プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

池田英俊

2016-12-20 20:48:52 | 日記
1966年

宿舎中島旅館(下関市阿弥陀寺町)をでる前、体温をはかったら三十八度近くあったそうだ。新潟、秋田遠征(対産経戦=五月三ー五日)でひいたかぜがこじれて、コンディションは最低。試合前「三回でKOされるよ」とマウンドに向かった。しかし大洋はまた池田にひねられた。林のホーマーで三試合連続シャットアウトだけは免れたが、わずか三安打。まるでヘビににらまれたカエルのようだった。試合後の池田はやはり疲れがどっと出たといった顔つき。試合前と同じようにバスタオルを首に巻き、その上からウインドブレーカーを着るとボツリボツリと口を開いた。「六回ごろが一番しんどかった。しかし味方が3点先取してくれたし、八回の大量追加点で大洋にあきらめムードが出たので助かった」「かぜでからだがきつかったが、ほかの投手が巨人戦(十一、十二日)で投げつくしているし、前から登板予定だったので、四、五回まではなんとかがんばろうと思った。風があんなふう(左から右へ6・8㍍)だったので、シュートをかなり使った。それにスライダーもよかったね。林にホームランされたのはフォークボール。コースが真ん中寄りだったが、うまく打ったよ」対大洋戦の連続無失点をストップされた林のホームランでは、相手をほめてニヤニヤした。池田は昨年も大洋から6勝をあげているが、大洋に強いわけは自分でもわからないそうだ。「ただ大洋は大振りする打者が多い。ぼくはコントロールを身上にする投手。そのあたりになにかの原因があるのではないか」捕手の田中も池田の言葉を裏づける。「振りまわす大洋のバッターが、針の穴を通すようなコントロールの池田を打てるはずがない」この絶妙のコントロールは福岡高時代の基礎練習でつちかわれた。当時の監督だった前川さんが、三カ月間も投手板の2㍍も前から毎日投げさせ、一にも制球、二にもコントロールを強調した。池田は当時をふりかえって「いまぼくのコントロールがいいのは前川さんのおかげですよ。あのときは直球とカーブ以外の変化球は投げさせてくれず、おもしろくないと思ったがね」前日下関球場で練習後「初めて投げる球場だから、マウンドの下調べをしておかねばね。いきなりマウンドに立って高低が激しかったりすると、コントロールを狂わすからね」ただいまの首位の広島を引っぱる役のヒーローは、せん細な神経のもち主でもある。
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菅原勝矢

2016-12-19 23:00:56 | 日記
1966年

降りしきる雨の中、マウンドを引きあげてくる顔にうれしさがムキ出しだった。数本のマイクを突きつけられてしりごみし、とうとう1㍍以上もうしろへさがってしまった。「なにもかもはじめてで・・・。初勝利の気分といったってよくわかんないです」公式戦のベンチにはいって二日目。ナイターにも、神宮のマウンドを踏むのもはじめてだ。「調子がよかったんでいけるとは思っていました。はじめはあがっちゃったけど、長島さんや王さんが声をかけてくれるのがきこえたころからやっと落ちつきました。ストレートとシュートがよかった」まだ少しお国なまりが残っている語尾をのみ込んでは、声をはずませた。森はシュートのサインはひとつも出さなかったという。砲丸投げのような独特のフォームからナチュラルにシュートする球が大きな武器になっているのを知っていたからだろう。「ストレートを全体の八割は投げさせた。コントロールをどうのこうのと、いまは注文をつけなくてもいいだろう」と森はいう。多摩川のファームから送り出されたとき、中尾二軍監督からは「失敗してもともとだ、くらいの気持ちで思いきってやれ」とだけ注意されてきたそうだ。実家は農業。十一人きょうだいの九番目だ。秋田の鷹巣農林から農大へ進み、一年のとき東都大学リーグで3勝している。しかし、そのころからは鉄砲肩にものをいわせたストレート一本やり。カーブの投げ方は、プロ入りしておぼえたというかわり種だ。首脳陣に認められるきっかけとなったのは、昨年三月十六日、大津の対阪神オープン戦。石原(昨年退団)をリリーフして4イニングをノーヒットに押え、勝利投手になったが、このとき生まれてはじめて実戦にカーブを投げた。それも一軍を相手にするんだ、と中尾二軍監督にその十日前カーブの握り方をおそわったばかりだ。だが、この直後に肝臓病から黄ダンを併発してシーズンを棒に振ってしまった。長かったそのブランクが、菅原のシンの強さをつちかったようだ。ことしの一月はじめ、静岡県伊東市の日軽金の寮に渡辺、林、金田らと三週間の強化合宿を張っていたときだった。スタジアム裏の二百段以上もある急な石段をだれひとりとしてひと息に上りきれなかったが、それに菅原が挑戦してとうとうやりとげた。それも歯をくいしばって二往復したのだ。北国育ち特有のねばり強さというより、菅原にとってそれは病みあがりの自分への一種のカケだったかもしれない。イースタンでのことしの成績は十五試合に登板して9勝1敗。八十四回三分の二を投げて防御率は1・27。三十七度を越す炎天下で完投してもビクともしないスタミナがついてきている。小守トレーナーも「腹筋をやらせたらだれにも負けない。ウチでナンバー・ワンのスタミナの持ち主だ」とタイコ判をおしている。
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柿本実

