プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

田中勉

2016-12-17 13:31:53 | 日記
1966年

ことしでプロ入り六年目。三池工をでて三十三年東洋高圧大牟田にはいり、三年間ノンプロのメシを食った。三十六年八月西鉄に入団すると、真っ赤なハートに矢を射込んだ図柄のシャツを平気で球場に着てきて、ナインをあっといわせた。その年、1勝もしなかったが、十二月には八重子夫人(27)と結婚、長男昌典ちゃん(4つ)が生まれた。「まだ投手として海のものとも山のものともつかないのに、このごろの若いものは勇気があるね」藤本球団部長は、こう感嘆した。典型的な戦後派の青年のうえに、滅法向こう気が強い。絶対に逃げのピッチングをしない。「生まれながらの投手」と河村英文氏も舌をまいている。20勝投手の素質をもちながら、それだけの成績を残せなかったのは、昨年までシュートを使わなかったから、と同僚たちはみている。ことしはそのシュートをふんだんに使ってピッチングが豊かになった。「南海、東映の左打者に対して実に効果的にシュートを使っている。おそらくきょうもこのシュートがすばらしかったのではないか。なにしろブルームなんかにも五球も六球も平気でつづけて攻めるあたり、常人にはとてもできるものじゃない」と河村英文氏はいっている。ピッチング同様、ことしの田中は人間的にも成長した。八重子夫人も認める。「ことしの主人はかわりました。一昨年、昨年と調子が悪かったのでもしことしもダメだったらクビがあぶない。オレにはお前たちがいるのだから、がんばらなければ・・・とよくいっています。やっと欲がでたのでしょうね」評論家からもだいぶたたかれたが、ことしはだれもが「20勝、あるいはそれに匹敵する働きをきっとする」と、採点がいい。田中にはかわった趣味がある。転居ずきなこと。現在の家(福岡市下長尾)に落ちつくまで五度かわっている。車の趣味もたいへん。いまあるクラウンは六台目。暇さえあれば手を真っ黒にしていじっている。夫人からみた田中は「一に子供、二に車、三、四がなくて五番が私」ということだそうだ。遠征からの帰りには、昌典ちゃんと七か月の京子ちゃんにおもちゃをかかしたことがない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

若生智男

2016-12-17 13:07:57 | 日記
1966年

グローブをたたいて喜んだあとに「これでいいんだ」というつぶやきが何度もつづいた。「仙台でサカナ屋をやっているおやじに初めて勝利投手になった姿を見せた。おやじはスタンドでニコニコ笑ってくれたよ。うれしいのはそれだけじゃない。これで来年こそチームのローテーションにはいって投げまくる自信をつかんだんだ」この一ケ月の間にナインを驚かせながら6勝した。その間の防御率1・21で完封二つ。この日で4連勝。しかしこの快調なピッチングが始まる一か月前は、シーズン後の首になったときの生活を考えたこともある。「1勝しかしていなかった前半戦の成績じゃ、球団だってなんというかわからない。でも考えれば考えるほど、オレは野球で生きていくしかないということに気づいた。だから残されたチャンスに、もう一度やれるだけやってみようと思った」この日は8三振をとって被安打4。藤本総監督は「これが若生のほんとうの力だ」といい「これで来季は第三の投手についてうるさく聞かれなくてすむ」と笑う。「ストレートのサインを出して真ん中にミットを構える。するとすごい速球がぎりぎりのコースにグンとのびてくるんだ。フォークボールもあればきわどいコースに生きる大小のカーブもあるというのは捕手の辻佳。若生は、すばやく着替えをすますと古川コーチにいった。「今夜は大いばりで家へ帰ってきます。あしたは八年前に死んだおふくろのお墓参り。きょうのピッチングをおふくろに見せられなかったのが残念だな」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

