土曜日に図書館から借りて来た本を、日曜に読み終えました。
これは、1997年に起きた神戸連続児童殺傷事件の被害者「淳君」のお父さんの手記です。
この事件は、当時日本中を震撼させ、誰もが知っている事件ですが、私は自分の子供が同年代ということもあって、より一層ショックを受けた事件でした。
この度、この本を開いてみると、まず淳君の0歳~8歳までのカラー写真が載っていて、それは目のぱっちりしたかわいい男の子でした。
上には3歳違いのお兄ちゃんがいて、2人目は女の子が欲しいと思っていたので、小さいときは赤っぽい服を着せたりしていたそうです。
淳君は少々言葉の遅れがあり、軽度の知的障害があったそうですが、明るく心の優しい少年で、普通の子供と同じように日常生活を送っていたそうです。
水泳が好きで、機関車トーマスが好きで、歴史もののテレビドラマが気に入っており、それから歌も好きでした。
淳君は1986年2月10日生まれだったことがわかりました。我が家の長女は1985年11月生まれです。淳君と同じ学年だったということがわかりました。
そういえば、うちの子供も3歳からプールに通っており、小さいときは機関車トーマスが好きでよく見ていました。絵本も買いました。全く同年代です。
うちの娘は今35才です。淳君も生きていたらそんな年齢になっていたということです。
淳君が突然行方不明になったのは、6年生の時の5月24日でした。おじいちゃんの家に行くと言って出たきり帰ってきませんでした。
それから家族は睡眠も食事もできない状態で、血眼になってあらゆるところを探し回りました。警察や学校関係・近所の人・親戚の人も必死に探しましたが何の手掛かりもなくその後2日が過ぎました。
ある日突然自分の子供が行方不明になって、消息がわからないなんて、家族は本当にいたたまれないと思います。それでも、まだどこかで見つかるという希望はありました。
しかし、27日に殺人事件の犠牲になっていたことが判明しました。(詳細は残酷すぎて、とてもここに書けるような内容ではありません。)
それからしばらくは犯人を逮捕することができませんでしたが、その年の8月に近所に住む少年Aの犯行であることが証明され逮捕に至りました。
少年は、以前から淳君と知り合いで、カメの好きな淳君にカメを見に行こうと言って誘い、犯行に及んだということです。(淳君は以前自宅でカメを飼っていましたが、ほどなく死んでしまったので、少年Aの家で飼っているカメを見に行ったことがあるそうです。)
当時、加害者の行った無残な行為については、誰もがショックを受け、それが14歳の少年の犯行だったことにも驚きと恐怖を覚えました。こんな不気味な事件はいまだかつてなかったと思います。
当時、一般人はそういう恐れだけがあって、毎日テレビの報道を見ていたと思います。
その時、被害者の家族の立場になって物事をどれだけ考えることができたでしょうか。
かわいそう、気の毒だ、とは誰しもが感じたことですが、それよりもこの異常な犯人像に関心が向けられて、毎日テレビにくぎ付けになっていたと思います。
殺人事件が発覚してからは、警察の動きがより激しくなり、マスコミも押しかけてきました。
土師守氏によれば、犯人がわからない時点では、警察は家族のアリバイまで精密に調べたそうですが、それは一貫して公正なものであり、あくまでも真実をつきとめるためのものだったということです。また、自宅に待機してくれた警察は、買い出しやマスコミ対応もしてくれたということでした。土師氏は警察に対してはこの手記の中で感謝の気持ちを綴っていました。
一方、マスコミというのは、容赦なく私生活に踏み込んできて、ある時は親を犯人扱いにしたり、いきなり車の前に立ちふさがって写真を撮影したり、我が子を亡くしたばかりの親にマイクを向けたりと、あまりにもひどい行為を繰り返しました。
また、週刊誌などには事実とは違うことが、さも事実のように書かれたそうです。
また、被害者の住所氏名が公開され、家族の職業や勤め先までもが世に知らされたので、一般人からも心無い電話や手紙が来たりしました。
この手記を読んで、事件の被害者になった家族は、大切な家族を殺されたというだけでも。耐えきれない苦しみの中に置かれているというのに、さらに個人情報が暴露され、有ること無いことを全国に発信され、そのマスコミの攻撃とも戦わなくてはならないという状況を本当に気の毒に思いました。
