独第一放送の名物ナレーター、ウルリッヒ・ヴィッケルトが新番組を始めたようです。TVは基本的に観ませんので、その文学鑑賞番組はまだ未見です。第一回目はご本人のご友人でもあるギュンター・グラスへのインタヴューで番組が進行したようです。その内容には今関心がありませんが、このジャーナリストの生い立ちを読んで面白いと思いました。
氏は1942年に東京に生まれています。お父様は、ラジオドラマなどを書く物書きであると同時に外交官でありました。東京に駐在していたようです。氏は年長のお兄様と五歳まで、恐らく戦火を避けて郊外に家族と共に疎開していたようであります。
流石に語り手の流暢な語り口ですので、FAZのインタヴュー記事をそのままここに訳します。
僅か五年ぐらいでドイツに帰ってきました。思い起こすのは、私たちが日本で住んでいた村と家です。それはとても牧歌的でした。美しい湖に島が一つあって、素晴らしい山・富士山のまるまる裾野です。少し年長の兄と私たちは木造の家に住んでいました。いまだに目前にあります。とても粗末な農家で、下には居間と台所と汲み取り便所と所謂お風呂がありました。お風呂は木樽で出来ていて、下から釜で炊くようになっていました。皆が一斉に入らないといけないことから週に一度しか炊きませんでした。上には両親の寝間と息子たちの寝間がありました。父は鶏を飼っており、私たちは遊びに事欠かない素晴らしい環境にありました。子供としては想像も出来ないほど素晴らしい環境です。後年一度、そこを訪ねました。その家は現存せず、橋が架かっていました。湖はそのままです。小さな杜のお社は思い出の中に失せてしまいました。私と兄であのころ木っ端を集めた場所です。子供たちは何時も何かをやるのに木っ端が要ります。小屋を建てたり、船を作ったりと。杜の中へと駆け入りました。そこには赤白に新しく美しく塗られた社が建っていました。不愉快でした。なぜならば私の頭には古いお社が建っていたからです。そしてもう一つ驚くべきことに気がつきました。私の記憶には富士山がなかったのです。それは、ただのある光景だったのです。子供の私にはそれはどうも必要なかったのでしょう。しかし富士は、湖の真向こうに聳えています。それはそれは素晴らしい不思議なばかりの光景です。一度富士を見た者なら一度たりとも忘れません。そんな山は世界の何処にもありません、それほど美しく、調和が取れているのです。
1942年から1947年、戦中から終戦を挟んで戦後にかけての日本の思い出です。子供たちは、衣食住に不住せず空襲がない限り、只一度の時を夢のような楽園で過したのかもしれません。何よりも想い出は美しく縁取られ、だから郷愁に耽ることが出来るのです。美しい国は過去にのみ存在して、将来にも、何処にもありません。
参照:
フィガロの耳寄りな話 [ 音 ] / 2004-12-15
矮小化された神話の英霊 [ 文学・思想 ] / 2006-08-21
恥の意識のモラール [ 文化一般 ] / 2006-05-21
豊かな闇に羽ばたく想像 [ 文化一般 ] / 2006-08-20
侍列車-十三日付紙面 [ 生活 ] / 2006-06-16
氏は1942年に東京に生まれています。お父様は、ラジオドラマなどを書く物書きであると同時に外交官でありました。東京に駐在していたようです。氏は年長のお兄様と五歳まで、恐らく戦火を避けて郊外に家族と共に疎開していたようであります。
流石に語り手の流暢な語り口ですので、FAZのインタヴュー記事をそのままここに訳します。
僅か五年ぐらいでドイツに帰ってきました。思い起こすのは、私たちが日本で住んでいた村と家です。それはとても牧歌的でした。美しい湖に島が一つあって、素晴らしい山・富士山のまるまる裾野です。少し年長の兄と私たちは木造の家に住んでいました。いまだに目前にあります。とても粗末な農家で、下には居間と台所と汲み取り便所と所謂お風呂がありました。お風呂は木樽で出来ていて、下から釜で炊くようになっていました。皆が一斉に入らないといけないことから週に一度しか炊きませんでした。上には両親の寝間と息子たちの寝間がありました。父は鶏を飼っており、私たちは遊びに事欠かない素晴らしい環境にありました。子供としては想像も出来ないほど素晴らしい環境です。後年一度、そこを訪ねました。その家は現存せず、橋が架かっていました。湖はそのままです。小さな杜のお社は思い出の中に失せてしまいました。私と兄であのころ木っ端を集めた場所です。子供たちは何時も何かをやるのに木っ端が要ります。小屋を建てたり、船を作ったりと。杜の中へと駆け入りました。そこには赤白に新しく美しく塗られた社が建っていました。不愉快でした。なぜならば私の頭には古いお社が建っていたからです。そしてもう一つ驚くべきことに気がつきました。私の記憶には富士山がなかったのです。それは、ただのある光景だったのです。子供の私にはそれはどうも必要なかったのでしょう。しかし富士は、湖の真向こうに聳えています。それはそれは素晴らしい不思議なばかりの光景です。一度富士を見た者なら一度たりとも忘れません。そんな山は世界の何処にもありません、それほど美しく、調和が取れているのです。
