Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

音楽芸術の時空の流れ

2024-11-20 | 
久しぶりに薬を服用した。忙しいので早く治したいからだ。午後も少し横たわっていたが、夕方も走るほどには到底回復していなかった。前夜の事を思い出せば急に起きていられなくなったので38度超えていたと推測しなおしたが、39度になれば口を濯ぐ余裕もなくベットに向かっていた筈だ。40度を超えると殆ど倒れるようになって、ベット這って行くような感じになるのが今迄の経験である。

22時30分ほどに床に入って、結構苦しく、何も出来ないので1時過ぎに目が覚めて、結局2時ごろまでは熟睡できなかった。その時刻に録音とかがあると、ベットにいても前夜の苦しみの中では何もできない。投薬するものももう一度その頃にもう二錠摂るようにする。

録音の準備をする前に一昨年の生中継の音を聴いてみた。相変わらずマーラーの七番の出だしは早いが、それとどうようになかなかラフな音が出ている。最後の生の印象はその前のやはり壮行演奏会におけるアルテオパーでの響きである。比較するとやはりより乾いた響きで、この名ホールの響きが感じられる。

そう言えば先の評でのアルテオパーの音響の特徴を近接録音としていたが、なるほどカーネギーホールの場合は舞台の枠内は後ろからの跳ね返りがあって、雛壇との距離感がある。アルテオパーの場合は最上階に行くと距離があり過ぎて、視覚と若干ズレる傾向があって、左右からの残響が多くなり、平土間は上からの残響が邪魔になる。その分音響的に広がりもあるのはそこでの録音でも分かる。

それにしてもマーラー七番に続きブルックナー五番を合衆国ツアーに持って行くのはとても素晴らしい。さぞかし我々の様に両方を聴く人が少なからずいると思う。こうして両方を聴き比べるととても重要な視点が得られると思う。

日本から持ってきて貰っていた薬を飲んで解熱と胃の調子で体調は改善した。録音の準備はしていたのだが、直前になって、記録するNASが夜中にシャットダウンするのを思い出して再駆動したりして慌てていると、AACの直波の記録が上手く行かなかった。更にラディオ放送の最初のジンゲルから暫く落ちていたので楽屋袖の話しからしか聴けなかった。オンデマンドで聴けるから構わないのだが、若干慌てた。

寝室に音を出すようにしていて、結局最後まで小さく音を流していた。その印象ではとても早いテムポに感じて、ティムパニーが不自然にな鳴っていた。テムポに関してはなるほどその音響の中におらずに音を細部からしっかり追っていないと、流れてしまうように聞こえるのが分かった。この仮説は他の人の評を読んでいて感じていて言及している事なのでそれを証明したことになる。

普通は流れが速いと細部が聴きとれない様に思うのだが、音楽はやはりその時間の流れがその創作の中にあって、決してユークリッド時空での座標にはないことが分かる。恐らくその感覚というのは浪漫派以降の音楽に共通するもので、それを如何に演奏実践の中で表現するかに関わるのだろう。



参照:
本物のブルックナーの響き 2024-11-19 | 音
歴史上唯一無二の可能性 2024-11-18 | マスメディア批評
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本物のブルックナーの響き

2024-11-19 | 
ある年齢の自殺者が多いことは承知していた。その多くはホルモンなどの更年期障害とばかり思っていた。然しどうもそれはあまり正確でないと分かったのは最近のことである。要するにカマキリと同じような習性が人間にもあって、家族などの為に進んで食われるというのが全く分からなかったからである。特に公務員や会社員が懲戒などにされる前に退職金などを確保する為に喜んで自死するというは全く分かっていなかった。それゆえにキリスト教などでは十戒で諫めているのだろう。要するに最終的には経済的な自己犠牲である。

日曜日の就寝迄の時間を寛ごうかと思っていた。寝室のフィンにお湯を通した。煎茶を飲んで、暫くすると座っているのもつらくなって来た。急に熱が出てきたようで、口を濯いで転げる様にベットに入った。夜更けに急に熱が出たのは久しぶりで印象としては37度5分は越えていたと思う — 殆ど起きていられなかったので、今迄の経験から38度は出ていただろう。頭痛もするが、その他の症状は殆どなかった。

書き物を検索すると前回は二年程前に熱を出していた。それもコロナ禍以降初めてで、コロナ期間はそうした症状が出ないのが不思議なぐらいだった。恐らく今回もインフルエンザでスーパーかどっかでうつったのかも知れない。流石にこれでは走れないかもしれない。寒い中を走ると体力ともダメージがあるので、なんとも言えないのだが、新陳代謝は健康回復に一番早い。小水も黄色くなってきたので回復する筈だが、昨晩の様な床での苦しみは嫌である。病院のベットなどに寝ている人は大変だと思う。

今晩はニューヨークからの生中継がある。20時からなのでこちらでは26時になる。そこから一時間半は最も眠い時間帯である。熱心に聴くのは難しいが、録音だけはしっかり録っておきたい。オンデマンドよりもいい条件でということだ。一つはAACのm3u波で長めに録音しておこう。もう一つはPCで録音、未明3時半過ぎに終了させるようにタイマー作動か。

どちらにしても翌朝が辛くなる。特に熱でもあるとなるとぶり返す。なんとか投薬などで上手に体調を整えようと思うのだが難しい。

上の放送局WQXRに限らず合衆国からのストリーミングは音も精一杯の音量にしてあって、今回の様なブルックナー交響曲ならば前回のマーラー七番よりもよく鳴るのでさてどうなるか。カーネギーホール自体も舞台が枠に囲まれているので、収録もそこでの鳴り響きが強く、冒頭からのあれだけのダイナミックスがどのようにマイクに乗るだろうかと思う。

ブルックナーの交響曲五番変ロ長調の本質的なその創作意思を理解するのは南独の聴衆にとっても決して容易ではない。それどころか正しく演奏されることが殆どなくて、今日に至っている。合衆国においてはやはりここでも前回のマーラーと同じくショルティ指揮シカゴ交響楽団が得意に演奏していた。

ショルティ指揮は、それでもマーラーの時のよう正統的な演奏を示したわけではない。当然のことながらペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーの演奏で、その記念年を祝福すべく、合衆国で漸く本物のブルックナーが鳴り響く筈である。