半沢士郎

2016-12-17 12:47:27 | 日記
1964年

金田二世とか金のタマゴともてはやされ、若手の人気者にのしあがった半沢にも悩みはあった。眠れない夜がつづいたのは三週間ほど前の広島遠征のときだった。期待されたわりに勝ち星がのびず、たったの2勝。しかも原因不明のゲリに悩まされた。ホオがげっそりとこけ、体重が80㌔を割った。「あのときは本当につらかったな・・・。投げるとき、腕はちぢんじゃうし、からだがだるくて腰の回転がスムーズにいかなかった」こんな半沢にラッキーだったのはジュニア・オールスターが終って、二十三日の休養日を芦屋の宿舎竹園で一日たっぷり寝て暮したことだった。「最初のうちあまり調子よくなかったのは寝すぎて、からだがシャンとしなかったことと相手が村山さんで必要以上に力がはいってしまったためだ」六月十三日の対阪神十二回戦(甲子園)で村山と投げ合って負けたことが、いまでも心にひっかかっているそうだ。「村山さんに勝ったことが一番うれしい。小さいころからの夢だったものな。後半汗をたっぷりかいたので、思いどおりのピッチングができたのもよかった」たったの五安打におさえ、初の完封勝ちをマークした半沢は、その喜びをからだ全体であらわした。十一文半という大きな足がリズムをつけておどる。顔は笑いでいっぱいだった。「はじめての完投だったけど、しんどいだろう?」という報道陣の質問にはニヤリと笑って答えた。「全然疲れませんね。だってぼくはまだ若いんです」百七十二球も投げつづけたことをあっさりかたづける。まだ十九歳になったばかり。1㍍86、86㌔、超大型投手が自慢するのは若いということだった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

板東英二

2016-12-17 12:31:34 | 日記
1966年

リリーフ専門の板東には、今シーズンまだ休養がない。いつでも投げられるように、ブルペンで調子をととのえておかなくてはならないからだ。だがこの日は「まさか・・・」と思っていたほどの早いリリーフだった。試合後、まっさきにとび出した近藤、坪内コーチに迎えられた板東の第一声は「ほんとうに苦しかった」だった。「ケンさん(小川)がすごくよかったでしょう。だから監督さんもこのゲームはケンさんにまかせたんだ。そのため投げ込みが少なく、マウンドにあがってもスピードはなかった。それにしてもツイていたな」というのは七回表一死満塁に打者が投手の中村だったことと、巨人のとった強攻策だった。板東がマウンドにあがってまっさきに考えたのはスクイズ。投げ込み不足のためボールは走らず「こんないい試合に押し出しではみっともない」(板東)から思い切ってコーナーもねらえない。たとえツー・ストライクをとっても、あくまでもスクイズが頭からこびりついて消えなかったのはそのためだ。「バントされたら絶対にゴロになったんだろう。思い切って真ん中に投げたんだけど、打ってくれて助かった」ベンチ裏の長イスにグッタリもたれかかりながら、まだ七回表の場面を思い出しているのが汗が休みなくしたたる。柴田のいい当たりも右翼真っ正面にとんで、みごとに切り抜けた。「柴田にはいつも痛い目にあっている。フル・カウントになったらこっちの負けだと思って、目をつぶって真ん中へ投げ込んだ。やはり性根のはいったボールがいいね」いかにも気力で押し通す板東らしい言葉だ。最近広島戦(六月三十日)巨人戦(三日)とリリーフで打ち込まれているだけに、この試合は会心のリリーフができてうれしそう。おまけに八回裏には、二死一塁に死球の木俣をおいて放った右中間の大二塁打がそのまま決勝打につながった。先発投手は試合前にバッティング練習をするが、リリーフ投手はほとんどバント練習だけ。「一年に三、四本しか打てないボクが二塁打するんだから、中村もツイてないね」と盛んに同情する。中村もこの試合に備えて、試合前は森と三十分も相手打者の研究。だが、どうしても板東の名前だけは出てこなかった。八回、板東を迎えたときにも多少の油断はあったかもしれない。「木俣に死球を与えたからって別に関係はないんだ。打たれたのは真っすぐ。スライダーを投げていればよかったかもしれないな。それにしてもよく打ちよった」と中村はわるびれないようす。だが板東も、ちょうど一週間前には同じ場面にあっている。三日の対巨人戦(後楽園)で城之内にホームランされたときは、一瞬、なにがなんだかわからなかったほどの放心状態で、宿舎へ帰ってから急にくやしさがこみあげたそうだ。そのお返しをりっぱにこの試合で果たした板東は、八回の場面をこう説明した。「木俣の死球は関係ない。ただ投手に対してはあまり速い球は投げられないもんだよ。だからぼくは最初から思い切って引っぱってやろうと思っていた。それにしても中村は、2-2までほんとうにいいコースへ投げてきた。打ったのは真っすぐだったとしか覚えていない」もう振らなければ三振という追いつめられた気持ちから打った決勝打。リリーフしたときの緊迫感と気力がそのままバッティングにもつながっていたようだ。これで五月十六日勝って以来、つづけていた4連敗に終止符を打った。「きょうは勝ててほんとうによかった。ぼくは先発投手ではないから、あとは先発投手が巨人戦でもっとがんばってもらいたい。ぼくもあすからまた出直しだ」板東にはあくまでも休養はなかった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