また、事件についてですが、犯人が人の命を奪い、こんなに重大な事件を起こしておきながら、未成年ということで、罪の償いも刑の執行もないのはおかしいのではないかということです。誰も責任を取らないということになります。
犯人本人が14歳で責任能力がなく、少年が更生して将来生きていけるように、名前も伏せられて配慮される一方、被害者側は個人情報が暴露されてどこに行っても何年経っても人々の注目に置かれます。
犯人が未成年で責任が取れないからといって、犯人の親が取るわけでもないです。
犯人の家族は、それはそれで自分たちのことで大変でしょうけど、犯人である息子のことを心配する気持ちが大きく、自分たちの育て方が悪かったのかと息子に対して償いの気持ちをもったりしているようです。
そうすると、命を失わされた被害者のことは、二の次になっている感が否めません。
土師守氏は、病院に勤める放射線科の医師であり、事件に際して仕事を休んだり、休職中の患者さんの手配をしたり、また仕事に復帰するなど、仕事の面でも大変な対応をしなければなりませんでした。
淳君の遺体確認のときには、母親にはとても見せられない姿で、父として医師としてその役割を果たしたというのが印象に残りました。
残されたお兄ちゃんに対する気配りや、助け合う親戚など、当事者が書いていることなので、よく理解できました。
私は、この本の中のシーンで印象に残ったものがあります。
それは、息子の淳君を失ったあとで、筆者がNHK連続ドラマ「あぐり」を見ていると、母親のあぐりが「じゅーん、じゅーん」と息子を呼ぶ場面があり、まるで自分の息子の淳くんのように感じたそうです。
「あぐり」は吉行淳之介さんのお母さんの話です。漢字も同じ「淳」なんですね。
ああ、そういえば、子供が小さいころ、我が家でも「あぐり」を見ていたなあと思いました。
それから、淳君んは「つばさをください」という歌が大好きだったそうです。この歌は筆者の土師守氏が若いころに流行した歌ですが、その歌をどうして淳君が知っているかというと、小学校の音楽の教科書に載っていたからだそうです。
私も、土師守氏と同様に、自分が小学校の高学年の頃にこの歌が流行って知っていたと思うのですが、これが自分の子どもの世代に、小学校の許可書に載っているとは知りませんでした。
あの歌は私も好きな歌でした。
淳君は6年生の5月に亡くなってしまいました。
その時の小学校の校長先生が、偶然にも土師守氏が小学校の時の担任の先生だったそうです。それは、事件をきっかけにしてお互いに思い出しわかったことでした。
そして、3月になり小学校の卒業式が行われましたが、淳君も卒業生として名前が呼ばれ卒業証書を授与したそうです。しかし、他の子供が受け取るときとちがって本人の返事の声がなかったのが、やはり悲しい現実でした。淳君の学友が代わりに受け取ってくれたそうです。
そうして、卒業式に淳君の好きな「翼をください」が合唱されました。
こういうエピソードは、当事者の方が書いたことであればこそで、けっして他人には書けないことだと思いました。
この手記は新潮社の出版でした。
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この事件について、当時の子供が大人になるような年月を経て、事件全体のことをもう一度振り返ったり、加害側のことも考えたりしますが、被害者の方のことも決して忘れてはいけないし、知らなかったことや、マスコミによって印象付けられていた嘘の報道なども、正しい認識をし直さないといけないと思います。
そしてまた、今現在も様々な情報がマスコミによって発信されています。
今現在は、新型コロナのことや、小室圭さんのことなどしきりに報道されていますが、それが本当に真実といえるかどうか、惑わされないようにしたいと思いました。
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結局、どうしても長々しく支離滅裂になってしまいましたが、読後感として残しておきたいと思います。(今日書いたものは4月12日に書いた「淳 junを読んで」の続きとなります。)
翼をください/山本潤子
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