「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

福岡県築上町 ・ 航空自衛隊築城基地  「 F-2 」

2018-05-17 23:25:41 | 戦闘機 ・ 自衛隊関係




























洋上迷彩の機体が宙を翔ぶ
航空自衛隊築城基地で行われている
アグレッサー部隊との合同訓練で
降りてきたF-2



奄美大島  「 名瀬港立神灯台 」

2018-05-17 19:45:47 | お題






































今まで数え切れないくらい多くの島を旅したが、
どの島にもたくさんの思い出がある。
その想い出はどれが一番だとは付け難いが、
あえて旅の想い出として強く印象に残るのは、
奄美大島の名瀬港の入り口にある 「 立神島 」 の灯台に行ったことである。

この灯台へは船のチャーターも出来ないくらいの場所で、
遠くの防波堤から写真を撮っていたら、
 「 この防波堤は、この前も釣り人が落ちたから立ち入ったら駄目ですよ 」 と言われ、
 「 釣りじゃなくて、灯台の写真を撮っている 」 と言うと、
 「 あの灯台に行きたい? 」 と訊かれ、
 「 行きたい 」  と即答すると、
 「 昼休みに連れて行ったヤルよ 」 と言われて、
連れって行ってもらった島の灯台である。


奄美も、喜界島も、伊平屋島も伊是名島も、
徳之島も沖永良部も与論も、
伊江島も水納島も久米島も渡名喜島も渡嘉敷島も、
波照間島も宮古島も石垣島も多良間島も
津堅島も久高島も、その他いろんな島に行ったが、
それぞれの島にそれぞれの思い出がある。

多良間島の知念さんの自転車も思い出があるが、
今回は立神島の灯台にさせてもらった。



熊本県菊鹿町  「 隈部親永と一族十二名の墓 」

2018-05-17 13:41:26 | 歴史 ・ 墓 ・ 城 ( 本土 )































先日紹介した  「 隈部氏館跡 」  の裏山にある隈部親永と一族十二名の墓である。

戦国時代、菊池氏が滅亡したのち、
その本城だった隈府城は、赤星 ( あかほし ) 氏、
ついで隈部 ( くまべ ) 氏が城主となった。
戦国末期、佐々成政 ( さっさなりまさ ) が肥後国主のとき、
肥後国人一揆の発端となる隈府城籠城戦を起こしたのが
隈部親永 ( くまべちかなが ) である。
隈部氏は、清和源氏・宇野氏の末裔といわれ、代々菊池氏の重臣であった。

天正八年 ( 1579 )、龍造寺勢が肥後へ進攻、
筒ヶ岳城 ( つつがたけじょう ) 、長坂城を落とす。
翌天正九年 ( 1580 ) 、龍造寺勢は再び肥後へ進攻、隈府城を取り囲んだ。
城主・赤星統家 ( あかほしむねいえ=親隆ちかたか、
道半どうはん ) は人質を出して降伏、
合志氏の竹迫城 ( たかばじょう ) へ移った。
これにより、隈部親永は隈府城へ入り、ここを本拠とした。
隈部館には、一族の富田氏続を城代として置いたという。
隈部氏の勢力は山鹿郡、菊池郡に及び、国人とはいっても大勢力となった。

このあとの親永の活躍は隈府城を中心として行われる。
そして、天正十五年 ( 1587 ) 、肥後国主となった
佐々成政 ( さっさなりまさ ) に反抗、
国人一揆 ( こくじんいっき ) へと騒動が拡大していく。
親永は息子の第二十九代・隈部親安 ( くまべちかやす ) とともに戦ったが、
黒田如水 ( くろだじょすい ) らの説得に応じ開城、
親永は柳川城の立花宗茂 ( たちばなむねしげ ) へ、
親安は小倉城の毛利勝信 ( もうりかつのぶ ) へ預けられ、
やがて両人とも切腹させられた。
だまし討ちともいう。
そして、 隈部氏はここに滅んだ。


第5位 みずがめ座 今日のラッキーアドバイス 「 郵便ポスト 」

2018-05-17 06:00:45 | 今日の占い ・ 二十八宿とコトバ








今日の天気は曇りのち晴れ!
だけど、今朝の散歩では雨の匂いがした。
 「 もわぁ~ 」 として、空気が淀んでいた。

今日で今の現場も終わって一段落。
明日の雨は気をもむこと無く過ごせそうである。
そんな今日の順位は5位で、
ラッキーアドバイスは、
 「 郵便ポスト 」 である。

助けてくれる親切な人が・・・
感謝の気持ちを伝えよう!


二十八宿 斗 ( と ) 地面を動かすこと、建築に吉。他は用いず。



      今日のコトバ

 確信したことを成し遂げるだけの力は誰にも残っている

 ( ゲーテ 1749~1832  ドイツの作家 )