暇つぶしに、上林暁の短編集を読むことにした。
その中の何を読もうかと探すが、特別惹かれる題名はなく、無難に「散歩者」というのを選んだ。私が散歩ばかりしているからだ。これは「花の精」の前に載っている作品である。
その内容は、著者は何かにつけて散歩をするのだそうで、その散歩のときに遭遇したことや見かけたことなどを、日常のことと共に綴っているのであった。
A駅からO駅までよく歩くというので、それは阿佐ヶ谷から荻窪だろうとすぐにわかった。上林暁は天沼1丁目に住んでいたそうで、それはほぼ阿佐ヶ谷と荻窪の間である。
ならば私もその辺を歩いてみようかな~、などと思いながら読んでいた。しかし、暑いからやっぱりやめておこう。
そのあたりの地域は、知らない場所ではない。作品の中には、額縁屋や時計屋が出てくるが、そんな店はあっただろうか?大昔のことだから、今はもう無いのだと思う。
ある夜、著者「私」が友人の家から帰る途中、氷屋から出てきた若い女がいた。姿はきれいだが、口を拭うしぐさに、どことなく下品な印象を受けたそうだ。その女は「私」の前を足早に歩いて行ったが、途中で急に歩みが遅くなり、後ろを歩いている私に追い越してもらいたいような様子であった。そして、「私」がもう少しで追いつきそうになったときに、女がそこにあったとてもみすぼらしい古ぼけた家に入っていったのだそうだ。女はきっと、そんな家に帰るところを見られたくなかったのであろう。とのことが書いてあった。
それを読んだ私も、つい先日のことを思い出した。それは仕事の帰り道だ。私の数メートル前を一人の女性が歩いていた。その人は、私よりちょっと若い程度の中年女性だった。私が後ろからついていくような感じだったので、その女性は背後の足音に気づいていたようだった。ほぼ同じ速度で歩いていた。他には誰もいない。私は、もしかしたら前の女性は速度を速めるのではないかと感じていた。
すると、女性は歩きながら振り返って私を見た。怪しい男性がつけているわけでないことが分かったはずだった。だが、なぜかその後、段々その女性の速度が遅くなり、距離が近づいていくのであった。そうしてついに追い越してしまった。
実はその前から、私はその女性はどこまで行くのだろうと思っていた。その道を通るのは、だいたいその道沿いに住んでいる人だからである。後ろを歩いていけば、その人がどこに行くのかが自然に見える。
でも、突然ゆっくりになったから抜かしてしまった。そうして、今度は私のほうが後ろの人はどこまでついて来るのだろうかと気になってしまった。振り返るのも変だが、少し進んだところで振り返ってみた。すると、その女性の姿はない。
たぶん、けっこう高級なオートロックマンションの中に入って行ったと思えた。
「散歩」を読んでいたら、つい最近の自分のそんな体験を思い出したのだった。
それからまた「散歩」の中には、小さな時計屋のことが書いてあった。その時計屋は、若い新婚夫婦がやっているが、妻は身だしなみを整えた、とてもきれいな人であった。店の中で夫の傍らに座って新聞を読んだり、ラジオを聴いたり、夫の仕事を眺めたりして、いつもそばにいる。著者「私」は、その姿を羨望の思いで見ていたそうだ。
ところが、それからしばらくして「私」が、時計を修理に持って行ったことがあった。すると中から所帯じみた女が出てきて、それは以前見た美しい妻とはまるで違う人だったそうだ。しかし、それが時計屋の妻で有ることは明らかだった。その女は、身だしなみを整えて店に座っているようなこともせず、エプロンをして忙しそうに奥のほうで働いているような地味な女であった。
最初の美しい妻とはうまくいかず離婚し、後妻とはうまくいっているのだそうだ。
結局のところ、仕事もしないで座っているだけの美しい妻より、そっちのほうがよかったという結論だろう。
若くて美しい妻をめとれば、世間ではいかにも幸福そうに見えるものだが、現実は意外にそんなものであろう、との話だ。
それを読んだら、私もある知人夫婦のことを思い出してしまった。この人たちは、数年前に結婚したのであるが、妻のほうはとてもきれいで、とにかく自分の姿や洋服や、家のインテリアなどを完璧な美しさに整えたい人間である。身だしなみ第一で、朝起きれば1時間かけて化粧をし、服もセンスの良いものでなければ着ない、家具や備品なども、質やデザインに徹底的にこだわるのである。
結婚前は、夫はこの美しくセンスの良い女性を妻にしたら、連れて歩いても自慢できて夢のような夫婦生活ができると思ったに違いなかった。女性は女性で、この夫が一流会社に勤めており、かなりの収入もあったので、将来は安泰だと思っていた。
ところが、この女性、もともと家事をするなんていう意識がまるでなく、夫のために食事を作り洗濯をするという所帯じみた現実が苦痛になってしまった。夫のほうでは、妻が家事もろくにしない一方で、かなりの贅沢をして出費がかさむので、不満がでてきた。妻に言わせると、夫は帰宅すればひっくり返って何もせず、酒ばかりのんでいるそうだ。こんな男に尽くす気はますます無くなる。そんなことでぎくしゃくして、ついには離婚に至ったそうである。
この夫婦は、SNSでは、絵にかいたような旅行風景や外食風景を公開していて、他人からは羨望のまなざしで見られていたが、それは、うわべの幸福らしさに過ぎなかった。
この夫は、不細工なセンスもないただの女と再婚したら、うまくやっていけるかもしれない。
今も昔も、人の本質は同じだなあと思う。
そうして、驚いたのは、この作品の最後に「(昭和15年8月10日)」と書いてあったことだ。8月10日は今日じゃないか。
私はよくぞっとすることがあるのだが、著作物を読んでいて、こういう偶然が多々あるのである。
昭和15年って今からちょうど80年前のことだった。上林暁はこれを今日書いたんだ。
私はよく、作者の魂を感じる。
それは、私が選んで読んだのではなく、これを読むように導かれたらしいのだ。