2016-12-19 22:35:40 | 日記
1964年

西沢代理監督になってから二度目の完投勝ち。「あかんあかん。ホームランばかり打たれよって」口ではきびしいことをいっているが、顔はくしゃくしゃだった。かけ寄った近藤コーチにていねいに頭を下げ「前半シュート、後半スライダーを投げ分けたのがよかった。ホームランは二本ともシュートだった。小淵さんのは絶対打たれないと自信を持って投げたんだが・・・。低めを打ちよった。豊田さんのはコースがあまかったです」そう報告した。うれしそうにだまってうなずく近藤コーチ。西沢中日はこの柿本と権藤でしか勝ち星をあげていない。前日まで権藤が3勝、柿本が2勝だったからこれでタイ。試合前「ゴン(権藤)と二人で投げまくるさ」といっていた柿本が「一回に1点とったろう。スミ1といってスコアボードのすみに1がはいるとたいてい負けるジンクスがあるんだ。だから正直いってきょうはイヤな予感がした。それでもすぐ二回併殺くずれでなんとか点とってくれたからね。気は楽だったよ」いまではちょっと悪いとすぐ代えられるので投げていても落ちつかなかったそうだが、最近は「最後までのん気にほうらせるから、なにも考えずに投げろ」と近藤コーチにいわれているという。だから七回同点に追いつかれたときも「なんの気がねもなく打席にはいれた」と笑う。「バックに信頼されることが投手にどれだけ大事なことかいやというほどわかる」顔中汗だらけにして報道陣に応対している柿本のところへ西沢代理監督がやってきて「第二試合もほうれるようにしておいてくれ」とそっと耳打ち。柿本は「まかしといて下さい。この前の広島戦(28日・広島)のときより疲れていませんからね」と胸を張った。
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成田文男

2016-12-19 21:51:08 | 日記
1966年

初ものずくめでプロ入り初白星を飾った成田は、報道陣に囲まれてしりごみしていた。「前半はほとんど外角へ球がはいらず、醍醐さんにしかられしかられ投げたんです。だから近鉄打線は調子が悪いと思います。雨で試合が中断した四回からやっと落ちつきました」アゴをなでたり帽子のひさしに手をやったり、初めてのインタビューにテレくさそうだった。しかし歯切れのいい東京弁はよどみなくつづいた。「スタミナを考えているゆとりはなかった。ただ一回一回、第一打者を慎重にとることだけを考えていました」という。三十九年修徳高が東京都代表として甲子園へ出場したときのエース。昨年はイースタン・リーグで10勝6敗。最多勝投手になっている。しかし公式戦は、ただの二イニング、マウンドへあがっただけ。先発も完投もこの夜がもちろん初めて。ハワイ・キャンプでもパッとせず、帰国後、川口球場での練習で植村コーチからドロップを習い、一軍へ昇格した。今シーズンは、四月十二日の西鉄戦(小倉)から中継ぎとしてスタート、この夜が五度目の登板だ。雨で流れた後楽園(四月三十日)に中西コーチから「投げるかもしれないぞ」と先発をおわされたそうだ。だからこの日、試合開始三十分前に先発をいい渡されても「それほどドキッとしなかった」という。この夜の成田のピッチングは小山コーチに「直球、カーブとも申しぶんなかった。ワシに教えてほしいわ」と冗談までいわすほどのできで、満点をつけられた。「ブレーキのいいカーブのスピードが落ちて、直球とスピードがかわっていたのがよかった。外角で縦に変化するカーブをうまく生かしていた」とネット裏スタンドでみていた植村コーチ。内野席では父親三郎さん(50)が五時間前からそわそわしていた。五人兄弟の四男、都内足立区に住むきっすいの下町っ子。自宅へ帰ったあと、家族とビールの乾杯をした。「実はね、ふしぎなことがあったんです。球場へ出かける前に土居さん(スカウト)から電話がかかってきてお前が投げて勝った夢をみたというんです」乾杯のグラスを持つ手のひらは、東京でも一、二を争うほどの大きさだ。1㍍77、73㌔、右投右打。
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宮崎昭二

