プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

門岡信行

2017-04-22 21:38:27 | 日記
1970年

大分・豊後高田桂陽小ー高田中ー高田高

入団してすぐ10勝は、山中をしのぐスタートだったが、不運にも肩を痛めた。このため、いつも調子の出るのは他の投手がへばる夏場から。絵がうまく、風景画はなかなかの腕。母校、大分、高田高図書館には、彼の水彩画がかかっている。結婚三年目の紀代子夫人は、ソフトボール部の主将。「ことしは春からいけそうです」
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河村保彦

2017-04-22 21:28:48 | 日記
1963年

5年目、一昨シーズンは13勝したが、昨シーズンは変化球にたよりすぎて失敗。今シーズンは肩の故障を努力で克服。スタートからバリバリ働きそうだ。速球とスライダー、それに落ちる変化球と、どの一つをとってみても威力がある。小気味のいいピッチング、という表現がぴったり、ネバリが出てくれば15勝ぐらいはやれる。
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永淵洋三

2017-04-22 21:05:39 | 日記
1976年

昭和17年5月4日生
佐賀高、東芝ー近鉄
妻=正江、長男=義規、二男=仁、長女=香
1㍍68、65㌔、左投左打

アル・カポネのニックネームはだてではない。貫録十分、早くもナインの兄貴分。「ボクの力を買ってくれて、こんなにうれしいことはない」と新人のようなハッスルぶり。新天地で二度の首位打者も夢ではない。
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近藤光郎

2017-04-22 20:31:44 | 日記
1963年

西鉄から今シーズン移籍、西鉄三年間の勝ち星は10勝だった。先発できる左投手として期待は大きく、左打者が多い大洋や巨人打線に対してどんなピッチングをするか見もの。武器は速球とシンカー、完投できるスタミナがほしい。愛称はコンちゃん。いつも微笑を忘れない。

1966年

鳥取県守口市三郷小学ー米子市第二中学ー大阪市関西大学第一高ー関西大学ー西鉄

昨シーズンは50試合に登板、先発、救援で活躍した。好調のときの球威は一級品、小気味よい速球は打者を圧倒する。カーブ、シュートもよく切れる。これだけの球威をもっていながら、4勝にとどまったのは後半でくずれたり、でき不できの波が大きかったためだ。近藤に望まれるのは、ピンチに直面しても動揺しない図太さを身につけること。いい意味での図々しさがほしい。精神面がもう少し強くなれば、いまもっている球威が生かされるはずだ。今シーズンは左投手の主力。肩の故障で出遅れたが、暖かくなればでてこよう。
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伊藤久敏

2017-04-22 20:00:43 | 日記
1970年

福岡・久留米・南小ー牟田山中ー久留米商ー駒大

いつもニコニコ笑っている仏のキューちゃん。昨年プロ入り三年目で一本立ち。オフに結婚。「だから二重にことしは大変だゾ」と大島コーチにいわれても、ニコニコしている。久留米商時代から1点差に泣いた悲劇のヒーローだが、勝負運も好転してきた。阪神が「江夏か伊藤久か」と41年のドラフト会議のとき、迷ったほど買われていた。昨年王にノーヒットのワンポイントはみごと。
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佐藤進

2017-04-22 19:42:53 | 日記
1970年

佐藤進投手 北海道・豊羽小ー豊羽中ー北海高ーアトムズ

北海のトラといわれ、アトムズのエースだったが、ワンマン別所監督と性格的に合わないので、ことしから新天地へ。横手投げの軟投を「もっと上からの方が」という水原監督のアドバイスで、フォームも迫力を増した。左右のゆさぶりで、かつてはすごい阪神キラー。42年の中日4回戦、東京球場で板東からサヨナラ・ホーマーしている。
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杉田久雄

2017-04-22 19:12:20 | 日記
1976年

杉田久雄投手

浜松商ー中大
妻=順子、長男=英基

1㍍82、77㌔、右投右打
真面目な人柄、イースタンの巨人キラー国松二軍監督が(現コーチ)が「なんでウチはあいつを打てないのかな」と嘆いたほど。一軍ローテーションにくい込む手がかりはつかんだ。45年のドラフト1位のメンツがある。
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宮脇敏

