プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

若生忠泰

2017-04-16 19:16:46 | 日記
1970年

巨人・若生忠泰投手(34)は二十五日、熱海後楽園で行われた納会の席上「一身上のつごうで今シーズン限りでユニホームをぬぎたい」と現役引退を表明した。同投手は二十三日、後楽園でのファン感謝デーのとき、佐伯一軍担当、川上監督に引退の意志があることを伝え、慰留されていたが、決意はかわらなかった。こんごは福岡で事業に専念する。若生は三十年、東北高から西鉄入り。三十五年から三十八年にかけて主力投手として活躍、48勝をマークした。四十四年巨人に移籍したが、その年は3勝、ことしは右足首のジン帯断裂などの故障に見舞われ、わずか二試合に登板しただけで、後半はもっぱらファーム暮らしだった。十六年間の成績は105勝107敗。

若生投手「一昨日、監督に伝えたときはまだ君を必要としている。短いイニングなら投げられるんじゃないかといわれたが、十六年間の投手生活をけがさなないためにも、ことしでやめるのが一番いいと決意した。たとえ残っていても、来年またことしのようにつらい思いをしなければならない。仮にトレードの話があったとしても、他球団でやるつもりはない」
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石川光一

2017-04-16 18:49:11 | 日記
1970年

中日・東方代表は二日、石川光一投手(24)を任意引退選手にし、あらためてバッティング投手として契約することにしたと発表した。本人と了解点に達しており、あとは事務手続きを残すだけになっている。
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サンケイドラフト外投手

2017-04-16 17:30:52 | 日記
1969年

サンケイは、二十日午後四時、東京・有楽町の球団事務所で、十二月上旬に行った新人選手公募テストの合格者六人のうち四人と正式契約、その入団を発表した。この日、入団を発表したのは投手、大滝信孝(18)=身長1㍍76、体重72㌔、右投げ右打ち、新潟県村上高、越阪部豊(おさかべ・ゆたか)(18)=1㍍82、75㌔、右投げ右打ち、埼玉県豊岡高、及川洋治(19)=1㍍74、66㌔、右投げ右打ち、岩手県黒沢尻高、外野手、松屋健治(18)=1㍍71、70㌔、右投げ右打ち、神奈川県逗子高の四人。昨年の公募テストでは、大量五人が採用されたが、ことしはテスト基準をレベルアップして厳重に審査したためもあって、採用したのは六人だけだった。この日、入団を発表した四人は全部、来春卒業見込みの高校生ばかりである。残りの二人は、家族の賛成を得られず、入団を断念した。及川投手は黒沢尻高(定時制)時代、全国の定時制軟式野球大会で優勝投手になっている。また越阪部投手も今夏の高校予選では大宮高戦に投げて3-4で敗れている。大滝投手も村上高山北分校でエースとして活躍していた。松屋、大滝、越阪部の三人は来春、卒業試験が終わり次第、練習に参加する。また、及川投手だけは、すでに卒業しているため来春一月七日からの自主トレーニングに参加する。
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河村英文

2017-04-16 14:09:03 | 日記
1960年

七回の裏難波の打球を右手首に受けてベンチへ走りこんだ河村は、フンマンやるかたないといったゼスチャアをみせた。難波の一打を含めて五安打の散発、無得点に巨人を押え、完投シャットアウトは目の前。しかも七回は上田を一塁において「河村じゃ打てないだろう」という記者席の声を笑うように左翼へ2ラン、決勝点をたたきだしている。まったく河村ひとりで勝っているようなゲームだったのだ。広島ベンチうしろの通路は報道陣でいっぱい。しばらく河村は出てこず氷を割る音ばかりベンチからひびいた。ホウタイの中に氷を巻きこんで出ていた河村は竹内マネジャーにつきそわれて球場入り口を出て病院へ。むずかしい顔をした河村は「いまは全然痛まない。しびれてしまっているんだ。ゲームの方はどうなった?これで負ければモトも子もないからな」とさかんに得点を気にする。「まだ勝ったことがないんだからな。一勝くらいしないことにははずかしくて広島へ帰れないよ。難波へ投げた球?真正面にオレのところへとんできたのだからまん中だろうな。シュートをかけたんだが切れなかったらしい。ピッチングは見たとおり、カーブをほとんど使わなかった。シュートが割合よく落ちたんだが・・・。ホームランはまん中の直球だ。まぐれまぐれ、レフトの上はぬけると思ったがね」ホームランしたときの河村は一塁ベースあたりで自分で拍手、渦中を笑いにしてホームインした。そのあと五分もしないうちこんなアンラッキーが待ち構えているとは・・・。首からホウタイをつって右腕をかけ、真っ赤なジャンパーを羽織って電車道でタクシーを待っている河村を通る人はなにごとかというような顔をしてみていく。西鉄から広島へ移籍したばかり。三原前監督、川崎現監督(当時コーチ)と感情的に合わず、トレードされることをもくろんで昨年の後半は完全にサポタージュをやり、首尾よく広島へ移ったというサムライ。「さっき三原さんと通路で会ったよ。会釈はしたよ。すると先生妙な顔をして礼をしていったよ。もちろん話はしなかったがね」とこのときはニヤニヤする余裕が出てきた。プロ入りした一年目のキャンプに医者を連れて参加したり、逸話の多いのではプロ野球球界でも指折り。セ・リーグは大して打つ者がいないから楽だよ」などという、宣言をしたとおりの実力をこの日はハッキリみせたといっていいだろう。
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成田光弘