2016-12-18 22:00:58 | 日記
1963年

今シーズン二度目の一塁手橋詰が「チビ、落ちついて」と声援したが、尾崎の立ちあがりはよくない。一回五人の打球は全部ライナー性。そのうち安打になったのは二本。戸口の左前ライナーは張本の妙な守備でランニング・ホーマー、得点に結びついた。真正面にとんだのに、前進した張本はライトに目がくらんだが頭をかかえて逃げ、ボールはヘイぎわまで転々。その裏の梶本(兄)も悪かったスロー・ドロップを投げて目さきをかえたが、スピードは全然ない。一死後半速球を青野、西園寺に連続左翼ラッキー・ゾーンにたたき込まれ、先取点もフイ。先発投手の不できですべり出しは点のとり合いとなった。二回の尾崎は岡村、山口に連安打をくい、一死一、二塁のピンチ。梶本(兄)三振のあと衆樹に中前タイムリーされ、たちまち追いつかれた。水原監督は未練を残さずすぐ宮崎に切りかえた。その裏東映がうまい攻撃で梶本(兄)をゆさぶった。橋詰が左前安打、ラドラは三塁前に巧妙なセーフティ・バントして無死一、二塁。つづく安藤(順)が右前テキサス安打。右翼中田が足をとられてころぶスキに(記録は二塁打)二人生還して再びリードを奪った。そして四回、安藤(順)の左翼線二塁打を足場に二死一、二塁とし、梶本(兄)をKO、秋本の代わりばなを青野が中前安打して、3点差と開いた。宮崎はシュートとスライダーをコーナーに散らして好投。五回本屋敷、戸口に連安打されたあと中田の中犠飛で1点を許したが、六回以後は安藤(順)の好リードもあって、二塁を踏ませなかった。バックも七回三安打と敵失で3点を追加、宮崎の今シーズンの初勝利(昨年九月二十三日以来)を盛り立てた。東映はこれで首位南海に6・5ゲーム。

水原監督「一、二回に点を入れられてもすぐ逆転したのがよかった。梶本(兄)もよくなかったが、ここですぐうちのペースにのっていったのが大きい。ただ残念なことは前半に張本、吉田(勝)という中心打者が当たらなかったことだ。この二人が打っていればもっと早く試合を決めることができた。宮崎は七月二十八日の大毎戦で尾崎をリリーフしたときよりは悪かったが、よく低目に球をきめて押えた」
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益田昭雄

2016-12-18 21:32:18 | 日記
1966年

川上監督が大声をかけた。「おい益田、日米両方の優勝チームを相手にして大活躍じゃないか」ナインのオーバーなほめ言葉がこのあとにつづいた。「大リーグの優勝チームを完封するくらいだか来年50勝は確実だ」「南海がオレたちが完封されたのも無理はないといっているぜ」益田の応対は堂々としていた。「思い切って内角を攻めてやったんだ。みんなつまり、外角のシュートをひっかけていたよ。調子?南海をシャットアウトしたときと同じだった」自信がいかに大きな武器であるか。益田といえば、まるで気の弱い男の代表のようにいわれていたものだ。事実ブルペンではすばらしい球を投げながら、いざ登板となるとまるでダメになってしまうことが多かった。このため公式戦でも六回三分の一まで投げたのがことしの最高。ちょっとピンチになると気の弱さから、すぐくずれてしまった。シーズン終わりになったころ。「もう来年どこかにトレードされるんじゃないか」などと本気で考えていたほどだ。それが日本シリーズ第六戦で完封勝ちし「これでお寒くなっていたクビがあったかくなった」とすっかり自信をもち、自分のピッチングができるようになった。この自信には裏づけがある。夏場に二軍落ちしたとき「いつでもストライクをとれる。それも打者の打ちにくい球」(藤田コーチ)を身につけるために、徹底的に変化球のピッチングをやったことだ。このとき身についた球が、外角に落ち気味にきまるシュート。「苦しくなったらいつでもシュートを投げればいい。そう思うとほかの球も思い切って投げられるようになった」ということだ。この日、大リーガーを苦しめたのもこのシュート。「外角高めに投げたらおもしろいように大振りしてくれた。シュートの切れはこの前の南海戦よりよかった。打たれてもともとという気もあったから、別にかたくはならなかった」日本シリーズ、日米野球と大試合を連続完封勝ちしたいまは、もう気の弱さなどは、これっぽちも感じられない。「ど真ん中にもだいぶいってしまった。でも、見のがしたり、大振りしたりで、結局打たれなかった。ツイていたのかな。この前南海に勝ったときはほんとにうれしかったが、きょうもすごくいい気分だ」大リーグを完封した男も、公式戦で完投もなく、わずかの4勝。レギュラーと準レギュラーとはっきり区別されている巨人では、益田は若手専用の第二ロッカーしか使えない。来年レギュラー用のロッカーに昇格することは、確実になった。若手選手に囲まれたロッカーの中でホッとひと息ついていった。「よくおれがシャットアウトできたもんだな」自分でも二つつづいた金星を信じられないようだった。
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佐藤進

