プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

田尻茂敏

2014-08-20 19:48:24 | 日記
1966年

産経は第一回選択会議で交渉権を得た熊本一工・田尻茂敏投手(18)=1㍍75、71㌔、右投右打=の獲得に成功した。二十一日から帰京した宇高スカウトが明らかにしたもので、田尻は上手からの本格派投手。産経では吉江(塚原高)とともに高く評価している。小山、宇高スカウトが二度熊本まで足を運んだ熱心な勧誘が実を結んだ。田尻は三十日・母親・要さんとともに状況、秋季練習に参加する予定。
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池田公成

2014-08-20 19:47:51 | 日記
1972年

池田公成二塁手(20)・・西日本短付、1㍍72、67㌔、右投右打、福岡。

・軟式出身のテスト生。スマートな守備に比べ、打力にもう一つ力強さがほしい。
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桑野議

2014-08-20 19:26:07 | 日記
1967年

阪神は十八日正午から大阪・梅田の阪神電鉄本社三階会議室で九州工・桑野諮(はかる)投手(18)=1㍍80、74㌔、左投左打=の入団を発表した。発表の席上には岩門球団常務、藤本監督、父親篤さん(44)=阪神競馬場勤務=、母親文子さん(44)、義兄の石井勝支さん(26)が立ち会った。桑野は二十日からの安芸キャンプに参加する。阪神としては入団第一号。桑野はことし夏の福岡県予選決勝で小倉工・横山(南海が交渉権を獲得)と投げ合って負け、甲子園にはついに出場できなかったが、九州地区では河原(大分商)らとともに本格派投手として早くから各球団にマークされていた。阪神は選択会議で第五位に指名して交渉権をとり、佐川スカウトが交渉にあたって十五日の二度目の交渉で入団を内定していた。阪神は投手としての素質よりむしろ打者桑野を買っているようだ。在学三年間の通算打率は三割八分。夏の予選では四割二分九厘をマークし、二年生のときに外野と一塁を守った経験もあり、安芸キャンプで投手か打者に転向するかが決まりそうだ。

桑野選手「自分の力がプロで通用するかどうか不安だったが、できれば関西の球団にいきたいと思っていました。投手としての未練はもうありません。これからは打者で進みたい。自分では長打力のある方だと思っています」
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成田昇

2014-08-20 19:16:48 | 日記
1970年

元西濃運輸・成田昇投手(22)=1㍍80、75㌔、右投右打、一宮商出、背番号47

・愛知工大を二年で中退したが、その間に通算18勝。名門中京大を破るなど愛知六大学に旋風を起こした本格派投手。
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牧重見

2014-08-20 18:56:59 | 日記
1970年

・牧重見投手(20)=サッポロビール、1㍍77、70㌔、右投右打、宮崎大宮高出、背番号16。

・高校時代から本格派投手として評判だったが、肩を痛め、一年を棒に振った。しかしことしは肩も直り、都市対抗では準決勝まで進出、復調した。

牧投手「社会人で二年やったことはプロでもプラスになると思う。目標は小山さん(ロッテ)のような頭脳的な投手。これという武器はないが一日も早く1勝したい」
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児玉好弘

2014-08-20 18:50:42 | 日記
1970年

阪急の渓間代表は二十六日、大阪北区高垣町の球団事務所でドラフト会議指名外の日本軽金属・児玉好弘投手(24)=1㍍78、72㌔、右投右打、鴻城高出=を獲得したと発表した。同投手はオーバースローの本格派で、これまで都市対抗、産業大会に出場したこともある。丸尾編成部長が交渉に当り、十八日テストした結果、入団を決めた。児玉は二十五日付けで退社届けを出している。正式発表は、二十八日午後二時から球団事務所で行われる。契約金四百万円、年棒百二十万円(いずれも推定)。
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篠田勇

