1969年
「真っ向から逃げずにビュンビュンいきたい。僕の持ち味はこれです。とにかく力で勝負できるような投手になりたい」大勢の報道陣に取り囲まれながら臆するところがない。堂々と自分の考えを披露した。二年間、サラリーマン生活をしただけに、いうこともしっかりしている。「私生活にも注意して、絶えずベストの状態でプレーできるように心がけたい」と並みの新人とは違う発言をした。何勝するのが目標かと聞かれても「答えはシーズン末になると出るでしょう」とソツのない返事が返ってきた。二年遅れたプロ入りだが「自信のないままプロ入りするより、学生野球よりレベルの高いノンプロで二年間もまれたのはプラスだった」とはっきりいう。「僕の一勝を阪急でかけてみたい。またそれだけやりがいのあるチームだ。その自信ができたからこそプロ入りを決めた。一日も早くローテーションに入りたい」新人といってもすっかり大人の抱負を話す。「投手陣の中心は剛でなければならない」丸尾スカウトの持論だ。米田、梶本といったところが技の投手になりかけて、老化いちじるしい阪急投手陣。ここ数年、本格派の入団が待たれていた。まして阪急は今年、4連覇と悲願の日本一という使命がある。「つまり巨人に勝つためには力の投手がどうしても必要だ」とする西本構想もあって、三輪田の一位指名となったわけだ。「シュートを武器とする投手が巨人には有効」(西本監督)とすれば、この三輪田はうってつけ。183㌢、78㌔の恵まれた体から投げおろす速球、シュートへの期待は大きい。三輪田の加入は、長いことつづいたヨネ・カジ時代から、水谷、宮本らを中心とした若返りの投手陣へ動き始めたことを意味する。「テレビで一度見ただけだが、違い、を持っていたな。もちろん一年目から使うつもり。大学、ノンプロを出て、最初から登板できない投手はだめだ」とすでに西本構想に入っている。「10勝くらいは十分できる」と丸尾スカウト。「近い将来には阪急投手陣を背負って立つ投手になることは間違いない」と太鼓判を押した。常に栄光の道を歩いてきた。高校球界の名門、中京商時代からエースとして三度甲子園のヒノキ舞台を踏んでいる。三十七年の春夏、三十八年の夏の大会だ。三十八年は全日本のメンバーにも選ばれ、ハワイへ遠征した。早大入学後は二年の春から登板、二度の優勝を経験している。四十二年、卒業時には近鉄が一位にリストアップしたが、事情があってプロ入りせず、ノンプロ大昭和製紙へ就職した。大昭和時代は故障もあってほとんど忘れられかけた存在だったが、丸尾スカウトはあきらめなかった。通うこと八度。十一月の産別大会(後楽園)のピッチングで「九分どおり全盛期に戻っている」と一位にリストアップすることに決めたという。高校、大学、ノンプロを通じて真っ向から勝負してきた。速球で押し、シュートをずばり決める度胸のいいピッチングが売り物。精神的にもしっかりしており、少々のスランプにもくじけない気力がある。即戦力として阪急久々の本格派投手だ。
「真っ向から逃げずにビュンビュンいきたい。僕の持ち味はこれです。とにかく力で勝負できるような投手になりたい」大勢の報道陣に取り囲まれながら臆するところがない。堂々と自分の考えを披露した。二年間、サラリーマン生活をしただけに、いうこともしっかりしている。「私生活にも注意して、絶えずベストの状態でプレーできるように心がけたい」と並みの新人とは違う発言をした。何勝するのが目標かと聞かれても「答えはシーズン末になると出るでしょう」とソツのない返事が返ってきた。二年遅れたプロ入りだが「自信のないままプロ入りするより、学生野球よりレベルの高いノンプロで二年間もまれたのはプラスだった」とはっきりいう。「僕の一勝を阪急でかけてみたい。またそれだけやりがいのあるチームだ。その自信ができたからこそプロ入りを決めた。一日も早くローテーションに入りたい」新人といってもすっかり大人の抱負を話す。「投手陣の中心は剛でなければならない」丸尾スカウトの持論だ。米田、梶本といったところが技の投手になりかけて、老化いちじるしい阪急投手陣。ここ数年、本格派の入団が待たれていた。まして阪急は今年、4連覇と悲願の日本一という使命がある。「つまり巨人に勝つためには力の投手がどうしても必要だ」とする西本構想もあって、三輪田の一位指名となったわけだ。「シュートを武器とする投手が巨人には有効」(西本監督)とすれば、この三輪田はうってつけ。183㌢、78㌔の恵まれた体から投げおろす速球、シュートへの期待は大きい。三輪田の加入は、長いことつづいたヨネ・カジ時代から、水谷、宮本らを中心とした若返りの投手陣へ動き始めたことを意味する。「テレビで一度見ただけだが、違い、を持っていたな。もちろん一年目から使うつもり。大学、ノンプロを出て、最初から登板できない投手はだめだ」とすでに西本構想に入っている。「10勝くらいは十分できる」と丸尾スカウト。「近い将来には阪急投手陣を背負って立つ投手になることは間違いない」と太鼓判を押した。常に栄光の道を歩いてきた。高校球界の名門、中京商時代からエースとして三度甲子園のヒノキ舞台を踏んでいる。三十七年の春夏、三十八年の夏の大会だ。三十八年は全日本のメンバーにも選ばれ、ハワイへ遠征した。早大入学後は二年の春から登板、二度の優勝を経験している。四十二年、卒業時には近鉄が一位にリストアップしたが、事情があってプロ入りせず、ノンプロ大昭和製紙へ就職した。大昭和時代は故障もあってほとんど忘れられかけた存在だったが、丸尾スカウトはあきらめなかった。通うこと八度。十一月の産別大会(後楽園)のピッチングで「九分どおり全盛期に戻っている」と一位にリストアップすることに決めたという。高校、大学、ノンプロを通じて真っ向から勝負してきた。速球で押し、シュートをずばり決める度胸のいいピッチングが売り物。精神的にもしっかりしており、少々のスランプにもくじけない気力がある。即戦力として阪急久々の本格派投手だ。