2016-12-18 20:25:48 | 日記
1966年

九回裏二死満塁、岡島の打球が峰の正面にとんだとき、二塁走者だった佐藤は三塁ベース手前で天を仰いだ。「また延長か」と思ったのは一瞬だった。スタンドのざわめきで悪投を知ったとき「はりつめていた気力が抜けて、一気に疲れが出た」そうだ。二十四日の阪神戦(神宮)では廿二回三分の二を一人で投げ抜きながら、バックが点をとってくれず勝てなかった。それだけにこの峰の凡失に佐藤は大喜び。運動会で一等賞をもらった小学生のようにバンザイをし、ぴょんぴょんとびあがりながらベンチへ引きあげてきた。佐藤はかざり気のない男だ。うれしければ手放しで喜び、判定などで不満があれば外人のようなオーバーなゼスチャアで抗議をする。試合前「腹が痛い」と下腹部を押えていただけに、前半は下半身がガタガタでへばったそうだ。「シュートはよくキレたけど、なにかピリッとしなかった。五回の一死満塁が一番苦しかったね。あれを切り抜けてからは楽だった。九回の一死満塁?杉本の代打に伊藤が出てきて、かえってこっちは助かったよ。スタミナには自信があるんだけど、このまえ十二回以上も投げたときより疲れたのはなぜかな。練習のしすぎかな」顔がマラソンの円谷選手に似ているわけでもあるまいが、スタミナではチーム一。飯田監督はその原因を「練習を人一倍よくやるからだ」といった。この暑いのに、試合前の練習ではいつのユニホームのズボンをモモヒキのように長くして内、外野で打球を追って走りまくる。それが実に楽しそうだ。「汗をたっぷりかけばぼくは投球練習などほとんどしなくてだいじょうぶなんだ。とくに暑い夏は大好きだ」夏が好きというだけに完封勝ちは昨年八月以来。だがそれをいわれると「この前の阪神戦(二十四日)でやってますよ」と目をむいた。勝利投手にはなれなかったが、完封したというわけだ。「バックが点をとってくれようとくれまいと、投手は相手に点をやらなければいんだ。ことしの目標は防御率を2点台すれすれにすることだ。きのうまで2・27だったから、これでベスト・テンにはいるんじゃないかな」完封勝ちしたことよりそっちの方がうれしそうだった。
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足立光宏

2016-12-18 20:05:23 | 日記
1966年

六回までだが、東京を二安打に押えた足立は対東映戦(五日、完投)より悪かったという。だが伊勢川スコアラーの見方はまるで逆だった。「速かった。一試合ごとにスピードが出ている。いままでカーブが六割くらいだったが、きょうは直球で勝負していた」この日、これまでのカーブ主体の投球から速球に切りかえたのは速いだけが理由ではなかった。「マウンドに立っていると、右翼から吹き抜ける風が耳元でうなっている。肩口からはいるカーブ、これにちょこんとバットを合わされると、それだけでスタンドまでとぶからだ。だがらシンカー、スライダーを多く使った」足立が一番恐れたのは風にのる長打。西本監督、青田、真田コーチらにつぎつぎに手を出された足立は、六回の中田の本塁打を例にあげた。「ナカさん(中田)の本塁打だってカーブだ。悪い球ではなかったが、毒島は風にやられたんだ」六回、阪急の攻撃が終って、降雨コールド・ゲーム。真田コーチはたばこをふかしながらトイレに走った。「どうや、足立はよくなったやろう。石井茂、足立。そのうち米田のピッチングもお目にかけますが、びっくりするようによくなっているよ」真田コーチも満足そうに顔をくずした。「これまでウチが苦しんだのは投手陣がそろわなかったからだ。よかったのは梶本一人。これではどうやっても勝てないよ」真田コーチが投手陣の調整で一番頭を痛めたのは足立だ。寒さ、湿気。一昨年から右肩を痛めている足立にはそんな大きな強敵がある。「肩は心配いらないという状態ではないが、いまのところ痛みはない。自分でもこんなに早く三つも勝てると思わなかった。これから暖かくなるし、これ以上よくなっても悪くなることはないだろう」真田コーチが喜ぶのもそのへんに理由があるのかもしれない。「これから米田、石井茂、足立、梶本、柿本、それに秋本。いつでもこの中から五人の完投投手をそろえてみせる」西本監督とロッカーにひきあげる真田コーチはきっぱりこういい切った。
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若生智男