2014-08-20 18:34:08 | 日記
1968年

「いや、まぐれです。恥ずかしい。万年春男ですからね」篠田はテレた。昨年はキャンプからねんざ、肉ばなれの連続で棒にふったが、四十一年春はすごかった。紅白試合は四割以上、オープン戦から公式戦にかけてもつねに三割以上を打ち、十傑に顔を出していた。それが五月一日に盲腸炎をこじらせ、約三カ月の入院。1㍍68、66㌔と体力がないだけに、とばしすぎると故障をおこしやすいタチのようだ。「四十一年は矢ノ浦が近鉄からきた。精神的にも充実していました。ことしもそれに似てます。ケガをするのはやはり精神力がたりなかったからですよ。ことしは監督もきびしいし、オフ返上で鍛えてきたから、二の舞いはしないと思います」さかんに気力を強調した篠田が、四十一年に似ているという裏には、矢ノ浦の加入と同じように、ことしは球団が正遊撃手に期待する新人中野へのライバル意識も働いているだろう。それに私生活では四十一年一月に宣子夫人と結婚、ことし一月十二日には長男真ちゃんが生まれてパパになったことなど、張り切る材料はそろっている。「たしかに中野君もいいプレーヤーだと思います。実戦向きの選手らしいし、初日でぼくがちょっと打ったからって喜べません」右中間三塁打日本と中前安打。「自分の特徴をよくつかみ、単打打ちに徹してますね。決して大きいのはねらわない。それでも打球が速いから外野の間を抜ければ、ちゃんと長打になる。勉強になります」四打数2三振とさんざんだった中野も、先輩の活躍に、勝負はこれからと、より闘志を燃やしたという。「中野?そりゃ負けたくないですよ。でも中野がどうこうという前に、まず自分との戦いに勝たなければ相手にも勝てません。幸いいま体調もいいし、コンディションもいいから、これからも気を抜かないでがんばります」郷土水戸の先輩、豊田コーチは練習中から「ことしの篠田はいいぞ」といいながら「同郷のよしみであまりあまくなってはいかんからな」とからい採点ばかり。それでも豊田メモにはいつも、5点法の採点で3、4点はもらっていた。「予想どおりよく打った。振りがシャープなことと、タイミングのとり方がうまい。バッティングのコツはそれだけだよ。あとはケガしないよう、自分にも負けずがんばれば中野にも負けないだろう」豊田コーチは自分のことのように喜んでいた。
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川藤幸三

2014-08-20 18:12:55 | 日記
1967年

阪神は二十三日正午から甲子園球場ブレスルームで若狭・川藤幸三投手(18)=1㍍74、68㌔、右投右打=の入団を発表した。戸沢代表、父親甚之助さん(55)=農業=が立ち会った。川藤は同日午後三時二十五分高知空港着の全日空機で高知入り、安芸秋季キャンプに参加した。阪神としては入団第二号。川藤はことし春、夏の甲子園大会に連続出場したが、小柄なほっそりしたからだと「フォームがきれいすぎて体重が乗らず、球の軽いのが欠点」(河西スカウト)から阪神は内野手に転向させる方針だ。なお同選手は東京・川藤投手の実弟。百㍍を11秒8で走り、同校では何度も陸上対抗試合にかり出されている。中学時代は遊撃を守った経験もあり、安芸キャンプで内野手転向が決まりそうだ。夏の北陸予選では2ホーマー(うち一本は満塁ホーマー)をたたいたバッティングも「手首が強いからだ。動きも軽いし内野手としての素質は十分」と河西スカウトはいっている。発表の席上で川藤は、戸沢代表と甚之助さんの間で小さくなりながら「打者としてこれから進みたい」と話していた。

川藤投手「プロの球団から指名されるとは思ってもみませんでした。まだなにもわからないので、だれが目標など考えてもいません。投手では通用しないことはわかっています。打者として精いっぱいがんばるつもりです」
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吉良修一

2014-08-20 12:42:19 | 日記
1967年

阪神は十八日午後一時、大阪・梅田の阪神本社六階会議室で津久見高・吉良修一投手(18)=1㍍80、75㌔、右投右打=の入団を発表した。ドラフト会議での指名順位は野上(市和商)についで二位。背番号は未定。発表には戸沢代表のほか母親房子さん(44)が出席した。阪神へ甲子園大会の優勝投手が入団するのは、三十五年の西条高・金子投手以来七年ぶり。優勝したことしの選抜大会での成績は、四試合で奪三振51、防御率0.90。二年生の秋の九州大会大分県予選では臼杵商を相手にノーヒット・ノーランをマークしている本格派だ。決め球は「高校生にはめずらしく大きなドロップ」(佐川スカウト)選抜大会決勝戦(対高知高)では一死満塁1-1のカウントから得意のドロップを投げてスクイズを見事にはずした。阪神は「ことしの孝行右腕投手では吉良がナンバー・ワン」(佐川スカウト)と高く評価、ドラフト会議では野上につづき二番目に指名。日石への就職が内定していた吉良を佐川スカウトが熱心に説得した。吉良は小学校二年生のときに父親をなくし、母親房子さん、祖母、弟(高校二年生)の四人家族。津久見・小島監督は「シンが強く、大きな勝負にも負けない度胸の持ち主。ピッチングもまだいくらでも伸びる」と見ている。中学二年生までは内野手(遊撃)で、三年生から投手、高校時代は一試合16三振が最高だった。