菅原勝矢

2016-12-17 10:32:03 | 日記
1967年

まるで巨人の本拠地・後楽園球場と錯覚をおこすほどの大カン声が、暗ヤミの甲子園球場の場外でわき上がった。この夜誕生した新しい英雄の姿を近くでみようと巨人ナインを乗せたバスを待っていたファンのむれからだ。「先発を知らされたのは、きょう芦屋の宿舎から球場へくるバスの中でです。藤田さんからきょうはおまえでいくと大声でいわれたときはビックリしました。だけどみんなに思い切り投げてみろとはげまされたのでハラがすわっていたから、自分のペースで投げられました」ニキビ面を吹き出る汗をふこうともしない。最初はすこし興奮気味の口調だったが、すぐおちついてしゃべり出した。王からもらったウイニングボールを宝物のように、大事に汗まみれのカッターシャツにくるんでビニール製のバッグにしまった。「よかったのはまっすぐ。これが思いどおり低めにきまりました。それに小さなカーブ。スライダーも効果的でした。阪神打線は初対面だけにどこかウイークポイントかわかりませんでしたが、徹底的に速球で押していったのがよかったです。ワンヒットで押えるなんてボクには上出来すぎました」試合中、三塁の長島から絶えず激励の声をかけられ、藤田コーチからも腕が下がらないようにと注意されたのが、今季初登板初完封できたおかげだという。これがプロにはいり2勝目、初勝利(昨季八月二十一日対産経十八回戦)も完封勝ちでうちの大物(藤田コーチの話)の片リンを見せていた。無名の秋田県鷹巣農林高出身。農大二年生の夏、青木スカウトにその速球を買われて巨人入り。ことしで四年目。四十年の秋に肝臓障害を起こして約半年を棒に振ったが、東北人特有のねばりで闘病生活に勝って再起した。ことしの宮崎キャンプをつぶさに見た杉下茂氏は巨人投手陣に老人現象のきていることをそのキャンプルポ一投両断で鋭く指摘。「巨人3連パの問題点は首脳部が、いつベテランから高橋一、菅原、渡辺、堀内、それに城之内と金田をからませた若返り態勢に切り替えるかだ。この若い投手陣の中心の整備ができたら、巨人は進撃を始めるだろう」と予言していた。そのことばどおり投手陣を整備した首位巨人は、二位大洋にアッという間に4・5ゲーム差をつけて独走態勢にはいった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山本英規