2016-12-18 19:23:35 | 日記
1964年

目をこすり、カメラのフラッシュに顔をそむけた。光りが目に痛いからではない。涙がこらえきれなくて、若生は低い声を出した。「話をするのはあしたにしてくれへんか。胸がいっぱいで目の前がかすんでしまって、なにをいうていいのかわからんのだ」逃げるように走ってバスに乗ると、大きなバスタオルに顔をおしつけて静かに泣いた。バスのなかで、代わってしゃべり続けたのは藤本監督だった。「オレは若生が必ず勝つと思っとった。ゆうべあした投げいというたとき、オレは何点とられても最後まで代えないから思い切ってやってこいというたんだ。なあスギさん」ゲームの前夜杉下コーチはなにげない顔で若生の部屋にはいっていって一時間半も長話をした。大毎時代の一昨年若生が最高の15勝をマークしたとき、初白星は五月なかばだったこととマウンドに立ったら人のよさを忘れて鬼のような気持ちにならなければいけないのだ、ということも話して聞かせた。頭をすっぽり包んだまま若生はバスをおりた。「いままでは出るたびに打たれた。投げても投げてもいい結果が出ない。もう勝てないのかと思ったこともあった。それにトレードで騒がれて阪神に移ってきながら勝利投手になれないきまずさ、それだけなんとかしなければと必死だった」勝利の喜びを味わったのは昨年の五月三日(西鉄戦)以来一年ぶり。完封は三十五年十月二日の対東映戦(当時大毎)以来四年ぶりだ。「マウンドからおりてきてみんなに拍手されたり手を握ってもらったろ。わけのわからんほど感激しちゃって声がノドをとおらなかった。ヤマさん(山内)が甲子園で初めてホームランを打って泣いたときと同じ気持ちじゃないかな」この夜西宮市甲子園の自宅では結婚前東京オリオンズのウグイス嬢だった美知子夫人が長女の妙子ちゃん(一つ)と初勝利をやはり泣きながら喜んでいた。
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佐々木吉郎

2016-12-18 11:18:38 | 日記
1966年

大洋はこの三戦目を落とすと6連敗。ゲーム前のベンチの動きはなんともいえない暗い感じがただよっていた。一、二戦は攻守ともにチグハグで、打線は全員大振りするだけ。なんの策もなく、池田、大羽の軟投にかわされた。また守備も長田が深い守りで投手の足をひっぱるなど最悪だった。そんな中で登板した佐々木は、ブルペンでの調子がよかったからだろうが、見た感じでは球は速いが、高め球が多く、コントロールもいま一息という感じだった。四、五回もてば小野のリリーフだろうと読んでいた。三原監督としても、いつこのリリーフをさすかが、五回ごろまでは常に頭からはなれなかったと思う。小野は一回から投球練習していた。が、なにがなんでも勝たねばならぬと、追いつめられた空気を背負って立った佐々木の緊張した顔は、いままで見たことがないほどすごかった。一回から全力をあげ、投球に一ブのスキもないという態度で、球は速く、それに実に伸びがあった。九回まで内野ゴロ二つ、あとは全部フライということが示すとおり、広島打線は全部といってもよいほど振りおくれていた。とくに好調な山本一、大和田、興津に対しては、内角低めへストライクを決め、まず有利な立場に立ち、スローカーブ、スライダーなどの変化球を両サイドに決めていた。ノンプロで名をあげた投手だが、長い間苦闘したあとで、しかも大記録を打ちたてたことは、大いに敬意を表する。見たところ、まだまだ好調時のからだではなく、ぜい肉がついている。これから大いに走り、投げ、早くかつても好調時のからだにかえるよう、努力してもらいたい。からだに故障がないのだから、投げ込んでいけば十分活躍できる。不調の大洋投手陣で、突然とはいえ最高の投球をしたことは、全員に与える影響は大きい。投手陣が立ち直れば、打線も徐々に息を吹き返すことだろう。ストライクをとって終始カウントを追い込んでいたことがよく、最後は速い高め球で勝負していた。これにまんまと広島打線はひっかかり、内外野へフライを打ち上げた。佐々木の投球は、両サイドへもよくきまっていたが、とくに高低のコントロールがよかった。低めで攻め、高めで勝負するという佐々木のコンビネーションに、広島は全員といっていいほど押えられていた。
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佐々木吉郎