参照:
歴史上唯一無二の可能性 2024-11-18 | マスメディア批評
ニューヨークタイムスの耳 2022-11-14 | マスメディア批評
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歴史上唯一無二の可能性

2024-11-18 | マスメディア批評
合衆国ツアー初日金曜日のワシントン公演の評が出ている。ベルリナーフィルハーモニカーとしては21年ぶりの首都訪問らしい。ケネディーセンターでの貸し興行であったようだが、2500席のシューボックス型のホールで欧州と同じような価格で出ている。

プログラムは11月の最後の定期公演の三曲で、その評に従えば最初のラフマニノフ作曲「死の島」がハイライトだったようだ。二曲目はヴァイオリン協奏曲で本来は合衆国のヒラリー・ハーンがペトレンコ指揮で初共演する予定だったが数日前にキャンセルした。そこで急遽飛び込んだフィルハーモニカーとも初共演で偶々コルンゴールトの協奏曲をレパートリーにしている合衆国の奏者が共演した。

評によるとデルジュスの「イザーイ」の高弦の木の響きが美しかったようで、初合衆国ツアーにおいても交響曲を指揮したペトレンコの指揮を取りつかみどころのない曲をそのそのコードの読み替えしてフィナーレへと高めたとしている。ヴァイオリニストのコントロールされたヴィブラートと書かれているので相性は悪くなかったのではないか。予めそのヴィデオを観ていたが、若干表現力は弱い感じがするが、結局その後の日程で代わりに入ることになった定期演奏会でのヴェルデ・フランクと比較的方向性は似ていると思われる。恐らく楽器はシカゴ出身の彼の方が良く鳴っただろう。

「死の島」への注目はやはりそのシュトラウスに影響を受けた管弦楽法への再認識を与えたようで、5拍子のそれが波の重ね合わせとなる所でも音を落とすでもなく、ソフトに出すことで巨大な効果を上げていたとしている。こうした奏法上の卓越は本年の春からペトレンコから楽団に求められていたことで、ブルックナーの交響曲を含めて悉く成功している。昨年までとは大違いである。

そしてそのモメントの音楽と特筆されているように、リズムによる時間を非ユークリッド空間としている手法はミラノ以来ペトレンコ指揮にて顕著になって来た未だ嘗てなかった効果である。その一方その弦楽陣の一心な姿勢で弾くクライマックスへと持ち込まれ、通常ならば金切り声の高弦は低減によって滲まされてしまうのだが、とても素晴らしいバランスがとられていると、正しく現在のペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーの前代未聞の美しさを記述している。

最後のドヴォルジャーク七番では、左右に対抗して配置されたヴァイオリンから行ったり来たりの効果が生じて、作曲家のアクセントが、それが舞曲にも拘らず恐ろしい精度で為されたと、そこに僅かばかりの疑問が生じているのだろうか。然しその答えは、冒頭楽章におけるその部分部分の音楽の意味への意識にあるのではないか。二楽章においてはドヴォルジャークの牧歌的な香りをベルリンの木管群が醸し出したとなる。そして突然のニ長調コーダが開き、その熱量は白熱のようだったと記している。要するに筆者はその全体像を失っているのだろう。並のお勉強をしていては歴史上唯一無二にしかない可能性のある名曲の正しい演奏で創作の全てを掴みそこなうことになるのである。

抑々大管弦楽の通常レパートリーに遠くまで出かけることのない私が熱心に車を走らせて出かけるのは歴史的に一期一会の機会であることを正しく認識しているからに過ぎない。
Benjamin Beilman and the Minnesota Orchestra: Korngold Violin Concerto




参照:
After 21-year absence, the Berlin Philharmonic more than lives up to its name, Andrew Lindemann Malone, Washington Classic Review of November 16, 2024
前世紀に生きる人達 2024-11-17 | SNS・BLOG研究
お話しにならない耳 2024-11-15 | マスメディア批評
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前世紀に生きる人達

2024-11-17 | SNS・BLOG研究
火曜日のその壮行会演奏会の評ももう一つ出ている。そこでは先ず会場のアルテオパーの音響が本拠地のフィルハーモニーと比較されている。個人的には支配人にルツェルンとの比較を書こうかとも思ったが、先方はよく知っているのだから、態々それを評価するつもりはないと思った。だからアルテオパーの音の行間で言及したつもりだ。勿論フィルハーモニーのワインヤード型の会場ではルツェルンのそしてアルテオパーでの音響は得られない。ルツェルンは理想的で後者は限定的なのはそこでも指摘されていて、ベルリンでの様に分析的に聴きとれるのはバルコン席と平土間前三分の一だという評価である。個人的にはコロナ期間中に席が限定されたことから丁度言及されるような位置にも座ったことがある。前者はシューベルトやヒンデミート、スコッチの三曲だったが、ヒンデミート以外はそれほど感心しなかった。

ここでこの筆者の認識を理解しても良かったのだが生憎乍ら出来ずに読み進める。最初のピチカートの出だしから総奏になって退けづり、その座席位置で充足してしまう楽団は他にないと書いて、フィルハーモニーでは全てが明晰に鳴って、映画に比するべきと書いてある。なぜここで「映画」が出てくるのかさっぱり分からない。そしてそこで身を退けづり、もうこうなると直接音のそれから逃げられなくなったと、堪忍ししたのだろうか。

ここで筆者の言いたいことを推して知るべきだった。音圧が大きすぎるなら距離をおけと言いたい。然し、事実をも報告していて、フィルハーモニーの場合は音が分散するから細かなところがばらばらに聴けて、尚且つ威圧感が薄いといいうことの証明にもなっている。この筆者が聴いていないのは和声の流れである。

だから音の行間と評したのであり、その特徴が流れの様に捉えられるのがルツェルンのホールであり、そこまでの方向の定まった流れではない渦が生じるのがアルテオパーである。長年通ったホールなのでその特性もよく知っているので言えることであり、最もよい位置での評価は決して悪くはない。