2016-12-17 10:13:14 | 日記
1963年

ことしの高校選手でプロからマークされた三塁手が三人いた。阪神入りした千葉商・江田、大洋入りを伝えられる銚子商・田中、それにこの山本。山本は甲子園で二試合に二安打しただけ。1㍍75、80㌔と恵まれた体格で打ちまくった予選(四割二分)から見ると、あまりにもものたりない成績だった。周囲の騒ぎすぎから、山本が力を必要以上に発揮しようとして堅くなったためだろう。しかし、西鉄の中西に似て大きなおしりをプリプリしながらボックスにはいる山本からは、大学級の威圧感を感じた。球あしの速い打球は、ボールを呼びこんで強引にフルスイングできる強いリストと、柔軟な腰から生まれるものだ。ホーム・プレート近く立つスタンスの位置もいい。ただ甲子園では、外角球のポイントこそうまくつかんでいたが打とう、打とうという気持ちが先に立って内角球につまっていた。堅くなって腰の回転がにぶったようである。問題はスピーディな動きに欠ける面のあることだが、これからの練習次第でおそい足もある程度解決できるだろう。守備もまずまずだ。それ以上に長島や王らのスターとせり合ってもかんたんにはひきさがらないと思われる根性を高く買いたい。山本はプロ向きの選手である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中井悦雄

2016-12-17 09:43:43 | 日記
1963年

中井のピッチングを見て驚いた。どうしてこんな投球内容で4連勝できたのだろう。中日の江藤は「こわいもの知らずですよ。1-2とか0-1と不利なカウントから、平気でど真ん中へ投げ込んでくる」とぼやいていた。つまりこの夜の中日各打者は、初めて顔をあわせた中井の配球にどまどってしまったようだ。それでも前半は毎回走者で、中井が零点に押えられたのは打球が正面にどぶ幸運があったからだ。コントロールの悪さから自然に球が散っていたこともさいわいした。中井は打たせてとるタイプ。広島の大石投手によく似たピッチングをするし、フォームもそっくりだ。違うところは、球をはなすとき大石は体重が軸足に移動、ボールに体重がかかっていて重い球を投げされるのに対し、中井は手先だけでコントロールしようとする。このためふみ出した左足が突っ立ったままになり、自然に上体も前にかからず腕だけで投げる結果になる。これではスピードはのらない。どうしてこういうピッチングになるかといえば、変化球にたよりすぎるきらいがあるからだ。投手の生命であるコントロールは腕でなく腰でつけるのが原則。中井の球にスピードやのびがないのもからだ全体を使わないから上体が前にのらないという実にかんたんな理由からだ。この中井が4連勝できたのは、相手チームに球質がわからず、沈むシュート(これが武器)が効果をあげて、ちょうど一昨年の村瀬(巨人)がデビューしたときと同じだと思える。フォームそのものはまとまっているから腰をつかって上体のウエートが軸足にかかるようになれば、もっとスピードもますだろう。またコントロールもつきやすくなる。いまのままではすぐ通用しなくなるおそれがある。

関大中退。二十歳。1㍍79、76㌔、右投右打。百試合研修生。ウエスタンでは13勝1敗で防御率、勝率、最多勝利の三部門を独占。九月七日の対巨人戦(甲子園)にリリーフしてはじめて公式戦に登板して以来30イニング無失点をつづけている。この間完封勝ち三度。4勝無敗。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

菅原勝矢

2016-12-17 09:27:34 | 日記
1967年

「相手がどこでもこわがらない。登板させると喜んでいる。野球がおもしろくてしようがないのだろう」川上監督は逃げを知らない菅原の積極性を高く買っている。昨年と比べて進歩した点は四球の心配がなくなったことだ。それに昨年は速球一点ばりだったが、ことしはキャンプで右打席の外角に鋭く落ちるスライダーをおぼえた。腰痛の堀内に代わってベロビーチキャンプに参加できたことが菅原には大きな収穫だった。スチュアートは菅原には手も足も出なかった。4打席で無安打。しかも2三振。「スチュアートにはスライダーで攻めた。真っすぐ走っていたので、よけいスライダーは威力があった。だが完投できたのは四球を出さなかったからだろう。ねらったところへ大体タマがいった」こういってプロ入り初の無四球試合を自慢した。だが、コントロールはまだ完全でない。桑田には2-3から外角をねらった直球が真ん中にはいってホームランされた。「桑田さんのような一発長打のある人にはもっと慎重に投げなくてはいけない。簡単にストライクを取りにいくと痛い目に会うことがよくわかった」若い投手は打たれるたびに進歩していく。試合前、前夜奪三振16個のセ・リーグ新記録をたてた金田に「わしのような年寄りでもこれだけやっているんだから、お前らも若いものはもっとピリッとほおらんといかん」とハッパをかけられた。最近の菅原はしょっ中金田にくっついて練習している。ランニング、柔軟体操はいつもいっしょ。「金田さんのことばが気持ちのささえになった」菅原は金田を一番尊敬している。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宇佐美敏晴