2017-04-16 12:19:34 | 日記
1962年

昭和十七年十月七日、秋田市生まれ、十九歳
大毎オリオンズ、捕手。
二軍で腕をみがいていたが、攻守に甘いところが多く、第一線の出場にはいま少し。
三十六年秋田商業卒。秋田商のバックボーンとして攻守に大活躍。甲子園でその素質をあますところなく披露。
引く手あまたの中を三十六年大毎入団。だが甲子園のヒーローもプロの水は甘くなく、スローイングがきまらない。大振りすぎることでつまづいた。しかし実力十分、磨かれた数年先が楽しみ
趣味 映画
現住所 千葉県市川市 大毎合宿所
家族 四人兄弟の長男
右投右打ち
173㌢、76㌔
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木戸美摸

2017-04-16 10:13:50 | 日記
1959年

一回は堅くなって不安そうだったが、二回からは見違えるほどよくなっていたね。
木戸「昨年七月から全然登板していませんからね。八か月ぶりのマウンドで最初は堅くなってしまった。だが二回からホーム・プレートがよくみえて球を散らし、自分ではいい出来だったと思います。ウチは三遊間がいいですから投手は助かります」
長い間休んで登板するとホーム・プレートが小さくみえるものだ。木戸のような体のない、どちらかといえば打たせてとる投手は自信が大きく左右する。
ー投げるとき昨年痛めた腰は気にならなかった?
木戸「試合中たえず腰をまげて痛み具合をみていたが、全然痛くなかった。カーブもシュートもよくきまり、ことしはやれるぞという自信がつきました」
この自信が木戸には最も大事なのだ。しかし不利なカウントで投げる時は球が素直なのでカーブを二つもつづけていたが、それだけが気になった。
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金彦仁重

2017-04-16 10:03:47 | 日記
1959年

野母を受けついで五回から登板した金彦は以後の巨人打線を二安打におさえ、反撃のきっかけさえもつくらせなかった。金彦のもち味はスリークォーターで投げるシュートだが、この日のピッチングはカーブが大半。その理由をこう説明する。「ブルペンで投げていても球にのびがなかった。柚木コーチにカーブを投げつづけろ、といわれたのでそのとおりやった。まあコントロールがあったのがよかった。自分としては前の対広島戦(3日・府中)よりもずっと悪かったと思う」鶴岡監督は「本塁打を打ったし気分が楽になったんだろう」と金彦のピッチングを軽く批評する。その同点2ランについては「まぐれですよ。どんな球かわからない。これからひやかされそうですね」と、あとは笑い声になった。毎年オープン戦のときには期待されながら、シーズンに入るとさっぱりダメになる。「ことしは落ちる球をマスターする」というのが念願。逗子開成高から入団して四年目。1㍍86、79㌔、二十二歳。
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柳田利夫