2016-12-18 01:24:58 | 日記
1966年

八回も三人に打ちとって佐々木が帰ってくると、ベンチはさすがに興奮してきた。「打たれりゃあ、しようがないさ」となぐさめるのは近藤昭。「こんなときにはそう打てるもんじゃないぞ」と励ましているのは金光。別所コーチはそんなナインに「守備の方を頼むぜ」とうわずった声で念を押した。佐々木は奥のイスにすわったまま目グスリをさした。四回にも一度はずれたコンタクトがどうもしっくりしないらしいが、またそうでもしないとジッとしていられないようにもみえた。やがて味方の攻撃も終わり、最後の三人と向かい合うときがきた。ベンチのヤジもすごい。三原監督までがメガホンにしてわめきたてた。ついにあと一人になり、その阿南も右飛に終わった。もうグラウンドは人でいっぱい。佐々木の額に一度にあかみがさした。「一番緊張したのは八回ですね。九回はそれほどでもありませんでした。はじめは気がつかなかったけれど、五回ごろからベンチの人たちが記録のことを教えてくれました。警戒したのは大和田。七回に1-3になったときはとてもいやでした」こんな言葉が、突き出された何本ものマイクに吸い込まれるように、とぎれながらつづいた。昨年は1勝もしていない佐々木。三十九年九月の対巨人二十八回戦以来の勝利がつくった大記録だった。プロ入りしたのは四年前の三十七年。この年阪神と優勝を争っていた大洋が、優勝と日本シリーズの切り札にと、ノンプロ日本石油からとったエースだったが、期待はずれに終ってしまった。ノンプロ界の最優秀賞「橋戸賞」をかかえての堂々たる入団。だが、ライバル城之内(日本ビールー巨人)にもグングン離されてしまった。その原因は右ヒジの故障。三十八年の草薙キャンプ中、サーキットで痛めた右ヒジは、速球が武器の佐々木の足を「数え切れないほど引っぱった」そうだ。負担はまだあった。どんなに食事をへらしても太ってしまう体質。しかも異常なほどの汗っかきでもある。プロ入りしてナイターを経験するようになると、目もどんどん悪くなった。三十九年入団してきた別所コーチの一つの課題は、この傷だらけの男をなんとかプロで一人前の投手にすることだった。「このことを一番喜んでくれるのは?」佐々木はすぐ答えた。「別所さんでしょう」心機一転の意味もあって昨年十一月、結婚したばかりだが、愛妻の月子さん(23)のことはひとことも口に出さなかった。キャンプでもブルペンでもつきっきりで投げさせたばかりか、精神的にもいろいろのアドバイスをし、ついにその右ヒジの痛さまで忘れさせた?別所コーチ。その熱意にやっと報いられたということが、興奮した頭のなかにも真っ先に浮かんだらしい。球場玄関では栄光の投手をひとめみようというファンが約千人もつめかけていた。白いヘルメットの警官がでたが、ささえきれない。つい佐々木はナインと離れ、広島県警のパトカーで宿舎山雅(市内上柳町)へ護送されるわけだ。「おめでとう」「おめでとう」仲居さんたちが握手がわりに背中をたたくのを、うれしそうに首を縮めながらよけた。二階の自室へあがると、同室の稲川がさっそくこんな知らせをもってきた。「オレたち投手陣が積み立て金(おもに罰金の積み立て)から、金三万円なりをお祝いに贈ることになったよ」その積み立て金には、かなり出費しているはずの佐々木だけに、ほんとうにうれしそうな顔をした。だが大喜びのナインのなかで、たったひとりだけ妙な顔があった。この試合のほんとうの先発だった小野。広島が必ずアテ馬二人を出して相手投手をうかがうのをみた三原監督が、小野の前に左打者を出させようとしたのが佐々木先発の舞台裏だった。だから佐々木の予定は一回で、二回からは小野に投げさせるはずだった。「次の回か、その次の回かと思いながら、とうとうブルペンで完投しちゃった。百五十球は投げたかな。ビックリしたな、もう」と小野はポカンとしていた。完全試合投手も、いわば投手のアテ馬だったのだ。
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久保征弘

2016-12-17 18:30:54 | 日記
1964年

試合前の近鉄ベンチ。加藤マネが報道陣に向かっていった。「このシリーズはきっと勝ち越すよ。近鉄旋風再びまきおこるくらいの見出しをつけてもらわにゃ」試合が終わると久保がカメラマンの注文にポーズをとりながらしゃべる。「きょうはファースト・ストライクのコントロールがよかったね。6点ももらえば楽や。このところ完投してなかったから最後はちょっと打たれたけど。二回くらいからボールがよう切れたわ」四月四日の対東京一回戦に3-2で完投勝ちして以来四十日ぶりにひとりでマウンドを守り切った。色が白く女性のような首すじに玉の汗が流れる。つい最近の平和台遠征で福岡・板付空港へ久保を見送りにきたある女性ファンがいた。ところが久保は翌日の汽車で帰ることになり、空港にはいかなかった。その女性ファンは目ざとく徳久をみつけ近づいてきたが、浅黒くせいかんな顔つきの徳久に「久保さんは?」とたずねただけで素通り。遠巻きに徳久をながめていたこの女性ファンの会話を盗み聞いたナインから「久保さんの方が色が白くてやさしそうバイ」としらされた徳久はくさったそうだ。その久保が真っ白なからだにバスタオルを巻きつけ「鈴木正に打たれたのはシュートのかけそこないや」と静かに話したあと、フロへはいろうとすると鈴木正が湯気をたてながら出てきた。「内角へ沈む球が久保の武器だった。二打席目にその球を二つつづけられたから、八回のときはホームベースからはなれてたんだ。そこへスライダーがきた。外角球と思ったが・・・。とにかく久保は高めのボールが多いので打てそうで打てない。フォームがクネクネして女性的なピッチングだしね」久保はその女性的なピッチングでこの日6勝目を完投で飾ったことになる。
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菅原勝矢

