イヴェントでグスタフ・マーラー作曲「千人の交響曲」が演奏された。演奏規模として最大級のものであり、この名前が付けられている。待ち構える満席聴衆の前に表れたのは合唱団からで、最初から拍手が送られたために合唱団が一通り並ぶまで絶え間なく拍手が続けらて、管弦楽団がまた大きいので長い強い拍手が続いた。途中で止められないのも身内がいるからかなとも思ったが、どうもその拍手の大きさが違った。
そして330人へとなる独唱者陣がぞろぞろと出て、最後に指揮者のキリル・ペトレンコが出てくると更に活気が付いた。地元の定期が核になっているにしては「待ってました」という感じでもなかった。そして指揮台に上がると勿体付けることなくいつものように上段に上げた手を振り下ろした。すると、それまで、どうだこうだと想像が吹っ飛ぶ。やはりぺトレンコが読む楽譜と我々が聴いていたりして想像する楽譜の風景とは何時も異なるのである。そもそもその通りならば態々出かける必要もないのだ。
最初のVeniの前奏からして異なる。その音響もあるが、そこで影響しそうなメディアが伝えるこの演奏会でのその特別な場のそれではなく、とても毅然とした研ぎ澄まされた響きだったからである。前回の放送で聴いた第五交響曲においては最初がトラムペットでのソロもあって、ナイーヴさもあり、続く葬送行進曲も弦を鼓舞するかのような指揮振りだったが、今回は曲想の違い以上に練習の成果も見えた。しかし同時に前日にTVインタヴューで見た通りコンツェルトマイスターの実力はとても限られていて、楽団の程度がそこに反映されていた。なるほど音取は管と単独で合わせて、それを弦のトップに次いで、更に後ろにまで特別に聞かせるというような雀の学校のようなやり方をしていたが、例えば嘗てのシカゴのような低弦から合せていくというような哲学は見えなかった。
比較すれば、如何にも同族的ななれ合いの響きがする斎藤記念などの音響が特殊なのである。往路では小澤征爾が指揮したタングルウッドでの録音を聴いていたが、思ったよりも静的な指揮で、それゆえに楽譜が見えてくるところもあって面白かった。その意味からすれば、ペトレンコ指揮がどこまでもの楽譜の音化つまりミヒャエル・ギーレンの「この曲では音響を形造るところが指揮者の何よりもの仕事」がそこで実証されていた。
それにしてもここまでの激しい音響は今まで誰も想像しなかったに違いない。弦楽器はチェロだけで10艇もあり、通常以上に合わせるのは難しかっただろうが、明確に拍毎の音響が出ており、大きな破綻が無かった。その分、この楽譜ではとても激しいことになる。特に展開部のフーガの辺りは、大管弦楽団で様々なものも聴いてきたが、ペンデレツキなどよりもある意味厳しい音響となっていた。なるほど作曲家自身がこれほど難しい曲がなぜこう簡単に人気を博するのだと不満げに訴えていたのもこれで理解できよう。如何に平素の演奏では、そうした激しい対立がずらされることで誤魔化されているかが分かる演奏で、惜しむらくは対位法的な対旋律の線が綺麗に繋がるには管弦楽が明らかに非力であった。
兎に角、想像以上にテムピも早く、この第一部における力感、つまり聖霊の降臨からそれへの対峙としての二部の「ファウスト」に繋がる宇宙の力の葛藤が対位法的に描かれている訳だが、ここまでその対位を明確に響かさないことには何も表現されないのに近い。作曲家自身が、若いブルーノ・ヴァルターとオットー・クレムペラーを助手にしてミュンヘンのフィルハーモニカーの前身を指揮して、歌はヴィーンから楽友協会ライプッチッヒからと寄せ集めても叶わなかったに違いない。
その合唱団がとても健闘していた。初日には控えめだったという少年少女合唱団にも特別にペトレンコが鼓舞していたので全く問題は無かった。ミュンヘンでは劇場の自前で行くのだろうが、ザルツブルクからの大人の合唱団と共に、ミュンヘンの初演でも楽友協会を引き連れたように、とてもいい結果となった。
しかしなによりも新聞では「まるでバイロイト級のペトレンコが選んだ歌手陣」とあったが、過剰な表現と思ったが、確かに今まで知るクラウディア・マーンケよりも声が出て存在感もあり同時に技術的にも安定していた。感心していたのだが、ミュンヘンのマイスタージンガーで批判されていたヤクビアックに代わって入ったサラ・ヴェークナーは発見だった。今まではケント・ナガノ指揮などで歌っていてオペラは少ないようで、今年東京でリゲティで登場するようだ。なるほどヘルヴェッヘで歌っているのでフランクフルトで聴いている筈だ。そして表情もあるのだがなぜかオペラ界ではそれほどキャリアを積んでいない。この人が放つまさしくプンクトな一声は第二部でも光を放っていて、トッティーの中でも通る声は私の知るソプラノの中では最強だった。(続く)
