Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

囀りましょうか?

2005-06-01 | 
気温が高いとどうしても息があがる。憎くは思わぬ乙女が薄着で幾分挑発的なのは良いのだが、囀らないからといってもよそよそしい態度を取られるとどうしても気になる。ダークな髪のナーデャは、細面の小作りの美人である。その長い髪を揃えて結った額から顎にかけての面長の造作がこざっぱりとしている。白いパンツと生地感のある切り詰められたトップは、165センチ足らずのコンパクトな姿態を強調する。

セレナータなどといって鳥が囀るように、女の窓の下で男が思いを歌う南国文化がある。作曲家モーツャルトは、放蕩貴族のドンジョバンニにそのオペラの中でカンツォネッタを唄わす。ここで面白いのは、唄いかけられる女性は舞台には一切登場せずに、男は殆んど無指向に木の上の鳥のように囀る。これは、タイトルロールの「高貴な性格」を良く表している。鳥の囀りを解析するのと同じく、その「歌の本意」を理解しようとする事は可能である。しかし、それとその歌声(鳴声)の実態は同一ではない。そのズレが、その本質を探ろうとする人間の究極の欲望を刺激する。核がその周りに囲まれていて何時も定まらないように、痒いところには決して手が届かない。複数の劇の登場人物に迫れば迫るほど、このような達観した視点しか持ちえない。こうして古典的芸術のバランスが保たれる。このような客観的な視点というのは、古典的な定点観測や一つに定めた方法では得られず、洞察力の助けを借りなければいけない。

清清しく冷えた未明の白みかけた空気に、雄の囀りに答え交わす多数の雌の地鳴きとの呼応が充実した立体空間を作って響き渡る。その掛け合いは、其々が違った場所から其々の方法で、合いの手入れたり、装飾したりするのだが、中には綺麗に共鳴したりするのが出てくる。このような呼応は、それ自体が面白いのであって、それはその意味するところを理解しようと試みる事とは違う。だから、乞いもせぬのに乙女を巡ってライヴァル面して立ちはだかる若い衆が妙に気になりだし、これもまた面白い。



参照:
プァルツのムシクイ族 [ 音 ] / 2005-05-31
達人アマデウスの肖像 [ 音 ] / 2005-01-19
コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 索引 2005年5月 | トップ | 薹が立つ前に »
最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
めずらしく (amenbo)
2005-06-02 21:15:55
艶っぽいお話ですね。

ライバルの若者を面白がるpfaelzerweinの余裕は自分に対する自信の表れでしょうか?

ちょっと羨ましい
返信する
何時も時だけが過ぎてしまいます (pfaelzerwein)
2005-06-03 05:00:16
amenboさん、何時も艶っぽく行きたいです。せめて文章だけでも。



情熱とか溢れる力、何処か一本気な若い人が羨ましいですね。それでも、それはそれなりにこちらも対応出来るだけの余裕と自信が無いと、少々長く生きている意味が無いです。しかし何時もそのように悠々としていて時だけが過ぎてしまいます。

返信する

コメントを投稿