2016-12-17 18:02:30 | 日記
菅原勝矢投手

・「不器用」ということばは、この人のためにあるのではと思うほどのっそりと、そしてモノにとらわれなかった。
1972年、7月4日、札幌円山球場の夏はぬけるような青空が広がり、東京の梅雨が信じられないほど爽やかだった。
首位・阪神との攻防は巨人のリードで9回表、一死一塁と大詰めを迎えていた。先発の菅原は力投していた。川上監督の期待どおりであった。この年、開幕からローテーション投手の高橋一と渡辺が不調で、堀内ひとりの投手陣の中にあって、救援として開幕1か月で5勝をマークした菅原は、まさに救世主となった。
救援から先発に堀内との2本柱までに成長した菅原だから、巨人ベンチ、スタンドの巨人ファンも「あと2人で終わり」と読んで、見守っていた。
ネット裏では「これで、巨人は首位の阪神に2ゲーム差に迫った」と記者たちがソロバンをはじく。阪神の攻撃、安藤の当たりはライナー性であったが火を噴くほどの鋭さではなく、かわいたグラウンドに跳ね、ツーバウンド目で菅原のグラブの方に飛んでいった。「しめた。ゲッツーだ!」
菅原はそう思ってグラブをさし出しながら、2塁方向に顔を向けた。だが、菅原がさし出したグラブの横を生きもののようにすりぬけて、打球は菅原の左目の方にすごい勢いで飛んできた。
「あっ!」
菅原はうめいて倒れると、手で目を覆ったが、その間からは真っ赤な血がしたたり落ちた。
長嶋、王が
り寄ってきたとき、菅原は体をふるわせていた。いつもなら「お前は
オーバーだからな」と気にもとめない長嶋も、異常なうろたえ方に事の重大さを知った。マウンドから病院へと「ツキ男」が去るとともに巨人は逆転負けを喫した。その夜、菅原の親友、阪神の江夏が見舞いに来たが病院の先生が、そっといった。「江夏さん、目を14針縫ったのですが、菅原さんには4針といってください。本当のことをいうと相当にショックですから・・」
江夏はそのとおり、菅原に伝えると、なるほど菅原は地獄で仏に遇ったようにホッとした。
それでも前半戦2位で折り返した巨人の、巻き返しの主役として後半戦11試合に登板し、自己最高の13勝をマーク。巨人Ⅴ8に貢献して見事なカムバック成ったか、と思われた。
ところが、首脳陣は気になっていたことがあった。左目の視力は0,3まで回復しながら、菅原は自分の近くに打球がくると目をそらし、「カン」だけで捕るようになってしまったのだ。打球が怖くなった彼に自信をつけさせようと、いやがる菅原をひっぱり出して守備練習が行われていたが1973年、6月27日、多摩川で中尾コーチからノックを受けていたとき、目をそらす悪いクセが出て、左頭部に打球が当たって倒れた。病院での診断は「頭部打撲の外傷」が認められた。激しい目まいに顔をゆがめ、ランニングをしていても途中でやめる。チームメイトは「ケガに負けたらおしまいだ。なにくそという気でやってみろ」と激励をしたが、だめだった。菅原のプロ生活は1973年限りでピリオドが打たれた。33勝8敗、勝率808が彼の通算成績であった。
菅原の母校は秋田県・鷹巣農林高校というスキーでは有名も野球では知る人もない無名校。ここでエースとして投げ、農大に入学したが、「好きな野球をやるのならいっそ、プロで・・」と、大人しいわりには思い切りがよい選択だった。
平凡に進んでいれば営林署で秋田杉の管理でもしていた男が、145キロ台のスピードボールを投げる能力があるばかりに、プロの門をたたいたのである。
4年目の1967年、速球とシュートを武器に11勝をあげ、翌68年は4勝、69年にはパッタリ勝てなくなった。当時のチーム内では堀内にもヒケをとらないほどの速球を持ちながら低迷する原因を「気の弱さ」と見た巨人首脳は1972年、キャンプでの同室に王を組み入れ、お精神力の向上を図った。そしてグラウンドでは長嶋に声をかけられる。「お前は、威力のある球を投げられるのに、一つだけ違うのは考えすぎなんだよ。野球なんて、そんなに難しいもんじゃないんだ」
自己主張の強い投手が多い中で、菅原ほど「ひっこみ思案」な性格も珍しい。東北なまりのせいもあるが、彼の口を開かすのに苦労した記者は「菅原を記事にするのは大変だ」と苦笑したものだった。
1971年、9月7日、参考記録ながらヤクルトを相手に7回を降雨コールドながらノーヒット・ノーランをマークした。そのときも「もし雨でなかったら大記録を作っていただろうな」と水を向けられ「いえ、とんでもない。あの辺が限度。負けないでよかった」と欲のない答えが返ってきた。
巨人を去る時、目の治療費でモメたこともあって散りぎわの華やかさはなかったが、「捨てる神あれば拾う神あり」で、菅原はⅤ9監督の川上企画に就職し、少年野球を指導するようになった。現役時代の真面目な性格が川上監督から評価されたのだが、菅原は少年たちに手とり足とり指導しながら、何度も強調した。
「みんなプロのカッコいいプレーばかりを真似てはいけないよ。基本が一番大事なんだ。ゴロが飛んで来たら最後までボールから目を離しちゃだめだ。おじさんは目を離したために、プロ野球選手をやめなければいけなくなったんだよ」
菅原が教えた少年たちは、何の邪心もなくひたすら白球を追っていった。いわれた通り、じっとボールから目を離さないで・・・。
そして今「1984年」。菅原がユニフォームを脱いで早くも10年が過ぎた。
ことし、開幕前の多摩川の練習場を菅原は訪れた。同時期に巨人に入った堀内が投手コーチに就任したことで、その働きぶりをのぞきたかったようである。かたや堀内は、王巨人の露払い役、かたや菅原は自動車のセールスマンなどをして社会の荒波に打たれながら、必死に生きている。
「野球をやめてから、プロ選手であったことがいかに幸せかがわかる。それにしても、いまの若い選手は堂々としているなあ」
20年前、おどおど練習していた自分の姿を思い浮かべたのであろう。菅原が見つめる先には、槇原や水野の姿があった。
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李源国