参照:
静かな熱狂の意味 2019-05-20 | 雑感
イヴェントの準備をする 2019-05-16 | マスメディア批評
そして330人へとなる独唱者陣がぞろぞろと出て、最後に指揮者のキリル・ペトレンコが出てくると更に活気が付いた。地元の定期が核になっているにしては「待ってました」という感じでもなかった。そして指揮台に上がると勿体付けることなくいつものように上段に上げた手を振り下ろした。すると、それまで、どうだこうだと想像が吹っ飛ぶ。やはりぺトレンコが読む楽譜と我々が聴いていたりして想像する楽譜の風景とは何時も異なるのである。そもそもその通りならば態々出かける必要もないのだ。
最初のVeniの前奏からして異なる。その音響もあるが、そこで影響しそうなメディアが伝えるこの演奏会でのその特別な場のそれではなく、とても毅然とした研ぎ澄まされた響きだったからである。前回の放送で聴いた第五交響曲においては最初がトラムペットでのソロもあって、ナイーヴさもあり、続く葬送行進曲も弦を鼓舞するかのような指揮振りだったが、今回は曲想の違い以上に練習の成果も見えた。しかし同時に前日にTVインタヴューで見た通りコンツェルトマイスターの実力はとても限られていて、楽団の程度がそこに反映されていた。なるほど音取は管と単独で合わせて、それを弦のトップに次いで、更に後ろにまで特別に聞かせるというような雀の学校のようなやり方をしていたが、例えば嘗てのシカゴのような低弦から合せていくというような哲学は見えなかった。
比較すれば、如何にも同族的ななれ合いの響きがする斎藤記念などの音響が特殊なのである。往路では小澤征爾が指揮したタングルウッドでの録音を聴いていたが、思ったよりも静的な指揮で、それゆえに楽譜が見えてくるところもあって面白かった。その意味からすれば、ペトレンコ指揮がどこまでもの楽譜の音化つまりミヒャエル・ギーレンの「この曲では音響を形造るところが指揮者の何よりもの仕事」がそこで実証されていた。
それにしてもここまでの激しい音響は今まで誰も想像しなかったに違いない。弦楽器はチェロだけで10艇もあり、通常以上に合わせるのは難しかっただろうが、明確に拍毎の音響が出ており、大きな破綻が無かった。その分、この楽譜ではとても激しいことになる。特に展開部のフーガの辺りは、大管弦楽団で様々なものも聴いてきたが、ペンデレツキなどよりもある意味厳しい音響となっていた。なるほど作曲家自身がこれほど難しい曲がなぜこう簡単に人気を博するのだと不満げに訴えていたのもこれで理解できよう。如何に平素の演奏では、そうした激しい対立がずらされることで誤魔化されているかが分かる演奏で、惜しむらくは対位法的な対旋律の線が綺麗に繋がるには管弦楽が明らかに非力であった。
兎に角、想像以上にテムピも早く、この第一部における力感、つまり聖霊の降臨からそれへの対峙としての二部の「ファウスト」に繋がる宇宙の力の葛藤が対位法的に描かれている訳だが、ここまでその対位を明確に響かさないことには何も表現されないのに近い。作曲家自身が、若いブルーノ・ヴァルターとオットー・クレムペラーを助手にしてミュンヘンのフィルハーモニカーの前身を指揮して、歌はヴィーンから楽友協会ライプッチッヒからと寄せ集めても叶わなかったに違いない。
その合唱団がとても健闘していた。初日には控えめだったという少年少女合唱団にも特別にペトレンコが鼓舞していたので全く問題は無かった。ミュンヘンでは劇場の自前で行くのだろうが、ザルツブルクからの大人の合唱団と共に、ミュンヘンの初演でも楽友協会を引き連れたように、とてもいい結果となった。
しかしなによりも新聞では「まるでバイロイト級のペトレンコが選んだ歌手陣」とあったが、過剰な表現と思ったが、確かに今まで知るクラウディア・マーンケよりも声が出て存在感もあり同時に技術的にも安定していた。感心していたのだが、ミュンヘンのマイスタージンガーで批判されていたヤクビアックに代わって入ったサラ・ヴェークナーは発見だった。今まではケント・ナガノ指揮などで歌っていてオペラは少ないようで、今年東京でリゲティで登場するようだ。なるほどヘルヴェッヘで歌っているのでフランクフルトで聴いている筈だ。そして表情もあるのだがなぜかオペラ界ではそれほどキャリアを積んでいない。この人が放つまさしくプンクトな一声は第二部でも光を放っていて、トッティーの中でも通る声は私の知るソプラノの中では最強だった。(続く)
参照:
静かな熱狂の意味 2019-05-20 | 雑感
イヴェントの準備をする 2019-05-16 | マスメディア批評
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