何故この人達がその一方今回の公演で自発的な拍手が生じそうになった二楽章ではプログラムにあったような「夢みる夜想曲」なんかではなかったと批判する。その木管の受け渡し、そしてふくやかな金管を弦の立派なカンタービレが支える繊細さをおしても、あまりにもXXLサイズで、そしてここで答え合わせだ。大フィルムサウンドトラックに彩られた風景でしかないと書く。

心象風景どころではなく、サウンドトラック映画の風景らしい。これを解析すると、この筆者は音楽の語り口ということには全く関心が向かわないらしい。どうも判断するのは大管弦楽団から声部を聴きとり、それと同時に心打つサウンドの可否らしい。その点では先の批評には、ベルリナーフィルハーモニカーの熱く冷たい天からの捧げものとしている。然しそれと音楽的な本質則ち一筆一筆と進める作曲家の創作の過程が全く読めない人が多いようだ。要するにこれらは全てサウンドのイメージでしか聴いていない人たちで、それゆえにサウンド云々やストラヴィンスキー的リズムとかにとても言及が多い。自ら書くように20世紀後半の後遺症から抜け切れていない。こういう人達にはクセナキスの名演の意味も全く理解できていないであろう。



参照:
寂寥感溢れる心像風景 2024-11-14 | 文学・思想
お話しにならない耳 2024-11-15 | マスメディア批評
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詳説必要な舞台背景

2024-11-16 | マスメディア批評
土曜日の早朝は摂氏1度になる予報だ。既に温度は下がってきている。夕方に日没と競争で一っ走りした。気象状況は気圧が上がって来ているようで湿気が飛んで、より乾いた空気が感じられた。土曜日には4時間だけの日照が期待される。洗濯日和であるが、午後の一二時間だけでも狙いたい。その為には午前早くから準備をしておかないといけない。今迄はヒーターのフィンを一つしか使っていなかったが、二つ目を開ける。目覚めが少しでもよくなると嬉しい。

序に車の燃料を10リットルほど入れた。短い距離を走るだけでやはりガタが来ているのが分かる。エンジンとその足元が一緒になってふらふらするのである。漸く二十九万五千キロメートルを越えた程度であるのだが、本当に足腰が弱ってきている。使用年間からすれば満足したが、距離としては一寸残念だ。年間一万二千八百キロメートル程度の走行になる。新車の最初の数年はそれ以下しか乗らないと5年で六万キロぐらいか。十年ぐらいは殆ど修理費無しで過したい。

先月の「ばらの騎士」の日本からの批評がネットで出て来た。短い旅行評であるが、興味深い感想があった。リンクを張るので引用はしないが、新たな視点がある。先ず、ザルツブルクでの共同制作でその舞台美術に苦情している。その背景への違和感ということらしい。

今回はミュンヘンからの隣のおばさんと同様に先ず初日ではそのようなことを考えずに席を選んで、指揮がしっかり見える天井桟敷の捨てても勿体なくないを席を取っていた。だから、背景なども殆ど観ていない。然し、それゆえに歌手のグロイスベェックの乗った車の横で駐車場で再終幕のヴィデオを観ていた。

そしてここで筆者は、その違和感をして、背後にプロジェクターで映される映像が密度もあって質は高いが、舞台に比べてどんどん大きくなったからだとも読み取れる。

ペトレンコ指揮の精密画の様に作り込まれている音楽に対して耳が傾いているとその背景が説得力を持つようになっているというのだ。

個人的には舞台のドラマと音楽つまり言葉から歌そして演技による迫真性・劇性にしか興味はなく背景に関しては補助的な環境設定でしかないと感じる面があるので、そこまでの印象を得たことは殆どない。それでも素晴らしい舞台美術賞は何時も推薦している。そして今回のクッパ―のヴィデオもミュンヘンでの「レディーマクベス」の舞台美術にも印象は残っている。バイロイトでのシュリンゲンジーフ演出「パルジファル」のデューラーのウサギもその通りだ。

それでも音楽と舞台に美術が特にプロジェクターがというのは、最近では「アシジの聖フランチェスコ」に合わせたエンゲル指揮の合唱と音楽ぐらいだったかもしれない。プロジェクターが盛んに使われ出したころには批判が多かった。なぜならば映画的になってしまうからだが、今こうしてそれと音楽とを同等に観察するような視点があることに気が付いた。勿論背後の縮尺やその効果に関しては感想ではなく詳説が必要ではないか。美術館ナヴィというサイトでの執筆である。
Saint François d’Assise - cf. 58m28s



参照:
すべてが異次元に洗練されていた! キリル・ペトレンコが指揮したミラノ・スカラ座の《ばらの騎士》, 香原斗志, 美術館ナビ 2024年11月16日
時とは不思議なもの 2024-11-03 | 音
ブロブの720種類の性差 2023-06-25 | 歴史・時事
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お話しにならない耳

2024-11-15 | マスメディア批評
車の保険を決断した。2500ユーロは自責事故の場合に自払いする。これで大分掛け金が落ちる。それでも数年間支払うと結構な額になって保険会社はある程度の事故の修理費がそれで賄える。

最初のオファーが自己負担が500ユーロだったのに比較して掛け金も4割近くになった。その毎年の差額で、駐車場でつけられるような細かな傷は直せる。もしくは二年分で可也のものも直せると思う。その差額で泣き寝入りして自分で修理しておけば掛け金も上がらない。

フランクフルトでの演奏会の評が二種類ネットに出ている。双方とも大した文章でも内容でもない。然し一つの方が明らかに先入観念で聴いていて、音楽を知らないのが分かった。

大まかにいうと、その耳は細かなところを表現すればするほど全体の大きな構成がそして音楽の核心が表現されないと思っている。こうした耳に最もあたる批判は「月を指す指を見る阿保」若しくは「木を見て森を見ない」である。

要するに正確に音化されることでこういう耳は細かなところに気が逸れてそれが全体でどのような意味を持っているかが再構成できないのだ。筆者に言わせると脱構造化するのがペトレンコの音楽らしい。

そのようなものを読む前にアルテオパーの支配人に感想を書いておいた。そこで書いてあることと全く正反対のことである。

「我々はそこで鎮静して心象風景を観照する ― 特に二楽章では、その他の楽章に並んで、ベルリナーフィルハーモニカーの伝統的なそして一心な演奏法を成就した。キリル・ペトレンコのスカラ座デビュー以降の より自由でより柔らかな拍打ちは、アルテオパーの音の行間により多くの音楽的な表現力をそして音色の多彩さを齎した。なんと素晴らしい!2015年11月がもう既に待ち遠しい。」

