昨年の春ころだったかな、自分と同じ歳の人のブログが読んでみたいと思って、
年齢を入れて検索したところ、ある人のブログが出てきた。
そのひとは、私と2日しか誕生日が変わらず、血液型も同じだった。
ちょうどブログを始めたばかりのところだった。
その人は大変な病気が発覚したばかりだった。
それは、進行癌だとのことだった。
ブログを始めたのは、それがきっかけでもあったようだ。
そのひとは、手術を迷われていたようだったが、手術を受け、一旦は回復したようだった。
でも、もともと完治するのは難しいことだと、本人もわかっていたのではないだろうか。
ブログには、生きていることのすばらしさが書かれていた。
この世の中はすばらしいものがいっぱいだ、いい人たちと出会い、いいものを見て、いい体験をするために、生きよう、というようなことが書かれていた。
そういうことを実感するのは、自分が病気になって、来年の桜を見ることができないかもしれないと覚悟するような状況におかれたからだともいえるだろう。
なぜ、私がいまこんなことを書いているかというと、
その人のブログは、昨年の10月を最後に更新されなくなってしまったのである。
今は、癌治療の技術も進んでいる。治る可能性も高いし、癌と共存しながら延命だってできるはずだ。
だから、今も闘病されていて、また元気にブログを更新してくれるかもしれない。
しかし、ブログの内容を読み返すと、やはり最初から覚悟していたんだと思わないではいられないような文面である。
手術を迷われていたのも、手術しても難しいというような説明がお医者さんからなされていたのかもしれなかった。
ただ、ブログは本当に明るく、人生のすばらしさと喜びだけが書かれていたのである。
そのブログを読んでいた人はどのくらいいたのかわからない。
少なくとも、コメントを書く人はほとんどいなかった。
私は数回コメントを書いたが、本当はもっとコメントを書こうかと思うことがありつつも思いとどまっていた。また、自分のブログがあることは伝えなかった。
それは、どこかに、明日の命が知れない人に深入りしたくないというような思いがあったからだとも言える。
そういうとなんか変な言い方だが、その人と親しくなってしまったら、別れが悲しすぎるだろうと思ったのだった。
きっと、他の人からもコメントがなかったのはそういう理由なのかもしれなかった。
また、健康人にとっては、あまりにも背負うものが違いすぎたからかもしれない。
この人は本当に今どうしているかわからない。
病床で闘病しているのかもしれないし、
もう、ブログを再開することはできない状況になってしまったのかもしれない。
ただ、その人が残したメッセージは、
そのブログを読んだものとして、
心に留めて、その人の分まで生きていかなくちゃいけないと思う。
年齢を入れて検索したところ、ある人のブログが出てきた。
そのひとは、私と2日しか誕生日が変わらず、血液型も同じだった。
ちょうどブログを始めたばかりのところだった。
その人は大変な病気が発覚したばかりだった。
それは、進行癌だとのことだった。
ブログを始めたのは、それがきっかけでもあったようだ。
そのひとは、手術を迷われていたようだったが、手術を受け、一旦は回復したようだった。
でも、もともと完治するのは難しいことだと、本人もわかっていたのではないだろうか。
ブログには、生きていることのすばらしさが書かれていた。
この世の中はすばらしいものがいっぱいだ、いい人たちと出会い、いいものを見て、いい体験をするために、生きよう、というようなことが書かれていた。
そういうことを実感するのは、自分が病気になって、来年の桜を見ることができないかもしれないと覚悟するような状況におかれたからだともいえるだろう。
なぜ、私がいまこんなことを書いているかというと、
その人のブログは、昨年の10月を最後に更新されなくなってしまったのである。
今は、癌治療の技術も進んでいる。治る可能性も高いし、癌と共存しながら延命だってできるはずだ。
だから、今も闘病されていて、また元気にブログを更新してくれるかもしれない。
しかし、ブログの内容を読み返すと、やはり最初から覚悟していたんだと思わないではいられないような文面である。
手術を迷われていたのも、手術しても難しいというような説明がお医者さんからなされていたのかもしれなかった。
ただ、ブログは本当に明るく、人生のすばらしさと喜びだけが書かれていたのである。
そのブログを読んでいた人はどのくらいいたのかわからない。
少なくとも、コメントを書く人はほとんどいなかった。
私は数回コメントを書いたが、本当はもっとコメントを書こうかと思うことがありつつも思いとどまっていた。また、自分のブログがあることは伝えなかった。
それは、どこかに、明日の命が知れない人に深入りしたくないというような思いがあったからだとも言える。
そういうとなんか変な言い方だが、その人と親しくなってしまったら、別れが悲しすぎるだろうと思ったのだった。
きっと、他の人からもコメントがなかったのはそういう理由なのかもしれなかった。
また、健康人にとっては、あまりにも背負うものが違いすぎたからかもしれない。
この人は本当に今どうしているかわからない。
病床で闘病しているのかもしれないし、
もう、ブログを再開することはできない状況になってしまったのかもしれない。
ただ、その人が残したメッセージは、
そのブログを読んだものとして、
心に留めて、その人の分まで生きていかなくちゃいけないと思う。