2016-12-15 23:11:33 | 日記
1966年

報知新聞社、読売新聞社主催、いすゞ自動車協賛のイースタン・リーグ巨人・東映戦は、十日、八王子市営球場で、恒例のアトラクションにつづいて行われ、巨人が宇佐美の力投で勝った。これで今シーズン、巨人は35勝13敗で公式試合を全部終えた。
「優勝がきまったら一軍で投げさせてみたい」(北川コーチ)という成長株宇佐美が完投勝ちした。「宇佐美は一球一球をとってみたら堀内よりいいときもある。球速も一番あるしコントロールもいい。だがムラがある。これがもう少し安定してくれば、一軍でも十分通用する」という北川コーチ。十一安打、4失点は上できとはいえないが、コーナーいっぱいをつくストレートと堀内ばりの大きなカーブはかなり効果的で、10三振を奪った。「後半ちょっとバテました。一軍?できれば投げさせてもらいたいです」と宇佐美は目を輝かせていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

登記欣也

2016-12-15 22:27:09 | 日記
1982年

「あと一年ぐらいはやれるという自信がありましたが・・・。自分で踏ん切りをつけました」五十三年のドラフト一位・登記(帝京五高ー神戸製鋼)が四年間の現役生活にピリオドを打ち、今季限りでユニホームを脱いだ。社会人時代は1㍍72の小柄ながら五種類以上の変化球を投げ分け「即戦力」と期待されて入団。しかし、ファームでは四年間で通算22勝19敗14セーブの成績を残したが、一軍では一年目に阪急戦で一イニングを投げただけ。「未練は残りますが、ここらへんがいいタイミングだと思いました。まだ次の仕事は決めていませんが、娘(美穂ちゃん)も来年二月で満三歳になるのでがんばります」とひょうきん者でチームメイトから親しまれた男はけじめをつけて球界を去っていった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

渋谷誠司

2016-12-15 22:01:19 | 日記
1963年

根来捕手がフラフラになってため息まじりにいった。「サインどおりに一本もこないんだからね。ボール、ボールで気が気でなかったよ」巨人を四安打9三振でシャットアウト。だが内容は8四球と荒れまくったという不思議なピッチングだった。もっとも渋谷の不思議さはいまにはじまったものではない。五月十一日の対巨人戦で一安打の完封勝ちをしたかと思うと、すぐそのあとの大洋戦で、五回投げて三安打7四球で無失点。そうかと思うと快調な出足をみせながらたった一本の本塁打でKOをくったり・・・。四度のチャンスに死球一つだけであとの三度を凡退した長島は「ボールを散らしてきたのがよかったよ」という。だが渋谷は頭をかいた。「根来さんもいってました。どこへくるかわからんって・・・。ええ、考えて散らしたんじゃないですよ。ボールまかせに投げただけです。そんな考えるなんてことまだまだ・・・」首をふりふり最後は聞こえないくらいボソボソとした声。ロッカー・ルームのマッサージ台にすわり込んで、まだ荒い息をついている。そばからひやかすのが大好きな豊田が「渋谷さん、あちらのインタビュー室でどうぞ。ところでどんな球がよかったんですか」顔を真っ赤にした渋谷は、それでもやり返した。「そうですね。運がよかったんです」これには豊田も「おそれ入りました」と最敬礼。「大きいのを打たれるくらいなら歩かした方がいいと思ったんですよ。別に長島さん、王さんにはどうしようなんて考えなかった。でも、いつもピンチのときはあの二人がボックスに立ってるんですからねぇ。いやんなっちゃった」打たれた安打のうち王が二本。国松が一本と左打者に三本。「なんで左にやられるんかわからないんです。もっともなにをしてもわけのわからないことばかりやってますからね」これで二度目の完封勝ち。それも巨人戦にだけというもの。「大きらいですよ、巨人は。なんでうまく投げられるかって?やっぱり運がよかったんでしょうよ。だいたいぼくは四回戦ボーイですからね」ピンチになったときは「赤い旗を振って、助けてくれとさけびたくなった」などというウィットに富んだ話もする渋谷。砂押コーチ、豊田、鈴木とおとぼけがズラリとそろっている国鉄のなかでも最右翼というのがこの渋谷だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