このように書いた。スカラ座まで行って聴いてきたのだなと思うだろうが、元ベルリナーフィルハーモニカーの芸術顧問にはその聴き方の違いは分かる筈だ。

もう一つの批評は、楽団をランク付けして、他方を貶めるようなことはしない中立であるという、これまたそのようなことと音楽の表現やその方法、そして伝統などが全く分かっていないことを吐露しているようなものである。

要するにこうした技術的に優れていることと音楽的な表現ということとの関係が全く分かっていない人はドイツでも物書きの中にも少なくないということだろう。端的にいうとブルックナーがどのようになにを創作して行ったかの過程に全く想像が及ばないということでしかない。それによって、こうしたブルックナーはバロック的な構築の精神を失って見難い巨大な建造物でしかないと表現するものだから、到底お話しにならない。



参照:
BERLINER PHILHARMONIKER – KIRILL PETRENKO. Eine Konzert-Sternstunde !, Gerhard Hoffmann, Merker vom 13.11.2024
Bruckner unter Hochspannung, Alexandra Richter, Bachtrack vom 14.11.2024
寂寥感溢れる心像風景 2024-11-14 | 文学・思想
バックステージは如何に 2024-09-30 | 女
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寂寥感溢れる心像風景

2024-11-14 | 文学・思想
ペトレンコの指揮は変わった。スカラ座以降は少なくとも変わった。11月12日のフランクフルトでの合衆国ツアー壮行演奏前には前の週の定期演奏会最終日でのもう一つのツアープログラムのラディオ中継しか聴いていない。然しそこに共通したものはあったかもしれない。最も変わったのは拍の刻みのゆったり感で、そこで楽団のアンサムブルの自発性が引き出されているようだ。的確さはあってもやはり呼吸感がより演奏者のものになってきている。

車を当夜のアルテオパーの地下駐車場に入れて、片付けものをしてから、二楽章の楽譜をもう一度確認した。往路では一楽章からの二楽章迄を何回か繰り返していた。渋滞などもあってあまり集中できなかったので二楽章を繰り返した。四楽章での動機の扱い方で不明確なことがあったからだ。そして座席に着く前に初めてプログラムを2,50ユーロで購入して捲ってみた。そこで初めて知った、二楽章が最初に書かれていたことを。

この交響曲の難しさはそこにあって、各楽章間の連関がそれほど単純ではなくて、その意味合いが捉えられなくて、一貫した印象を持ちえなくしている。それもこの二楽章の内容自体がファンタジーに飛んだものであるという指摘は正しい。

プログラムには「トリスタンとイゾルテ」の三幕との関連にも振れてあるのだが、やはり最初の始まりのニ短調こそは今回の公演での迫真に迫る表現あった ― 危ぶまれた一楽章終了時に静まり返っていたのだが、二楽章終了時に少しだけ拍手が始まりかけた所以である。モーツァルトのレクイエムのそのものの響きである。それはそのアンサムブルの慣れと試行錯誤によって為されたものであると同時に指揮者の指導の下で掴んだ核心でもあった。それは「嘆きの調べ」である。

そしてそれが第二主題の慰めによって解消される。そうした構造でしかないのだが、それが浪漫派の真骨頂であるとともに、則ち新ドイツ派とされるヴァ―クナーやリストの純音楽から離れたその流派に対して、後期浪漫派への重要な転機にもなっている交響曲ではないかという仮説が生ずる。

同時にこうした作曲家の心像風景こそは、クラシックオタクの元祖宇野功芳が開拓したブルックナー人気の核にあったものだ。そしてそこでのハンス・クナッパーツブッシュ指揮による交響曲八番を評した「真実の詠嘆と自然の寂しさ」、「本当の寂寥」などそこでの記述がここで全てがこのペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーの壮行演奏会で表現されていた。

そうした受け留められ方は決して日本での心情だけではないということは、既に先月のリヒャルト・シュトラウスの「ばらの騎士」のヨーデルの使い方などでも紹介した通りである。それが慰めによってエクスタシーへと高まるとすれば孤高の男寡たちにウケること間違いなしである。そしてその高揚感こそがカトリック信仰でもある。

この二楽章を書き上げた時には既に終楽章と一楽章の構想は決まっていたというのが、論文などを見るとあるのだが、この二楽章と一楽章の導入部との繋がりにおいて作曲の過程を知ると合点がいく。つまりなぜ唯一無二の中世的な風情の序奏が付けられているのかが、そこから導き出されていて、恐らく終楽章での構成に沿って完成されたものだろうという予想がつく。(続く)



参照:
大らかに響き亘る伽藍 2024-09-03 | 音
アウトバーン走り絞め 2024-11-13 | 雑感
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アウトバーン走り絞め

2024-11-13 | 雑感
アウトバーンの走り絞めだった。幸いなことに心配されたようなお湿りもなく、気温も摂氏3度以下とはならなかった。直線では時速230kmまでは出せたが、それ以上は無理だった。それよりも高速の僅かなカーヴでも挙動が安定しないので170kmでも走行が怖い。勿論最早信じられないブレーキディスクを庇う為に急ブレーキは掛けないようにしている。それでも三四回は強めに踏んだ。それ以上に踏むと急ブレーキになるようABSが誤作動することは知っている。つまりブレーキがコントロールできない。

挙動が安定しないのは前輪のシリンダーのコイルが折れているからだろう。然しそれだけではないバンクがある。この車両の最大の欠点で箇所で、2000年当時はまだまだBMWのカロッセリー技術には及んでいない面があった。そのBMWも新中古車で10年程で三十万キロを越えて、直線走行は出来なくなっていた。

エンジンは徐々に吹きが悪くなってきていたのでそのような節約走行をしていたのであまり気が付かなかったのだが、追い越しや寄せなどのタイミングが合わせ難い。それは市街地でも空気が溜まって吹かない時を除けば信号発信は問題がないのだが、回避とか車線変更などではもたもたする。昔爺さんが帽子を被ってメルセデスを運転していたら要注意というのがあった。そうした状況になっている。