2017-04-22 18:48:33 | 日記
1974年

ノンプロ大倉工業からロッテにドラフト2位指名で入団。その素質はカープも目をつけていたという。ロッテ時代は水が合わないというか、故障もあって鳴かず、飛ばずではあったが、野球への情熱は強いものがあり、カープの門をたたいた。故障も癒え再起へ目々とはげんでいる。
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藤原真

2017-04-22 18:29:26 | 日記
1976年

藤原真投手

昭和20年5月15日生 西脇高ー慶大、鐘紡、サンケイーヤクルト
妻=尚子、長女=昌子、長男=崇、二男=実
1㍍79、82㌔、右投右打
ちょっぴり太めの体でひょうひょうと投げまくる。度胸満点、常にマイペース。ピンチの時には一段と頼もしく見える男。小気味よいピッチングに変化球の鋭いキレが復活すれば、他チームにとって恐い存在に。
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坂井勝二

2017-04-22 18:21:00 | 日記
1976年

坂井勝二投手 昭和13年3月21日生
田川中央高ー専修大、大毎ー大洋
妻=好美、長女=美文、二女=理栄
1㍍80、72㌔、右投右打
フォークの切れ味、変化球のキレ。味のあるピッチングはベテランならではそのもの。ポーカーフェイスはあいかわらずだが「オリオンズ(現ロッテ)時代から気心知れた監督のため、ひと暴れするぜ」と心は燃えている。
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池島和彦

2017-04-22 17:59:21 | 日記
1973年

ファームのエースから一軍の中堅投手に成長。ゆるいカーブと切れのいいシュートを武器にした投球はつかみどころがないと他球団にいやがられている。ペースに乗れば10勝も。

大阪・明治大 25歳
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松永美隆

2017-04-22 17:56:26 | 日記
1973年

長身を生かした重い速球とシュートが武器の本格派投手。山口県下では屈指の好投手と評判を取った。制球力と経験をつめば将来の大器として大いに期待される。

山口・宇部商 18歳
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五月女豊

2017-04-22 17:53:33 | 日記
1973年

ドラフト会議一位指名で入団した球界のシンデレラ・ボーイ。昨秋の産別大会で開花。日生戦のノーヒット・ノーランが輝く。カーブ、スライダーを武器にした強心臓の実戦型。はやくも新人王の呼び声も高い期待の新人。

栃木・鹿沼農商 23歳
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黒田真二

2017-04-22 13:55:47 | 日記
1982年

荒木に続きヤクルトにかつての甲子園のアイドル投手が誕生ー。早実の荒木を攻め落としたヤクルトは十七日午後一時、塚本スカウト部長が東京・銀座のリッカー本社を訪れ、ドラフト外で黒田真二投手(24)=1㍍80、80㌔、右投右打、崇徳出=と入団交渉を行った。黒田の入社以来の親代わりとして漆崎雄一常務取締役(元野球部長)も同席し、契約金二千五百万円、年棒三百六十万円の条件で了解点に達し仮契約した。正式契約、入団発表は二十一日ヤクルト本社で行われる。黒田は崇徳時代、五十一年春のセンバツ大会で優勝。すさまじい人気を得て甲子園のスターにのしあがった。同年日本ハムからドラフト一位で指名されたがプロ入りを拒否して日本鋼管福山に入社。しかし心臓病などのため五十三年に退社し、五十四年から再スタートを切った。リッカーでは三年間通算35勝をマーク、速球に加えスライダー、シュート、チェンジアップ気味のナックルと球種も豊富な右の本格派投手。この間補強選手も含めて都市対抗に四度出場、昨年はリッカーで一昨年は東芝府中でベスト8入りを果たしている。崇徳時代の同期生山崎、小川は広島に在籍しておりその対決がみものだ。五十四年八月に結婚した万里子夫人(24)との間に絵美ちゃん(二つ)、美希ちゃん(一つ)の二女があり、子連れルーキーとしてプロの世界に飛び込む。
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田辺義三