吉良投手「はじめは日石へ就職するつもりだった。家族の事情と、どうせなら最高の場で自分の力をためしてみた、という気持でプロにはいった。いまはドロップがたよりだが、これからはスピードで勝負できる投手になることが第一の課題だ。目標は村山さん。あのダイナミックな力のピッチングはすごく魅力がある。あれが甲子園の優勝投手か、と笑われないように力いっぱいやります」

戸沢代表「右で一番期待できる投手、というスカウトの推薦だった。村山のあとガマになれる本格派として期待している。久しぶりに入団した甲子園の優勝投手だから大事に育てていきたい」
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堀田芳信

2014-08-20 12:26:04 | 日記
1968年

堀田芳信投手(18)=1㍍78、68㌔、左投左打、背番号44

堀田投手「一年生のときは速球派といわれましたが、新聞紙上ではカーブがいいと書かれました。早く一軍にはいって1勝したい」
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高原栄一

2014-08-20 12:05:50 | 日記
1969年


東映は伊東キャンプで使うアルバイト捕手を募集していたが、申込みが多数あったため、二十八日午後一時から東映多摩川グラウンドでテストを行った。三十六人の申し込み者のうち、実際にやってきたのは元巨人捕手の八幡ら二十六人。審査の結果、浪人中の高原栄一君(19)と、川越勝君(21)=国士舘大三年=の二人が採用ときまった。高原君はなんと三重県名張市からかけつけたという熱心さ。二人は三十一日、選手といっしょに伊東へ出発、二月十五日まで日当二千円でキャンプの臨時捕手をつとめる。

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住友秀雄

2014-08-18 23:07:40 | 日記
1968年

瓜生スカウトは午後四時から東京・江戸川区舟堀の自宅に、先に新人テストで採用の内定している第一製薬・住友秀雄投手(19)=1㍍73、68㌔、左投左打=をたずね、入団の意思を再確認した。
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石井高雄

2014-08-18 23:02:11 | 日記
1970年

柳川商・石井高雄外野手(19)=1㍍71、70㌔、右投左打

・石井は甲子園大会に出場したことはないが、九州高校球界では「長打のある好打者として評判だった。二年生の秋から四番を打ち高校時代の通算打率は四割二分、本塁打も四十本近く打っている。ベース一周14秒5の俊足ランナー。「攻守走三拍子そろった好選手」(藤井スカウト)で、中学生のとき右腕が強いことから左打者に転向した。
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伊原春樹

2014-08-18 22:50:28 | 日記
1970年

伊原春樹三塁手・・1㍍83、83㌔、右投右打

・伊原は広島県・北川工時代の四十一年、夏の甲子園大会、広島予選決勝で広島商に敗れたが、六試合で四割二厘、本塁打二本を打つなど大活躍した。芝浦工大では四年生のとき監督不在のため、学生野球としても珍しいプレーイング・マネジャーをつとめた。そしてこの年の春季リーグ戦で三塁手としてベスト・ナインにも選ばれている。四年のときの通算打率二割九分三厘、本塁打三本(通算四本)を記録した。西鉄が伊原を二位に指名したいきさつには「責任感と逆境に強いこと」があげられている。伊原は高校では三年、大学でも四年生になってからフルに出場できるようになったなど大器晩成型で、ねばり強い性格を買ったもの。青木代表、稲尾監督は口をそろえ「じっくりと構えて野球をするあたり、中西三塁手(前監督)以来の大型三塁手として期待している」と評価していた。
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新谷憲三

2014-08-17 21:27:40 | 日記
1967年

阪神の自主トレーニングが行われている甲子園球場で、たてじまのユニホームの中に一人、まっ白なのを着た選手がまじって練習している。昨年ノンプロの日本石油をやめた新谷憲三外野手(24)=1㍍77、77㌔、左投左打、立大出=で友人の中井のつてでテスト中。立大時代は三番を打ち現巨人の槌田が四番、日石では四番枝松の控えだった。昨年のドラフト会議で東京にリストアップされるはずだったが見送られ「これが最後のチャンスです。もしダメなら野球をやめます」とがんばっている。いまのところ有望だが、藤本監督は「もう少しようすを見てから」と慎重に構えている。
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