車に合わせて運転しているのだが、やはりこちらの視神経から脳への情報とそこで判断するときにそれを手足に送って機械が動くまでのタイムラグがフィードバックされて判断されている。あり得るのは年寄りになるとその神経の伝達の遅れがあるうえに古い車を乗っていると更に判断に安全指数が掛けられるということのようだ。その双方の遅れがどれぐらいか。

遅れが1秒に近いとなると、最近の試乗したかった車で言えば3秒以内で時速100kmまでを出していることを考えればその差は大きい。正直私自身の場合は、新しい車で動きに関しては大きな二輪車ぐらいの運動性はあるので、可也身体の如く動かせるようになる。余計に自身の神経もされるかもしれない。その点ではアウトバーンにおける神経はブレーキを掛る早さと、動体視力ぐらいで、前方の車のきょどに関しては見ているので視力だけの問題である。だから最高品質のヘッドラムプと視界だけで最高速度と高い巡航速度への影響はあまりない。四輪駆動はやはり心強い。

往路では何時もの経路が閉鎖されていて、30分以上余分に時間が掛かった。前回の訪問時に電気自動車の充電ステーションで場所を取られていたので早めの18時40分ぐらいに入庫したが、階下は殆どなかったようだが、嘗てとは異なって混んでいた。

そうした渋滞でもイライラすると怖い状況は表れる。ナヴィも無料のいい加減なものを使っているので取捨選択してしか使えない。これも全く次元は変わる筈だ。

往路でライトバンタイプの新車と同じ白い車を抜かした。やはり白いと夜目に幅広く感じた。走行感は後ろから見ていても安定していた。帰路も飛ばして無事22時53分に帰宅できたのでよかった。あとはひたすら何ごともなく乗り換えるのみだ。



参照:
雨降って足元が温まる 2024-11-12 | ワイン
木霊する時の隆盛 2024-08-20 | 歴史・時事
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雨降って足元が温まる

2024-11-12 | ワイン
雨が降って、想定外の寒さだ。気温が上がらず、湿気だけがあって、我慢し難い。火曜日も厚着をしていかないと駄目だ。燃料も入れておいて、外であまりうろうろしない様に準備しておこう。

夕方まで雨が降っていたが、日没前の30分ほどは上がる様子だったので、数十分前に燃料を20リットル入れて、雨上がりに走りに出かけた。158セントだったのでまずまずだった。これでフランクフルト往復は問題ない。あと何回給油するだろう。

丁度雨上がりで準備運動して濡れた道を走って上に着いた時には暮れていた。然し雲が晴れたので視界はそれほど悪くはならなかった。然し森の奥から独特な呻き声が聞こえて来た。あまり聞いたことがない、自分自身が苦しんで走っているときのような声だった。イノシシの声でもなく、シカ類でもない。よく分からなかった。低い声なのだが但しそれ程大きな身体のようではなかった。それにしてもこの時期になるとトレイルランニングシューズのゴアテックスの優秀さに気が付く。何よりも濡れた道でも足が冷たくならない。そして暖かい。夏はよくないらしいが、これだけでも足の故障を防げる。何よりもである。

帰りに肉屋に寄って買い物をして、水曜日迄の用意をしておく。帰宅時にオイル不足のシグナルが出ていたので、序に200㏄給油した。残りは100㏄でこれで先十年程はエンジンオイルを購入することもないと思う。前回のオイルフィルター交換から既に三万キロ以上走っている。長持ちさせないだけなら殆ど手入れが要らないことを知った。勿論点火プラグなどもそれ問題がない。前のBMWの時には三十万キロまでしっかり金を取られていた。この差は大きい。

フランクフルトのアルテオパーでのブルックナー交響曲五番、まだお勉強できていない。どこ迄間に合うか。アルテオパーでの解説では、最初のピチカートの始まりをモーツァルトのレクイエムとの類似性で述べていた。そうした論文があるのは分かるのだが、抑々それがカトリックにおける何処から来ているかの方に興味があるのだがそこには言及がない。それよりもバロック的な対位法ともあり、それどころかデューラーの「星の力」との親近性にも述べられていて、なにがなんだか分からない。正直アルテオパーのこのおばさんはあまり為にならない。勿論そのレクチャ―を覘く価値もない。その時間に一つでも動機の扱いを確認しておいた方が為になる。

週末にボルド―ワインを開けた。久しぶりのサンテミリオンのグランクリュである。1996年の状況を知りたかった。色合いもそれ程落ちていなかったように全然悪くはなかった。価格は忘れたが一本30マルク以上はしていたと思う。流石に違う。最初20年程のバランスは決して良くなかった。分離したようなエアーリングの必要を感じるものであったが、今は開けて直ぐに香りも風味も酸味も感じられて取り分け新鮮な感じがあった。飲み頃とは言えないのだが、まだ急いで開ける必要もないのを確認できてよかった。コルクの状態も悪くはなく、流石にと思う。

サンテミリオンのボルドーの方はメドックのものよりも果実風味さえしっかりしていれば長持ちする。メドックのしっかりした芯はないのだが、食事によればこちらの方が合わせ易い。また買い付けにいつか出かけたいと思う。



参照:
信仰告白交響曲 2024-11-11 | 文化一般
冬場に楽しめる生活 2016-10-09 | 生活
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信仰告白交響曲

2024-11-11 | 文化一般
来年のルツェルンの宿を予約した。同じ部屋をとった。決して満足ではなく値上がりしていて限界に近くなっている。二泊三日で何も考えずに使えるだけで、それ以上に安価で便利なところがあればと思うが、現時点では見つからない。290ユーロ程になるので、精々ガレージの場所ぐらいは確保したい。初日に入庫した時に場所取りできる方法を考えておくべきか。何かはっきりしたものを置いておけばいいかもしれない。三角コーンの安いやつでも車に積んでいくか。現在使っている三角停止枠を取っておいて、その上に何か英語で書きものでもしておけば普通は退けて迄は割り込まない。私の様な常連さんばかりでもないだろう。アイデアはある筈だ。ガレージに停めておけるならば宿代は高くはない。

