プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

七森由康

2018-02-04 23:23:50 | 日記
1965年

ちょいと現ナマが入ると、さっそくスポーツ・カーよ、ナイトクラブよ、と、かっこよく立振舞いたがるのが現代っ子気質と思ったら、この堅実さ、この言葉ー。しかし七森クンにも趣味はある。いや趣味というより精神修行の一つかもしれないが、それは日本刀蒐集。「蒐集といったって、無名の刀鍛冶のきたえたのが一振りあるだけなんですがひとり夜ふけに抜いて、タマ散る氷の刀をじっと眺めているとなにかしら心が落ち着いて、明日登板と知らされている夜でも心静かに眠れるんです。イエ、ボクにとっては、正宗の名刀でなくたっておなじことなんですよ」まだ若い彼のこと、刃文がどうの、反りがどうのといった等専門的な鑑賞の仕方なんか知るよしもないが、砥ぎすまされた日本刀の刀身を眺め、精神統一をはかるなど、昔の刺客にさ似たり、というと。「読書も好きで、今は宮本武蔵の五輪書や独行道などひもとくのですが、なかなかわかりませんね」というが、この一瞬に全力をあげて戦うという、武蔵の人生観に少しでも接近できれば、プレヤーとして大いにプラスになることだろうが・・・。机の上の五輪書のお隣には、数冊のスクラップ・ブックがあって、中には雑誌や新聞に掲載された、金田、小野、中山、など、サウスポーの投球フォームの分解写真がきちんと貼られてあった。なかなか研究熱心でもある。
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七森由康

2018-02-04 22:39:13 | 日記
1965年

七森投手、ことしの四月二十六日がくれば、満20才になるがこの一月の成人式にはまだ19才で間にあわないわけだ。出身は大阪西商高、生っ粋の浪花っ子だが、これが子供のころから熱烈な巨人ファンときちゃってる。高校を卒業するとき地元の南海をはじめ、阪急、近鉄、広島あたりからも口がかかったが、もう七森クンは巨人一辺倒。たった一人の肉親の父親と書いたが、実は家庭の事情で、がんぜない小学校二年のとき、母親と生き別れ、男手ひとつで育てられた。いわば、順調とはいえない生活環境であったにもかかわらず暗い陰はちっとも残さず、土根性男に成長したあたり、よほど父親の薫陶よろしきをえたに違いない。「今じゃこのおやじにいい成績をあげて、喜んでもらうのがなによりも楽しみなんですワ。おやじは以前、プロの撞球家だったので、なかなか勝負についてはウルサイほうでして、いつも巨人の選手になっても虚人になるななんて手紙をよこすんです」まだニキビの跡が残っている顔がくずれて人一倍大きな八重歯をのぞかせて笑う。初勝利をあげて、報道陣に囲まれ、目のやり場に困って照れ笑いしたときの顔だ。この八重歯、合宿の仲間にいわせると「キバ」だそうで、親しいチームメートが彼を呼ぶ愛称にもなっているとか。合宿組といっても、天下の巨人軍ともなると、各選手の部屋にはバンとしたステレオ、携帯テレビのたぐいの電機具が入っており、休憩時間にはあっちからはモダン・ジャズ、こっちからはポピュラーが響いてきて、どこかのミュージック・ホールへでもいったようなあんぱいとなるが、この七森クンの四畳半には、そんなものはいっさいなし。机とその上に十数冊の書物ボールが二つ三つあるだけ。歌の文句じゃないけれど、テレビも、ステレオもいらないわ、勝星だけがほしいのよ・・というわけか。「あんなものほしいと思いません。車だってケガしたらつまらないから、ほしくないです。イエ、買えないからいうんじゃなくって、ほんとにボクはあまり派手に立回るのは性にあわないのです」
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七森由康

2018-02-04 22:15:50 | 日記
1965年

金田大投手の巨人入りは、球界の各方面にいろいろな影響をおよぼすものとして、話題を賑わしているが、同じサウスポーとしての、この先輩を迎える巨人投手団の若手、七森由康投手あたりも、「昨シーズンは、左が伊藤さんだけだったので、たびたび登板のチャンスを与えられましたが、たった2勝しかできませんでした。ことしは、チャンスがあるかどうかわかりませんが、左腕の名投手がくることですし、技術的にも精神的にも勉強になるところがずいぶんあるので、早くキャンプ・インにならないかと待ちどおしくて・・・」とウエルカムの弁。昭和37年巨人入団の4年生、芽が出たのが昨シーズンの六月二日、後楽園の広島戦で初先発の初勝利。ユメにまでみた初勝利をあげたものだった。この快投で巨人に七森ありとマスコミに注目されたのもつかの間、その後スピード不足などもあって、しばらくイースタンで修業。シーズン終了まぎわの十月、公式戦にカムバック、持ち前の負けじ魂を発揮して広島をシャット・アウトして、面目を大いにほどこしたものだ。「昨シーズンを反省してみますと、やはり体力不足ですね。17才でプロ入りしたことのボクは青白くてひよわな体で、われながら情けなかったくらい。二年間みっちり練習して、筋肉もできてきましたので、体力には自信がついてきたのですが、まだまだできた。だから、ことしは走って走り抜いて、シーズンに入ろうと、いま多摩川べりを毎朝駆けているんです」年末には、たった一人の肉親である父親の一郎さんが待っている大阪へちょっと顔を見せただけですぐにターン、松の飾りのとれぬうちに多摩川へ戻ってくる気合の入れ方。なにしろ、ナニがなんでも優勝しなければことしの巨人軍、ピンは代表、監督からキリは合宿住まいの若手まで、なになみならぬ緊張感がみなぎっているとみた。
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瓜生秀文