2017-04-22 08:38:56 | 日記
1967年

昨年の十二月十一日、近鉄・山本八郎外野手のサンケイアトムズ入りが決まったときである。近鉄の球団部長瀬古治さんと、いろいろ山本八郎君の話をしているうちに、わたしは、一人の不幸な男を思い浮かべた。その名は田辺義三。ゲーム前の練習中、二十七歳の若さで選手生命を失った元西鉄ライオンズの外野手である。田辺と山本ー、わたしには、どうしてもこの二人が切り離せない。昭和三十年は、高校選手の当たり年であった。前岡投手(新宮高ー阪神)富永投手(立命館高ー東映ーサンケイ)畑投手(小倉高ー西鉄ー中日)米田投手(鳥取・境高ー阪急)坂崎外野手(浪商ー巨人ー東映)らがズラリとそろい、山本(浪商ー東映ー近鉄ーサンケイ)と田辺(桐生高ー西鉄)は、これら一線クラスに名をつらねる高校球界の捕手の双へきであった。捕手は、野球が高度になればなるほど、むずかしいポジションである。当時は、プロ野球にも好選手は少なかった。とくによく打つ捕手は数えるほどだった。野村(南海)はレギュラーに昇格したばかりで、セでは藤尾(巨人)パではルイス(毎日=現東京)が目につくていどだ。そこへ出場した打力の捕手ということで、二人は早くからスカウトの注視を浴びたのである。夏の全国高校野球選手権が終ったあと、参加全選手の中から優秀プレーヤーが選抜され、ハワイへ遠征した。米田ののぞく前記の選手はすべて選ばれた。山本は、守備は荒々しいが、長打力があって、むき出しのファイトはいかにもプロ向きである。田辺は、おとなしいのが気になるが攻守に洗練され、インサイドワークでは山本をしのぐ。どうにも甲乙をつけがたい二人は、交互に選抜軍の四番にすわり、本塁を守った。一行がハワイから帰る。そのときから優しいスカウト合戦の火ぶたが切られ、田辺は西鉄へ、山本は東映へ入団した。第一線として台頭したのは山本のほうが早かったが、田辺もじりじり迫り、やがては、ともにレギュラーとして対決するようになった。運命は、おもしろく、奇妙だった。山本が打力を生かして捕手から一塁手ー外野手とコンバートされるころ、田辺も、打力と足を買われて外野手に転向したのである。そして、田辺がようやく本領の打力を振いはじめた昭和三十七年、シーズン終了間ぎわになって、その頭部を魔の打球が襲う。十月七日、西鉄は東京球場でオリオンズとの最終戦を迎えた。打撃練習で田辺は投手に立った。あのときのことは、いまもはっきり記憶している。いつも投げたことのない田辺が、めずらしくバッティング投手を買って出たからである。左打者伊藤光四郎の打球が、猛烈なライナーで飛んだ。バットからはね返ったのと、田辺の頭に当るのと、ほとんど同時だった。負傷回復後の田辺は悲惨だった。後遺症の作用で、ときどきケイレンを起こし、元東京の菅原紀元投手と同じ悲劇に泣いた。三十九年限りで自由契約となり、傷害補償金二百万円を受けて退団した。山本と同じように嘱望され、同じような成長過程をたどった同期生でありながら、プロ球人として全うできなかった田辺ー、ケガさえなかったら、いまごろは押しも押されもしない西鉄のベテラン外野手になっていたであろう。田辺は、いまの桐生市郊外の自宅で西陣織りの家事に精を出している。野球のことは、忘れようとしているのかも知れない。ハワイ帰りの田辺が羽田に着いたときから、追いかけたわたしは、当時高校選手としては最高の契約金(四百万円と記憶する)を示したのに、田辺は、なかなか「うん」といわなかった。条件に不足はなさそうだし、プロ入りの気持もじゅうぶん、どうもおかしいと思ってたぐっていったら、とんでもない障害がひそんでいたのを思い出す。「ぼくはもう、学校へ行きません」。くやしそうに訴えた、あのときのことを、おぼえているだろうか。
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