さてブルックナーを再び思い出している。四楽章に関してはまだ殆ど書いていなかった。なぜだか忘れたが、どうもフガートからそしてドッペルフーガがまだまだ音楽的すっきりとしていなかったからだ。それは一部には演奏者側においてももう少し明確化しないといけないところが見つかったのと同じだ。

早いテムピで以って史上初あるべき音が鳴っているのは事実でも、もう少し自由に演奏可能となれば明らかにより音楽的に呼吸できると確信する場面があった。今回の公演で如何にスカラ座で魅せたような棒捌きが可能なのか。そこに掛かっていて、より音楽的な核心を自由自在に演奏できるのか。

9月の音楽祭での成果があまりにも歴史的であって、火曜日の演奏がその先から再開可能なのかどうか。それは繰り返すが、こちらの音楽への把握もあるのだが、やはりこの曲は演奏だけが難しいのではない。

なるほど描かれている世界感は、既に二楽章のポリリズムとしては触れているのだが、三位一体に様々に顕現する姿がもう一つ定まらないところがある。丁度マーラーに七番においてルツェルンではまだまだ早く通り過ぎて仕舞っていたのが、フランクフルトではより音楽的に把握されたのと似ているだろう。

スケルツォにおいての水車の様なそれも隠されたヨーデルに表れるそれもが、更にトリオではとなる。そこには三連符での拘り、そしてフィナーレでの12の数字とまるでバッハの作品の様に象徴的な意味が確信をもって隠されている。それが音楽的にも認知されるかどうかである。

三分割が自然に拍節として半分に割れるのは当然であり、父なる神、神の子キリスト、そして聖霊によっての三位一体によって為されるとする神学の基礎である。これだけ組み合わせている交響曲をブルックナーは他に書いていないであろう。

私が車の番号にゲンを担ぐのとはわけが違う。全く以って確信に満ちた信仰告白であり、どのような場面の感興においても神の姿をその宇宙を感じていた作曲家であることがよく知れる。今更ながら信仰告白交響曲のようにも思われる。
Bruckner: Symphony No. 5 / Petrenko · Berliner Philharmoniker 終楽章から




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歩きたい綺麗な街路 2024-11-10 | 雑感
追想の音響への眼差し 2024-09-16 | 音
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歩きたい綺麗な街路

2024-11-10 | 雑感
長袖の下着を出した。火曜日に着るかどうかを検討する為にも試してみる。一度長袖にすると戻れないと思ったから慎重だったが、一年で最も寒く感じる数週間に燃料を節約しながら生活するには悪くはないであろう。寒い中を走って来ると身体は暖まるのだが、直ぐに足元から冷えて来る。筋肉はついていても走ると脂肪分が落ちてくるので余計に寒いのかもしれない。

部屋をリフォーム時にはそこも留意したいと思う。木組の床の上には防振防音と遮温を兼ねてのスチロール剤が敷いてあるのだが、その上の表面も影響があるだろう。夏の涼しさは天然木が最もいいだろうが、室内の吸音とか冬場を考えると違ってくる。

現在は化学繊維のカーペットになっているのだが、薄くなって繋ぎ目がズレて酷い状況である。リフォーム後34年経過しているので仕方がない。毛並みがしっかりしたカーペットは共同の場の階段に敷いてあって、それ以上のものが欲しい。要するに掃除なども問題がないので、いい素材は幾らでもあると思う。場所によって板も併用したいが、具体的には思い浮かばない。なによりも響き過ぎると絨毯で抑えないといけないので二度手間になる。一区画の事務所専用を板の間にすると、場合によっては演奏もパーティーも可能かとも思ってはいる。その場合は屋根裏区画も板になる。可也響く。そちらは街道際の部屋になるので現在以上に窓の遮音を強化する必要があるか。

来夏の音楽祭のプログラムが発表になってくる。なによりもルツェルンのベルリナーフィルハーモニーのプログラムで、ベルリンの初日に続いてそこではヴェーベルンとツィムマーマンとブラームスの組み合わせで、今迄何度も流れて来た組み合わせだ。交響曲一番は難しいと思うが、失敗ないプログラムで、二日目には5月のマーラーフェスティヴァルに継いで九番の交響曲が演奏される。これもブレゲンツとフェルトキルへで二回聴いたのでその方向は分かっている。決定的な演奏となる筈だ。恐らく11月の日本公演のうtらプログラムに東京でも演奏される。そろそろ日本でもバーンスタイン指揮やその亜流のシオニズムマーラーからお別れする時だろうか。因みに東京公演でのメインのプログラムは予想しがたいが、基本はあまり売れないような作品だ。復活祭でプッチーニだけがなぜか突出している。レスピーギはあり得るのではないか?

早めに床に入った筈だが、明け方トイレに立って、寒くて出入りするうちに、やはり眼が覚めつらかった。目薬もあって調子は悪くないのだが、この寒い時の疲労感は独特で山中での就寝にも似ている。昼にも眠気を引きづる。

火曜日のフランクフルトの天気予報も結構寒い。厚着して行かないといけない。ミラノから戻って初めて靴袋を開けた。思っていたよりも傷んでいない。イタリアは少なくとも北は石畳があっても街路は綺麗だ。フランスの様なことはない。距離は短くても歩きやすい場所ばかりで、劇場のトイレなども綺麗にしてあった。旅行用の靴は色々なところを比較的歩いたので草臥れているが、火曜日に戻って来てから同時に手入れをしておけば、新しい靴の方もまだまだ問題がないだろう。しっかりした靴もやはりあるととても助かる。踵上げの中敷きも必要なものはもう少ししっかりと接着しておいてよいかと思う。



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立冬での洗濯日和 2024-11-09 | 暦
四半世紀を越える感興 2024-10-28 | 雑感
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立冬での洗濯日和

2024-11-09 | 
遂に暖房を入れた。午後から寒くなった。立冬は11月7日だったらしい。先ずは足元がジンジンとしてきた。スペイン製のフェルトのスリッパを使っているのだが、床の冷たさを感じるようになった。今迄余り感じたことがなく、上半身は寒くなかったので、スポーツ用の靴下を履いた。つまりガラス磨きのお陰か室温はそんなに下がっていない。然し床が冷えている。