1942年から1947年、戦中から終戦を挟んで戦後にかけての日本の思い出です。子供たちは、衣食住に不住せず空襲がない限り、只一度の時を夢のような楽園で過したのかもしれません。何よりも想い出は美しく縁取られ、だから郷愁に耽ることが出来るのです。美しい国は過去にのみ存在して、将来にも、何処にもありません。
参照:
フィガロの耳寄りな話 [ 音 ] / 2004-12-15
矮小化された神話の英霊 [ 文学・思想 ] / 2006-08-21
恥の意識のモラール [ 文化一般 ] / 2006-05-21
豊かな闇に羽ばたく想像 [ 文化一般 ] / 2006-08-20
侍列車-十三日付紙面 [ 生活 ] / 2006-06-16
遠きにありにけりですか。上の写真はカイザースラウテルンの日本庭園内の民家です。最近、日本趣味になりかけています。鉄扇もちょんまげも欲しいですね。
自分自身の五歳までの記憶で、遠景はどうであったかと考えますと、元々像がはっきりしない場合は駄目ですが、富士山や日没のように何かに焦点が合っている場合はあるような気がします。
年長の兄を持つ五歳の記憶としては曖昧過ぎるとも思われ、若しかすると、指摘されるような否定的な記憶が富士山の記憶に代償されているのかなどと考えてしまいます。もし講演会か何かでお会いすることがあれば、是非尋ねてみたいものです。
赤と白の塗装に腹を立てていますが、赤は神社の色としても白があまりイメージ出来ません。これもご本人に聞いてみないと解からない。
該当のスローガンの中身は知りませんが、ネットで見ると、セピアなイメージに勝手に色付けしているような感じですね。ヴィッケルト氏もこうしたムードを詳しくはなくとも、ジャーナリストとして間違いなく耳にしていることなので、なんとなく連想してしまった次第です。
http://nikkotoday.com/news/news127.htm
だからどうなんだ?と言う話題でした。
はっちー&ハリーさん、やはり統一教会関連でなんだかんだと言われるのでしょう。前任者に比べるとメディア対策が大分違うようですね。
「内を見つめる事」をして下さい。
美しさは日本の過去にしか無いなどと云う、余りにも浅い考えが、この国の精神文化を閉塞させています。
「内を見つめる事」を「精神的な美しさをみる」と解釈しました。この例に「侍列車-十三日付紙面」を挙げましょう。そこで語られているのは一般的に日本人の美徳と言うような風景だと思います。そして、最後にドイツ人の示す態度も「日本人の美徳」そのものです。しかし、平時のドイツ社会とは全く異なる事を示しています。「恥の意識のモラール」でも、恥の意識も決して日本人の特性ではない事も述べられます。
http://blog.goo.ne.jp/pfaelzerwein/e/85b2f5cf26b36b6861ea376336366251
http://blog.goo.ne.jp/pfaelzerwein/e/41c42c8a24cdb5286b4b31c4cef3e428
つまりこうした心理的なものは規範化したり美化されるものではないという事です。こうした美徳と言われるようなものに無闇に社会が触れるべきではなく、個々の領域にあるべきではないでしょうか?
仰るように外向きには、社会での非効率や摩擦や争いを避けるためには規範やもしくは法律が必要です。それが機能するには、内なる美徳よりも、遵法精神であるとか違う理性が必要になるようです。
つまり、何が云いたいかといえば、内なるものも決して見えないものであるという事です。そうした認知できないものを、容易に規定したりするのは差し控えるべきではないかと考えます。
「矮小化された神話の英霊」での靖国問題にも、嘗ての「非武装中立」のイデオロギーにも共通する安易さを感じています。
この二十年間でここドイツ社会でも「人を諭す行為」が少なくなっています。その変化を事実と多くの人が認めるとしても、そのように感じること自体が「美しさへの郷愁」ではないでしょうか。社会的には、実体の無いものに執着するよりは、個人的な理想や希望が現実の中で育まれる世界があれば良いのではないでしょうか。
という訳で日本の現在や将来はネットでしか判りませんが、精神的な美しさについて書いてみました。少し違う焦点ですが、志賀直哉「小僧の神様」を挙げてこの辺りで擱筆とします。