島田源太郎

2016-12-15 20:49:46 | 日記
1963年

ゲームが終った。大洋のベンチはえらい騒ぎだった。「ゲン、ゲン」と島田(源)の久しぶりの快投をほめる声でうるさいほど。マックやクレスまでが「ゲンタロー」とよくまわらないシタで大声をあげる。本人はあっさりした顔だった。それは大洋が日本シリーズに勝って大騒ぎされたころの島田(源)の顔だった。答え方もそっけない。
ーことしで一番のピッチング?
「そうね。でも点をとられちゃダメだね」
ーカーブがよく切れていたけど・・・。
「そうね。でも後半はあまりね」
ー王、長島と三振させたのは考えていたピッチング?
「そうね。でもよくわかんない。バッターにきいてください」
ー柴田の足をずいぶん意識したようだけど・・・。
「そうね」といったぐあい。ベンチでの話も自分から切りあげ、ロッカーへ向かった。しかしのんびりした性格で、別にあわてて戻る気配もない。ベンチを出ようとしたところでこんどはカメラマンにつかまった。「ちょっと笑ってくださいよ」の声には「エヘヘ・・・」でおしまい。だがロッカーへ戻ると島田(源)の顔はいやにきびしくなった。オールスター戦前から調子があがってきた理由を聞かれたときからだ。「去年もよくなかった。ときどき思い出したんです。ウチが優勝したときのことをね。そしたらたまらなくなってきたんです。このまま終わりたくない。だからことしはずいぶん練習もした。ブルペンで投げてみる感じも、優勝した年と同じような気分になってきました。ON砲?そんなの特別意識しませんよ。第一長島の三冠王なんてつくられた投手として恥です」内容はグッと迫力があった。しかしこれもひととおりしゃべるとまたテレ笑い。「やっぱり多勢の人に囲まれるってのは気持ちがいいもんですね。囲まれないより囲まれる方がいいや」フロ場へはダイビングのようにとび込んだ。三年前のアダ名はおとぼけのゲンとテレ屋のゲンの二つがあった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田中調

2016-12-15 20:30:53 | 日記
1967年

阪急に勝ったときは必ずカーブの切れがよかった。つまり阪急は比較的カーブに弱いということがいえる。だがちょっとでも切れが悪いときは打たれた。阪急にはヤマをはる打者が多いが、その中でも相手投手がもっとも得意とする球にヤマをはる打者が多い。これは打者にとっても危険なことだが、投手にとっても実にいやなことだ。ぼくの場合はカーブにヤマをはられたわけだ。上から落ちてくるカーブなどは感心するほどよくコースを運ばれた。まずこんなクセをのみ込んで向かうことだ。そうすればそれほどこわい打者はなくなる。ウィンディにはしばしば痛い目にあわされたが、これだって甘いカーブをねらい打ちされていたからだ。左投手の内角球も好きなタマのひとつ。押えるためには外角へのスライダーか外角への速球がいい。同じ外人でもスペンサーは左投手が出てくると左右へ打ち分けようとする。きっとボールがよくみえるからだろう。しかしその微妙な動きはかまえ方でわかるから、スピードをかえたりして打ち気をはずしてやることだ。長池はカーブでカウントをかせいでおき、外角速球かシュートで攻めて成功した。やたらに引っかけるから、カーブでの勝負はあまり感心しない。よくカネさん(巨人・金田)にぼくのカーブが似ているといわれるが、最近のカネさんのカーブは角度はあってもスローカーブが多い。切れがないだけに長池などには一番危険なように思う。とくに右打者が多い阪急は、それでなくても左投手をねらっているのだから。しかし、なにがなんでも塁に出したくないのが森本、山口、阪本、住友らだ。ほんとうにうるさいという感じとなる。とくに阪本の打球はよくのびるから注意しなければいけない。内角で勝負することだ。住友も外角は強い。森本も内角いっぱいの速球が一番成功した。とにかく阪急打者は強気だ。よく振ってくる。これをかわそうと思ったらダメだ。あくまで勝負していくこと。そのためには第一にコントロール、第二に変化球と速球とのコンビネーションが必要だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