2016-12-17 17:55:07 | 日記
1966年

東京・永田会長が韓国からスカウト、呼び名問題などで話題をまいた李源国投手(18)=1㍍85、82㌔、右投右打、ソウル中央高出=が、一日のイースタン・リーグ対東映戦(東京)ではじめて投げ、初勝利をあげた。七回で被安打七、一ホーマーの2失点。李は「自信はあったが、やはり堅くなった。スピードもなかったし、フォームを完全にマスターしていないため、カーブも悪かった。船渡のホームランはスライダーがすっぽ抜け、内角高めにいってしまったもの。まだまだ不満足」といっていた。一週間前に純粋なオーバースローにかえたばかり。フォームもぎこちなく、東映・多田コーチは「スピードもカーブのきれも打者にこわさを感じさせない。まだ未完成」ときびしい見方。濃人二軍監督も「東映がボールに手を出さなければ、もっとゆさぶられたろう」といいながらも、どんどん使っていく方針だ。
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石戸四六

2016-12-17 14:27:34 | 日記
1966年

六日の朝、郷里の秋田・大館の実家でそったヒゲがもうだいぶのびた。そんなヒゲの男が試合前にいつも忘れず、ていねいにお化粧? をする、といっても商売道具の右手人さし指と中指のツメだ。バンソウコウを二、三枚はってから、マニキュアをぬるように水バンソウコウで手入れをする。秋田の広島戦ではニシキを飾るどころか、三回途中でKO。それを聞かれると「くにだからね」とヒゲづらをなでてニヤニヤ。秋田は酒どころ。おまけに石戸はチーム一の酒豪。朝まで降り続いた冷雨に調子を合わせて、ついつい量を過ごしてしまったのだろう。「この借りはすぐばんかいしなきゃね」特別にナインより一日遅れの六日午前の飛行機で帰京する前に、気分一新ヒゲをそってきた。あとは、ビールを半分しか飲んでいない。六日の夜は九時半に床について、この日予定のリリーフにそなえた。だが試合後の話は、九回の決勝タイムリーの方が先だった。「内角低めのシュートだったね。2球シュートできたから、また同じ手でくるだろうと、きょうは特別ヤマをかけたんだ」今季初、プロ入り五年目で三本目というヒット。打点はもちろん初めてだ。「ぶつかっても塁に出れば、つぎの丸山が打ってくれると思ってね。必死だったよ」秋田商ではクリーンアップ。「最近は練習をしていないんだが、打つ方はピッチングより好きだ」そうだ。勝越しのチャンスに石戸を迎えたとき、飯田監督の脳裏にひらめいたのは、二軍時代の石戸だった。「四六はイースタンではよくいい場面で打ったものだ」ちなみに三十九年のイースタンでは31打数、9安打、9打点の活躍ぶり。本業の話はつけたしだった。「七回満塁でリリーフしたとき、最初はちょっとボールの切れが悪かったので、自信はあったけどいやだったね。吉田勝に打たせた遊ゴロは真ん中に沈むシュート。内角に落とすつもりだったので、ちょっとヒヤッとしたよ。でも九回裏は2点リードしていたし、ONがいようと平気だったね」これで巨人にはプロ入り2勝目。それでもいまの調子なら、勝ってあたりまえといった口ぶりだ。ロッカーにもどると、ツメの化粧だけは忘れずにやっていた。
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