2017-04-15 11:31:10 | 日記
1961年

試合前の一塁側ダッグアウト。ある記者が「田宮が二塁とはもったいないねえ」と西本監督に声をかけた。それを聞いた西本監督は「それより一番をみてくれよ。開幕以来連続二本塁打したトップ・バッターをもっているチームなんかあるか」と日ごろ控え目なこの人には珍しい言葉。その柳田がこの日の一回三塁線二塁打を祓川に浴びせ大量点のきっかけをつくり、二度目の打席も足でかせいで二塁打と、大毎の連続安打を引き出した。昨年の暮れー東京有楽町の球団事務所で船田代表の前に立った太いマユ、角ばったアゴのヒゲづらの男。代表が「ねえ君、君は来年が勝負だ。参加報酬は少し低いかもしらんが、もしレギュラー・ポジションを確保したらシーズン中でも月給をあげてやる。いいね」立っていたのがこの柳田だった。これが奮起のきっかけとなった。キャンプ中の人が変わったように練習に励んだ。ゲリ患者が出た大毎で一日も休まなかった。三十三年、当時の白川二軍コーチにすすめられて練習に参加して以来、昨年まで鳴かず飛ばずの生活だったが全く見事の成長だった。第一線対西鉄一回戦九回に代打で出て稲尾からホームランを奪って以来ずっとスタート・メンバーに顔を出すようになったことはもちろんだ。「なんとなく調子がいいんですよ。どんなときでも自信をもってやれば打てますね」心臓の強さでは人に負けないとはっきりいう。「打つ方、走る方はまあまあになったから、あとは守備だけです」この日も一回広瀬の打球を胸にあてて内野安打にし、七回にも一塁に高投しているが「失策の分は打撃でとり返す。一度くらいヘマをしても平気です。これがボクのいいところです」とわりきっている。「今まですくうように打っていたのをかぶせるような打法に変えたら、いい当たりが出るようになった。この調子をくずさず二割八分は打ちたいですね。そのくらいの自信はあります」ともつけ加えた。新星柳田の進境は優勝をねらう大毎にはたのもしいかぎり。「船田さんとの約束が果たせそうです」とよろこんでいた。ビールなら十本は楽に飲めるという。福島県内郷高ー常盤炭鉱。
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西岡三四郎

2017-04-15 10:05:01 | 日記
1972年

野村が打席に立つたびに、盛んな拍手が起こった。もちろん通算1219得点の日本新を期待した拍手。だが、第一打席で三振した野村は、その後も左飛、三ゴロと凡退して、期待は次第に薄くなった。回が進むにつれ、野村から主役の座を奪っていったのが西岡。二回二死からクリスチャンを四球で歩かせたものの、重い外角速球と胸元のシュート、タイミングをはずすスライダーで、グングン投げ進む。捕手の野村監督は、四回に早くもノーヒット・ノーランを意識している。雨で流れたとはいえ、十一日には初回に大杉の3点本塁打を食い、野村監督にこっぴどくおこられた西岡は「どうにでもなれ」と、破れかぶれでマウンドにあがったという。「だから、調子がいいのか、悪いのかわからなかった」そうだが、タマには力があった。六回まで無安打。スタンドのざわめきが、次第に高まっていった。この間、いい当たりの三つの三ゴロを佐野がうまくさばいたし、宇四回の阪本の大きな左飛は風に戻され、フェンスいっぱいでスミスのグローブにおさまった。「五回からはっきり意識した。やれそうだったし、やりたかった」と西岡は一球一球に力をこめている。七回も阪本、張本をうちとり、大杉も一塁線の平凡なゴロ。これで終わりと思ったとたん、逆シングルで軽くさばこうとしたジョーンズがはじき、打球は二塁方向へころがった。捕球した二塁手・桜井がすぐスコアボードを振り返る。もちろんエラー。一塁側から「ヒットにしてやれや」とヤジが飛んだ。「ジョーンズのやつ、もっとしっかりとってやればいいのに。あれさえなければ、調子の波に乗っていけたのになあ」と野村監督をくやしがらせたエラー。西岡は「気にしなかった」というが、白にはボール3つ続けたから動揺したのはたしか。なんとか2-3まで持ち込みはしたものの、白にファウル2つねばられたあとの高めのスライダーを、左前に快打されて野望はつぶれた。西岡は「打たれたあと、やっぱり気が抜けてしまった」という。八回にはバックの拙守による3安打で1点をとられ、ノーヒットどころか完封、完投まで逸してしまった。南海から無安打投手が生まれれば、昭和十八年の別所昭以来のこと。もう十八年もマスクをかぶっている野村監督は、まだ一度も無安打投手のタマを受けたことがない。それだけに、野村はジョーンズのエラーが西岡以上にくやしかったのかもしれない。
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門岡信行