それでもトイレに立つ回数が増えたので、これはよくないと思って先ずは事務机横のフィンにお湯を通した。序に各フィンのガス抜きをした。先日水音がしていたのでお湯が通て来ていることは分かっていたので、この辺りで無理することなく床を温めるようにしておいた。床を配管が通っているので少しでも流すとオンドル効果がある。それでも流すフィンを限っておくと、量は上がらない。それでも出水と戻りの水の温度差との積で計算される。

屋根裏の寝室は其の儘であるが吹き抜けになっているのでただ一つのフィンの熱気が上がってくる。それでも寒かった。ベットカヴァーでは足りない。寝室か屋根裏全体に暖房を通す方法もあるのだが、週末は最高気温が再び二桁になる。日照時間がカウントされていて、選択日以外の何ものでもない。

それだけ一桁で日照時間零が続くと日に日に冷えて来る。一週間以上陽が射さなかったのはやはり珍しい。週明けには被災ぶりに降雨があるようだが幸いなことに3度以下となっていないので夏タイヤで走行は許されて、問題は起きない筈だ。

これで散髪を何時済まそうかが課題となる。今の様子では月末まで陽が射す日はとても限られていて、日照時間も延べでもかなり少ない。そうなると散髪して寝具を替えてもなかなか自由度は少なく、なによりも風邪を引かない様に対策するしかない。

ワインも飲みたいところなのだが、少し控えている。在庫が限られていて飲み代があまりなく、まだ暖かい部屋でゆっくりとの雰囲気ではないからだ。なるほど上半身は未だにあまり寒くないのだが、下半身が堪える。走って血の廻りもよく、左足の土踏まずの問題しかないので、現時点では体調は悪くない。

さっと走って来た。翌朝になっても好転はしない。3度まで下がっても日時間は5時間なので、洗濯日和としても早めに片付けるしかない。走っての一時間の時間がないからだ。

車両保険のオファーが来た。一部間違っているようだが、少なくとも22%支払いで済むのでなんとかなるだろう。但し試算は事故を起こしての補償の自己負担額が500ユーロになっている。その価格なら少しの傷でも直させれるが、頻繁に保険を使うと割引率が少なくなる。結局高くつく。以前は1000ユーロとかにしていたので、これを上げて掛け金を下げたい。1500ユーロ程度の修理費は自分で払ってもいいかとも思う。つまり大きな事故で潰した場合と盗難などの場合に保険申請するということになる。特に最初の三年以内はそれほど価値が落ちないので盗難の時は比較的容易に乗り換えられるだろう。駐車場などでの小さな傷が気になる所だが、それは直ぐに修理させるかどうかを自身で考えないといけないかもしれない。その他のガラスとかの不可抗力は150ユーロで直せる。



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謳いあげる多文化の音 2024-11-08 | 文化一般
朝から騙された思い 2024-11-06 | 生活
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謳いあげる多文化の音

2024-11-08 | 文化一般
お勉強の時間が無くなって来た。来週火曜日までにどれだけの時間を費やせるか。ブルックナー五番である、二か月前のそれを殆んど忘れかけている。演奏者も似たようなものだろう。その前に昨夜からベルリナーフィルハーモニカー合衆国ツアーの表のプログラムが演奏されている。金曜日まで三夜。そしてまたブルックナーの下稽古か。

金曜日にはラディオでも中継されるのでそれを聴く。今回の定期公演のプログラムをDLして読んでみた。ラフマニノフ作曲「死の島」は2021年1月のコロナ時に無観客で演奏されていたが、今回は他の曲のこともあるのだろう独伝統的楽器配置で演奏される。それは練習風景のヴィデオで確認した。そこでの解説として八分の五拍子が三拍子二拍子三拍子二拍子と変化していく面白さに言及されて、有名なベックリンの絵のボートが棺を乗せて島に近づく風景でもある。前回の時にも言及したが指揮者ペトレンコのお得意のリズム的な精査での自由自在である。練習風景を観るとスカラ座のあとでのこちらの意識も違うのかもしれないが、その自由闊達な棒をベルリンに持ち帰った感じがする。楽団も三年前とは全然力が抜けて演奏できている様だ。

プログラムによれば、作曲家がロシアから逃れてドレスデンに滞在時にリヒャルトシュトラウスの楽劇「ザロメ」初演でその管弦楽法に驚愕した様だった。その影響のもとにあったとされ、何時も語られる白黒デッサンのコピーでなく本物を観ていたなら最早なにも曲を書けなかっただろうとされる。

「音楽は落ち着いた月夜であり、夏場の葉がそそぎ、音楽は夕暮れの遠くからの鐘の音で、音楽は詩の姉妹であり、その母はメランコリーだ。」という作曲家の言葉が書き添えられている。

そして「死の都」の作曲者コルンゴールトのヴァイオリンの為の協奏曲が演奏される。アメリカに亡命してハリウッドで名前を挙げたことから、この協奏曲もその映画音楽のメロディーが使われていることで、「ハリウッド協奏曲」とも呼ばれているらしい。メンデルスゾーン風の一楽章では同時進行での創作である映画「アナザーダウン」から夜の風景が主題になり、第二主題として「ジュアレズ」の皇帝と皇后の主題、二楽章では「アンソニ―アドヴァース」の旋律、最終楽章のロンドと変奏では「プリンスともの貰いの子」のイントロがとなっている。
Another Dawn (1937) TRAILER - with ERROL FLYNN and Korngold's Score

ERICH WOLFGANG KORNGOLD ~ JUAREZ 1939 (Special Overture)

Anthony Adverse (1936) - Gale Sondergaard : Opera Scene

Korngold: The Prince And The Pauper Suite - 3. The Prince


三曲目は、ロンドンから第九「合唱」の様に依頼されて同じ調で書かれたドヴォルジャークの第七交響曲が演奏される。この曲がやはりボヘミヤの作曲家としてそのハプスブルク帝国の中での独自の音楽歴史を示す作品となったことは、スメタナにおける「我が祖国」の話題と繋がる。

三人の作曲家の共通点は合衆国での活動で三人三葉ながらそこには今回の大統領選で双方から話題とされたその多民族への視点に触れられている。勿論筆者のクラスティング氏にとってはそしてベルリナーフィルハーモニカーにとってはワシントン公演でも高らかにそれを奏でる心算でいただろう。然し音楽文化的には今こそその価値が問われている。



