1973年
「二番手人生」だと思う。高校(中京商)では、左のエースの救援役。富士重工では皆川(日拓)一年先に南海入りした野崎のあとについていた。ドラフト指名も二位だった。「ちっこい体だし、二十五歳にもなったからプロのスカウトの目にはもう止まらないだろう」とあきらめかけていた。南海に指名されたときは、本当にびっくりしたそうだ。これで運命は変わった。二番手人生とはサヨナラだ。「ナンバーワンの新人や」と野村監督はいう。一軍だけの大方キャンプに加わったただ一人のルーキーだ。一位指名の石川(東洋紡)の入団が、秋の産業対抗後になったので、首脳陣の期待は伊藤に集中する。「伊藤が投げます」と新山コーチが声をかけたとき、野村監督はネット裏から右翼場外のブルペンまで走って観察に出かけたほどだ。ヤジ馬で見物していたジョーンズに「こんな速球派が敵チームに入らずによかったな」といった。「タフやで。馬力があるで」とほめる。1㍍72、74㌔、ニックネームは豆タンクとなった。振りおろす右腕から繰り出す武器は速球、カーブ、スライダーに「カウント2-0で投げる」というフォークボール。「ぼくよりカーブの切れは鋭い」野崎は野村監督に報告した。その野崎が目標だ。「あいつが4勝(6敗)したのなら」と、昨年の野崎の働きをみてプロ入りに踏み切った。「オープン戦の開始(三月十日)にベストにするよう」と野村監督から厳命を受けている。「ひねたルーキーだから今年が勝負です。オープン戦で早く1勝して力を認めてもらわないといけない」と覚悟が出来た。年下の先輩にも礼儀正しく、言葉もていねいだ。「たばこを一本」といった中山は、マッチをすろうとした年長者にすっかりあわてたことがある。「弱体投手陣といわれるけど、山内、松原らと一緒になって汚名を返上したいなあ」手取り六万五千円の月給は十三万五千円にはねあがった。野村監督のように三千万円を超える年棒は無理としても、もっともっと金のとれる本当のプロになる日を夢に見る。