2017-04-15 09:14:57 | 日記
1962年

門岡にはスピードがあった。とくにスライダーがよかった。しかし走者が出るとボールが高目に浮く。ランナーが出たときのピッチングがオープン戦からの門岡の課題だった。徳武の本塁打も高目。それも内角へはいったからたまらない。打ってくださいといわんばかりの好球だった。明らかに門岡の失投だが、門岡の失敗は前にもあった。無死一塁でバントを処理した門岡が併殺をねらって二塁へ高投した。やや横手からフワッと投げたが、ああいう場合は確実に一塁走者を二封するだけでいいのだ。その点新人に多くを望むのはまだムリだが、門岡の経験不足というべきだろう。一死満塁から当っている土屋を1-3から右飛にとったまではよかったが、当ってはいないとはいえ徳武は四番打者、しかもこの点もそうだが
徳武は初球のストライクをねらってくる。第一打席の0-1をはじめその二度の打席でいずれも初球に手を出している。若いカウントから打ってくる徳武にカウントをととのえるにしてもストレートを投げたのがまちがいのもと。これはリードする江藤捕手にも責任がある。1点差で門岡がかたくなっていたときだけにもう少し考えてやるべきだ。門岡はスライダーがきまっていのだから、結果論にはなるが、あの場合スライダーで打たせるべきだった。

徳武選手「ヒットが出ないのであせっていた。リキんでバットがスムーズい振れていなかった。ボックスでソワソワして落ちつかなかったからね。七回の打席にはいる前に早くかまえてゆっくり持てとヒントを与えられたんです、それに無死か一死だったらどうしても打たなければならない責任感の方が先走ってしまうでしょう。二死だったので楽な気持ちで打てたのもよかった。内角高目のストレートだった」

江藤捕手「一球目のカーブが内角低目のボールになったので、カウントをととのえるつもりで外角低目への直球のサインを出した。それが内角高目にいってしまった。門岡の失投だ」

石本コーチ「門岡の失投だ。若いからピンチになるとからだがかたくなって手がちぢんでしまうんだな。その前に渋谷のバント処理がまずかった。ひとつ殺せばいいのにあわてて併殺を狙ったのがいけなかった」
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益田昭雄

2017-04-15 07:57:02 | 日記
1964年

益田はいままでプロ野球の力に気遅れしていたらしい。ノンプロ山陽特殊製鋼から巨人入りしてもう三年。だが、ナインの中にひとりも親友がいない。一児のパパ、ことし二十六歳の益田が藤田、伊藤、北川といったベテランと若い高橋、渡辺らのちょうど間にいるためではない。内向的な性格のためだ。マウンドにあがるとものおじしてブルペンと同じピッチングができないこともその性格のせいだろう。「ブルペンでいっしょに並んで投げていると、とても直球のスピードではかなわない」と伊藤がいう。高橋は「左投手はコントロールが悪いといわれるが、あの人は特別だね」といった。そこで藤田コーチはオープン戦を前に「のんびりした気分でフォームを考えずに投げてみろ」とアドバイスをしたそうだ。今シーズンは敗戦処理として四試合に登板しただけだが、オープン戦はこれで三試合2勝。それも東映(秋田)大洋(草薙)とも第一戦の先発だった。「きょうは暖かかったし、思い切って投げられた。でも、相手のバットはあんまり振れていなかった。大洋を押えたといってもあまり大きな顔はできませんよ」ゆっくり話す。小学校二年生のとき、友だちのどもるまねをしていたら、いつの間にかそれがクセになってしまったという。「藤田さんがいうようになにも考えず思い切って投げているうちに、ここにきてノンプロのときのフォームに戻ったと思う。スリー・クォーターからだんだん球が上から出るようになった」バスのおりる益田を迎えたのは藤田の握手だった。「ボクの勝負球は内角低めをつくスイフト。ノンプロのときはほとんどこれで勝負してきた。だから、この球を生かすため、きょうは外角へゆるいカーブと、小さく曲がるスピードをつけたカーブでカウントをかせいだ。これからは切り札にスピードをつけることです」オープン戦三試合の成績は十二イニングで被安打7、1点しか許していない。「コントロールがよくなって見込みが出てきたのだろう。マウンドさばきが板についてきた。自分の力を出すようになった、ということでしょう。自信を持ちはじめたら、もうこっちのもの。これから楽しめる」と藤田コーチは満足そうだった。
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安藤治久

2017-04-14 23:22:59 | 日記
1959年

肩ハバの広いガッチリした体。かなり色が黒い。右のひざを地面につけての力投だった。白いユニホームのひざから下が砂でよごれている。安藤の力投が阪急の本拠地での初勝利の原動力であった。もちろんプロ入りはじめての1勝だ。「全然ダメでした。ストレートがうまくきまらないんですから。やはり西鉄はこわい。とくに大下、豊田さん名前に押されてしまって・・・。プロ入りはじめての勝ちが西鉄とは申し分ないと思うんですが、リリーフされて勝ったのではね。どうも割り切れない感じが残ります」盛んに完投できなかったことを残念がっている。平和台での西鉄三回戦ではリリーフに出されてストライクが全然入らず、打者二人を連続歩かせてすぐ交代させられたニガイ経験がある。「あのときよりはよかった。カーブが入っただけでもね・・・」沼津市商ー大昭和。1㍍76、69㌔、右投右打。