2018-02-04 21:30:51 | 日記
1969年

瓜生は177㌢、70㌔、右腕からの速球はことしにはいって一段と威力を増し、特に最近、決めダマに使っているカーブはブレーキがよく、各チームともこのカーブを警戒している。力投型の投手にありがちなコントロール難はかくせないが、大きくくずれる心配はない。
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菅原紀元

2018-02-04 21:18:24 | 日記
1962年

三十四年に東京の東洋商を出て大毎へ入団したが、当時から有望な投手といわれていた。それが昨年まで下積み生活をしたのは、本人のプロに対する考え方が甘かったからだ。子供だったのかも知れない。練習に身を入れなかったため、体もブクブク太らせて、それが原因で肩までこわしたりした。ところが昨年シーズンが終わったころから、ようやくこれではいけないという欲が出てきた。これについて白川マネジャーは「素直な性格で、根性を持っていたから、やる気になったのでしょう」といっていた。今年のキャンプでは、杉下コーチから特に目をかけられ、他の投手の数倍も鍛えられたが、菅原はそれにネをあげず、がんばり通した。この精進が実を結んで、すっかり体も引締り、弱かった下半身もよくなった。そしてオープン戦での活躍もあって、シーズン当初から宇野監督の計算の中に入れられたが、小野、若生、中西、三平の主戦級の投手連がそろって不調だったことも彼にとって幸いした。自信をつかむのと、腕をみがく機会に多く恵まれたからだ。いまでは大毎の投手連を、同じ四年目の坂井とともに背負っているほど重要な存在になっている。けれでもピッチングは、まだギコちない感じで、甘い面も多く、これからの投手だ。踏出した足が突っぱって、重心が乗っていないし、これといった決め球も持っていない。杉下コーチも「よくはなっているが、まだ投手そのものとして未完成で、現状ではどこが悪いとか、いいとかいえる段階ではない」と、今後の成長に希望をかけている。三十日現在の成績は、七勝四敗で、大毎の中では坂井に次ぐ勝星をあげているが、防御率の三・五〇(八九回1/3、自責点三五)はあまりよい数字とはいえない。七勝もあげているのはリーグ一の強力な打線の援助が多分にあったからだ。しかし、体力に恵まれ試合ごとによくなっていることと、上手投げで、技巧に走らないピッチングは、今後力投型の投手として期待が持てそうだ。だが今は無心に投げている。それだけに壁に突き当たる時期が来ると思う。それを破っていけるかどうかが問題だ。中学時代はバレーボールの選手で、高校一年のときは野球部のマネジャーをやっていた。それは入部してまもない練習中に走れといわれて走らなかったため、上級生にバットでなぐられた。それで一時は野球をするのがいやになり、マネジャーに転向したということだ。二年から投手をやりはじめ、三年生の夏には彼の投手力で東洋商は甲子園大会東京予選のシード校になっていた。二十一歳、身長一㍍八〇、体重七九㌔。紀元という名前は、紀元二六〇〇年(昭和十五年)に生まれたのでつけられたそうだ。

菅原投手の話 プロ二年目の春、体が太って肩をこわした時は、やめようかと思ったが、今は試合に出るのがたのしくてしようがない。スピードとコントロールをつけることに努力し、あくまで力のピッチングでおし通して行くつもりだ。

近鉄小玉選手の話 今年出てきたにしては割合いよくまとまっている。下積み生活を長くしたからだろう。威圧感はないが打てそうで打てない投手だ。ただ決め球を持っていないので、カウントが追いこまれても、そうこわいとは思わない。けれでも試合ごとによくなっているし、球の配合などをおぼえれば、もっともっといい投手になると思う。
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田原康行

2018-02-04 20:53:40 | 日記
1953年

フォーム・・・不明 球種・・ストレート、ドロップ、シュート。

御所実の田原は立上り制球に苦しんでしばしばピンチを招いたが、その都度懸命の力投にこれを阻み、後半ようやく立直って本来のピッチングを見せた。外角低目を衝く速球と内角に切込むシュートをおりまぜた巧投は容易に芦屋にチャンスを与えなかった。

空谷、田原の両投手はともに切れのよいドロップを生命とし外角低目へ速球を投じるうまい配合をしていた。
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ノース

2018-02-04 20:47:51 | 日記
1936年

ノース投手・・・六尺もある長身、サザン・パシフィック・リーグのパラマウント軍で活躍していた十字火球が得意だというが日本ではスピード、カーブ、コントロール共に余りパッとしない、あれが真の力じゃないのだろう。
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