桑田武

2016-12-15 19:59:53 | 日記
1962年

横浜市鶴見区東寺尾の桑田武選手宅ー日当たりのいい裏庭で桑田が長男・武将(たけまさ)ちゃん(四か月)をさかんにあやしている。「気味が悪いほど似てるでしょう」と笑う桑田。母親のともさんが桑田の小さいときの写真を持ってきたが、なるほどそっくりだ。「毛がちょっとうすくて顔がクリクリしていて、武が一度生まれてきたのかと思うことがあるんですよ」とともさん。そんな親子のやりとりをみていた千鶴子夫人が桑田にいった。「似てる、似てるといわれると、とてもうれしそうな顔をするわよ」武将ちゃんの誕生日は二月二十日。巨人の長島選手と同じ日だ。「偶然なんでしょうけど、とてもいい足腰をしているんですよ。それに尾崎君(東映)と同じハト胸だし・・・」応接間の長イスにはらばいにさせて背筋力をつける運動をさせる桑田の顔はひとりでほころぶ。すでに金の卵の素質?をもっているようなピチピチした武将ちゃんの動き。「こちらにいるときは必ずフロにもいれてくれますし、朝起きたらすぐダッコ。まるでオモチャみたいにはなさないんですから・・・」夫人も驚くほど子ぼんのうな桑田。「去年まではナイターになると球場へ出かけるまでの時間が退屈でしようがないときがあった。ことしはごらんの通りでしょう。私生活も充実していますよ」桑田の言葉がはずんだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山本秀一

2016-12-15 00:17:28 | 日記
1967年

同点で迎えた延長十回裏、一死一、三塁のチャンスに打席に向かう山本の顔面はそう白だった。というのも九回の守備から遊撃にはいったばかり。今季初打席というからムリもない。しかし、そこはプロ生活八年目である。一球ごとに顔に赤みがさしてきた。大時計が午後十時十分をさした時間ぎれ寸前、2-2後の五球目、山本のバットから白球が中堅右へ飛んだ。手をたたいてホームを踏むバーマ。一塁に走りこんだ山本を中西監督が抱えこむように祝福の握手。「今季初打席が初安打、しかもぼくにとって初めてのサヨナラ安打になるなど、なんともいえない気持ちです。打席に立ったときスクイズのサインが出るかと思ったが、なかなか出ないので打つ以外にないと思った。第一球がカーブおそらくカーブ攻めでくるとにらみ、とにかく右に流そうと待っていた」そこへおあつらえ向きに高めのカーブがはいってきた。山本の読みがみごと当ったわけだ。山本は先日のウエスタン・リーグの試合で南海の高橋捕手からスパイクされ、左足首がはれ上がっている。このためこの日は家で休んでいたところを電話で呼び出され、ベンチにはいったばかりだった。八回同点打をたたき出した代打植田といい対南海戦に万全の構えをとていた西鉄ベンチの慎重さがみごとに実ったといえる。山本は和歌山商出身で南海から西鉄に移って五年になる。その古巣南海から劇的なサヨナラ安打を打ったのも宿縁といえよう。南海仕込みのしぶとさでみごと恩を返した山本の表情は喜びにあふれていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする