングがあまりに過大なのです。報道の苛烈さ、大きさが野々村氏の罪を実際以上に大きく見せた可能性があります。市民団体による告発は恐らく過剰な報道の影響を受けたものと思われます。
それにしてもこの市民団体の苛酷さ、容赦ない行為には驚きます。個人の行為なら、奇人・変人がしたことだからと気にとめることはないですが、これは大勢が十分議論した結果の行為です。職も名誉も失った人間に対し、集団としてここまで無慈悲になれることに戦慄を覚えます。政治生命も断たれたし、もうこれくらいでいいではないか、と誰も言わなかったのでしょうか。
聖書の有名な一節に「右の頬を打たれたら、左の頬をも差し出しなさい」というのがあります。いろんな解釈があるようですが、多分、赦すことの大切さを教えたものだと思います。赦すことは社会の安定を維持する上で大事な要素ですが、当時はそれが不足していたという認識があったからこそ、この言葉が述べたられのだと、その背景を推定することができます。また赦すことは本能などによって自然に生まれものでは足りず、教える必要があるものだということも推測できます。
しかし最近の日本は逆に動いているようです。刑事事件では厳罰化が進み、不祥事を起こした人間に対するマスコミのバッシングも激しさを増しているように感じます。ニュースを娯楽のネタにするワイドショーでは罪の重さや報復感情ばかり強調され「赦す」という面に関心が向けられることはまずありません。赦すことの価値・大切さはすっかり忘れ去られた観があります。
犯罪が増加しているのならともかく、凶悪犯罪も含め犯罪件数が減少傾向にある中での厳罰傾向は奇妙な現象です。その原因はマスコミの報道姿勢以外にちょっと考えられません。マスコミの繁栄や視聴者の退屈しのぎと引き換えに、我々は徐々に寛容さを失っていくのではないでしょうか。
これは精神的な拷問です。気の弱い人なら自殺の強い誘因となるでしょう。野々村氏は議員を辞め、1800万円ほどの返済も済ませています。職も名誉も失った失意の人間に対し、大集団でしつこく攻撃するのは見苦しい光景です。政務活動費のごまかしは名目で、号泣するキャラクターの面白さが報道の主な動機なのでしょう。
野々村氏にはさらに追い討ちがかかりました。県議会も既に、虚偽公文書作成などの疑いで告発していますが、兵庫県内の三つの市民団体が詐欺などの疑いで刑事告発したそうです。こちらも集団による追い討ちです。わざわざ警察に「いいつけ」たわけです。大悪人並みの扱いです。失礼ながらそれほどの大物にはとても見えません。
野々村氏の不祥事のレベルと報道のレベルが釣り合いません。マスコミによるバッシングがあまりに過大なのです。報道の苛烈さ、大きさが野々村氏の罪を実際以上に大きく見せた可能性があります。市民団体による告発は恐らく過剰な報道の影響を受けたものと思われます。
それにしてもこの市民団体の苛酷さ、容赦ない行為には驚きます。個人の行為なら、奇人・変人がしたことだからと気にとめることはないですが、これは大勢が十分議論した結果の行為です。職も名誉も失った人間に対し、集団としてここまで無慈悲になれることに戦慄を覚えます。政治生命も断たれたし、もうこれくらいでいいではないか、と誰も言わなかったのでしょうか。
聖書の有名な一節に「右の頬を打たれたら、左の頬をも差し出しなさい」というのがあります。いろんな解釈があるようですが、多分、赦すことの大切さを教えたものだと思います。赦すことは社会の安定を維持する上で大事な要素ですが、当時はそれが不足していたという認識があったからこそ、この言葉が述べたられのだと、その背景を推定することができます。また赦すことは本能などによって自然に生まれものでは足りず、教える必要があるものだということも推測できます。
しかし最近の日本は逆に動いているようです。刑事事件では厳罰化が進み、不祥事を起こした人間に対するマスコミのバッシングも激しさを増しているように感じます。ニュースを娯楽のネタにするワイドショーでは罪の重さや報復感情ばかり強調され「赦す」という面に関心が向けられることはまずありません。赦すことの価値・大切さはすっかり忘れ去られた観があります。
犯罪が増加しているのならともかく、凶悪犯罪も含め犯罪件数が減少傾向にある中での厳罰傾向は奇妙な現象です。その原因はマスコミの報道姿勢以外にちょっと考えられません。マスコミの繁栄や視聴者の退屈しのぎと引き換えに、我々は徐々に寛容さを失っていくのではないでしょうか。
自分でも立ち止まって考えさせられます。死者に鞭打つような残酷なパッシング・・・・・・、知らずして自分も参加しているかもしれないと、反省したくなります。
「赤信号、みんなで渡れば怖くない。」と、こんな行動はすまいと自戒しつつ、振り返ることしきりです。
しかし、どうでしょう。わが国を攻撃する中国・韓国への怒り、反日朝日への怒りなど、こういうものも同じなのでしょうか。
右の頬を打たれたら、左も差し出せというキリストより、
目には目をというイスラム的思考に、私は傾いております。
それでもなお、貴方のご意見は大切な、貴重なものであると敬意なしには読めません。
その理由は、貴方という人が語られるからであり、他の人が言えば、こうまで素直になれたかどうか、そこのところは疑問です。
わが国を攻撃する中国・韓国や反日朝日は相手が強力な集団であり、少し異なると思います。