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描き切れない普遍的価値 2024-09-01 | 文化一般
朝から騙された思い 2024-11-06 | 生活
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予想される徴兵再開

2024-11-07 | 歴史・時事
朝までライヴストリームが流れていた。なんとなく思わしくない様子があった。予想外の敗北だった。流石に起き辛かった。その選挙民の意思の分析は様々あるが、そこに民意が表れていたのは間違いない。最も興味深いのは合衆国にいる独政治学者の言い分で「市民は既に合衆国が超一流国でないことを知っているから」の投票で、成程グレートアゲインというのはそういう意味だった。今後の経済的な可能性はないが、少なくともネットワークやマスメディアが事実を語っていないことを知っていて、「トラムプ政権で少しは明らかになる。」と思っているという見解だった。

ラテン系の人にしても選挙権があるということは違法移民ではないので、彼らとは違い、彼らと競争するのは御免だという意識は他の人達よりも強い。これは何処の国の移民でも同じだろう。嘗てならば合衆国では無尽蔵に可能性があるので移民の数が増える程豊かになるという期待が最早ないということなのだろう。

そこで我々にとって最も関わるのはウクライナ情勢である。安全保障の教授は、合衆国がトラムプが公約していた通り軍事援助から手を引けば三か月ほどでロシアに占領されるようだ。その場合EUがどの程度の援助肩代わりが出来るかである。

勿論トラムプが盟友プーティンとディールして休戦、非武装地帯にでもしない限り、EUはNATOとして軍備増強しないといけないようだ。特に地上の歩兵は数連隊必要な様でドイツでは徴兵制度が必至とされる。ここ十数年徴兵がなかったのでやはり気持ちよかったのだが、再び若い人が徴兵されるようになる。

ショルツ首相は、ロシアに言及してもウクライナには言及することなく、EUが一致団結してあたることの必要性を強調した。抑々ウクライナをEUやNATOに組み入れようとしたのは合衆国であるので今後は戦時であっても休戦であってもそこが緩衝地帯になることが最も重要である。

日本なども防衛の再考をみなされるようだが、それを準備していたような内閣が心強いだろう。国防軍で安全保障関係を破棄すればそれほどの武装は必要ないだろう。然し欧州は地上部隊が絶対に必要になるので大変なのである。

ドイツの場合も心ならずも戦争当事者になって仕舞ったことから、大変な痛手をこうむることになった。ウクライナの戦時体制を引き延ばすだけでも合衆国の肩代わりは大きくなるのであり得ないということになる。合衆国のNATO離脱をも含めての長期的な安全保障と同時に直ぐに支援体制を整えないといけないとされている。

ロシアの軍事力の底も見えてしまったことから、将来的にはユーラシアとして安定してくるのだろうが、肝心の経済関係で以前のような持ちつ持たれずの関係をよそ者の合衆国無しにどのように構築していくかが問われる。この件に関しては、合衆国が孤立に為される可能性があるのに対して欧州内ではそのような構造はあり得ない。

バルカン半島のEU化なども戦略的により重要になる。



参照:
朝から騙された思い 2024-11-06 | 生活
不法移民、強制退去の祖父 2016-11-25 | 歴史・時事
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朝から騙された思い

2024-11-06 | 生活
朝から騙された思いだった。日照時間が3時間程予想されて楽しみにしていたのだが、朝から霧で、窓はびっしょり濡れていた。外に出ると何かを被らないと眼鏡が濡れそうだった。本格的な11月だ。そして寒かった。

前晩に走った時は摂氏7度だったから、なかなか温まらず、今週はこのままで経過して、週末には放射冷却でまた冷える。

世界は一先ず合衆国選挙待ちである。情勢は分かっていても最後までどうなるか分からない。一番笑ったのはブラムバーク調査での経済運営に関してで、トラムプの政策ではGDPが8.9%落ちるというのだ。お笑いにもならず、更に中流以下の人にとっては大きな増税となる。トラムプ信者は最低線のより課税される人しかいない筈だが、そのようなことは気にしないのだろう。

久しぶりにザウワークラウトを炊いた。そこで温めたのはレバー団子と細いソーセージのペアーである。これだけで満足感があるので冬は暖まって、これでいい白ワインを開けると他には何も要らない。汚れものもあまり出ないのでものぐさが出来る。

水曜日は少しは空気が乾いて欲しいと思っている。火曜日までのようなら走ると知らぬうちにびっしょり濡れる。同じ霧でも上がってくれると濡れなくなる。

今回はカメラ・ハリスになってからはずっと大統領選を見て来た。各地方の雰囲気は少しわかった。残念乍ら中南部の田舎の様子は分からなかたったのだが、親戚がオクラホマなどにもいるのでなんとなく分かる。あの辺りにいるとあまり外界との繋がりを感じていないということで、ろくでもない候補でも選ぶ人の方が多いのだろう。

どちらにしても女性の投票率が上がれば今回は前々回のヒラリー候補の時とは異なって広く女性票が入るだろう。なによりもその当時のトラムプとは異なってお話しにならないほどのヘイターになっていて、流石に女性票は入らないだろう。

合衆国の中絶禁止を推し進めたトラムプらの統一教会らのカルト団体とその前のキリスト教原理主義のそれとは全く異なる。なんらその女性差別に寄り添う根拠などはなくなっているからだ。

そうしたことでオバマ大統領の時のような人種的な克服は今回はないのだが、やはり腐っても鯛の世界の最高の権力者に女性が君臨することが注目である。アフロ系の教育程度の低い男性はマッチョ主義でトラムプ信者も少なくないようだが、今回はそれに次いで多いラテン系のそれも女性票の出方が興味深い。

オバマ大統領はユダヤ系の血も入っていたようだが、カメラにおいてはラテンとインド人のそれが強い為に大分親近感などを与える層も異なってくると思う。やはり合衆国の強さは原住民や奴隷の子孫だけでなくて新たな移民が大きな貢献をしていくことが本望であろう。然し、上の調査の49%の様に至らなかったのである。



参照:
あり得る結果は二つのみ 2024-11-04 | 雑感
最後のグレーフェンベルク 2016-02-21 | ワイン
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