まだまだ一本調子だ。球質は重くていいが、シュートとカーブをただ組み合わせるのに精いっぱいの感じを受けた。カーブは真ん中から外角へきまるのと内角から真ん中へ入るものを使っていた。しかし真ん中から外角へのカーブはきめ球として通用しても、内角から真ん中のものは絶対ダメだ。高倉に二安打されているが、曲りきらないうちにたたかれた。カウントをかせぐ場合にはこのカーブを投げ、勝負するときには外角からボールになるくらいのカーブを生かすべきだ。近ごろの若い投手はすべてといっていいほど、このカーブの使い方を知らない。研究してほしい。
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升井真喜人

2017-04-14 22:46:19 | 日記
1960年

升井は今まで三回登板しておりシリあがりの好調さをみせていた。西鉄の目に余る不元気さもてつだって完投勝利をにぎった。立ち上がりは若いだけにかたさをみせ、完投できるとはとても思えなかったが、速球とカーブ、スライダーを中心に低目に球を集めていた。上体のかえしが鋭く腕の使い方が非常に大きく一応ムリのないフォームだが、ときどき高目に投げ、前半は打ちくずされる危険を感じた。二回先頭の豊田に安打され、投球数も多くなり動揺していた。このときは井上とのエンド・ランでサインを見そこなった豊田が二封されるプレーに助けられた。しかし五回にも和田、稲尾に連安打され、高倉四球で二死満塁のピンチをまねいたが、このとき鶴岡監督の時宣を得たはげましに難をのがれた。つまり西鉄の不元気な打撃ぶりに助けられ、大量得点に思いきったピッチングをした事が好投の原因だったわけである。とはいうものの、完投できたことはこんご打者との勝負に大きな自信となってあらわれるだろう。投手不足に悩む南海にとっては明るい升井の1勝といえよう。西鉄はこの升井に牛耳られたが、たのみとする稲尾が打たれて先取点をとられたことが精神的に大きな影響を与えていたからで、升井の前に完全に屈したというほど力のおちた西鉄ではないはずである。

升井投手の話「一昨年、リリーフで勝ったことがあるが、完投勝利は五年目ではじめてなのでうれしい。こんなに投げられるとは思わなかった。五回くらいのつもりだった。監督さんからもそういわれていた。前半はカーブを多く投げた。後半は球になれられるので少しでもスピードがなければいけないと思って、シュートに切りかえた。これがよかったようだ。四月二十九日に杉浦さんをリリーフ(大毎戦)したときにもよかったのでやっと自信がついた」
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飯尾為男

2017-04-14 22:20:12 | 日記
1960年

今シーズン初登板で、しかも二イニングしか投げなかった飯尾のピッチングを批評するのは危険だが、正直なところ昨年ほどの球威は感じられなかった。九人の打者に対し、まん中の球はひとつも投げず、内外角へボールを散らしていたが、九回河野に内角のシュートを投げて右前へヒットを打たれた。昨年の好調時の彼ならば、あの球はまずヒットされることはなかった。まだ本調子でない証拠。飯尾の投球を見てるとそれほど打ちにくそうな感じはしない。だが、バッター・ボックスに入っていざ打ってみるとなかなかタイミングが合わない。十年間の経験が大きくモノをいっているといえよう。飯尾のもっとも得意の球は外角低目にコントロールされたカーブとスライダー。この外角球が実に微妙なコースをつき、しかもブレーキがいいので、内角の鋭いシュートが生きてくるのだ。きょうの飯尾のカーブはあまかった。うまみとコントロールだけでは押えきれるものではない。球威の回復こそ先決問題だ。
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植木一智

2017-04-14 21:57:54 | 日記
1973年

阪神は二十六日、植木一智投手(27)を任意引退選手にすると発表した。同投手は四十四年のドラフト一位指名で竜谷大から阪神入り、四十六年に初勝利をあげたがこの年1勝1敗の成績で、プロ入り通算2勝とふるわず、自信をなくしていた。こんごはサラリーマン生活に入る予定。

植木投手「阪神で五年間お世話になったが、何の未練もない。もうユニホームを着ることはないだろうし、どこの球団から誘われてもいく気はない。これからは就職先を見つけます」
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