プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

岸川登俊

2023-05-20 15:01:20 | 日記
2000年
自分をめがけて飛んできた打球に、岸川登俊は「しめた」と思ったという。それが痛恨の力みにつながった。強めだったとはいえ、狙い通りの併殺コースに、グラブが追い付かなかった。体に当り三塁方向に転々とするボール。岸川のプロ初勝利は、その白球とともに遠のいていった。プロ6年目で通産0勝3。ロッテー中日と渡り歩き、オリックスに移ってからも、ほとんどが対左打者の三ポイントの中継ぎ登板。初勝利どころか、先発マウンドという経験自体が貴重であった。オリックスは、7月になると先発陣に故障が相次いだ。ライバルの西武に、苦手とする左腕をぶつける首脳陣の方針があり、岸川も西武戦限定で先発に回った。「先発でも、いつも中継ぎのときと同じ気持ちだった。1イニング、一人一人を抑えていこうと。5回を投げたら勝ち投手、なんて意識しなかったのですが・・・」過去3度は、早々とマウンドを降りた。だが今季4度目の先発となった8月31日、岸川は初勝利に限りなく近づいた。初回に2点、4回に6点と味方が大量得点。失点は初回と4回に1点ずつで、楽勝ムードが漂っていた。5回裏、先頭の松井とフェルナンデスに連打を許した。1点返されて無死満塁、五番・和田を迎えた。「ヒザ元へのスライダー」右打者を詰まらせる計算は、ピタリとはまった。和田の打球はバットの根元に当ってマウンド方向に転がる。だれもが併殺、と思った矢先に、岸川はこの打球を弾いてしまったのだ。続く垣内には前の打席で、ソロ本塁打を浴びていた。「惜しいことをした。実戦経験のなさが、あそこで出るとは…」(河村投手コーチ)ベンチは初勝利目前の岸川に降板を告げたが、ゲームの流れを考えれば致し方ないさい配だ。ゲーム経験という魔物に屈し、岸川は悔し涙を飲み込んだ。

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岸川登俊

2023-05-20 15:00:58 | 日記
2000年
自分をめがけて飛んできた打球に、岸川登俊は「しめた」と思ったという。それが痛恨の力みにつながった。強めだったとはいえ、狙い通りの併殺コースに、グラブが追い付かなかった。体に当り三塁方向に転々とするボール。岸川のプロ初勝利は、その白球とともに遠のいていった。プロ6年目で通産0勝3。ロッテー中日と渡り歩き、オリックスに移ってからも、ほとんどが対左打者の三ポイントの中継ぎ登板。初勝利どころか、先発マウンドという経験自体が貴重であった。オリックスは、7月になると先発陣に故障が相次いだ。ライバルの西武に、苦手とする左腕をぶつける首脳陣の方針があり、岸川も西武戦限定で先発に回った。「先発でも、いつも中継ぎのときと同じ気持ちだった。1イニング、一人一人を抑えていこうと。5回を投げたら勝ち投手、なんて意識しなかったのですが・・・」過去3度は、早々とマウンドを降りた。だが今季4度目の先発となった8月31日、岸川は初勝利に限りなく近づいた。初回に2点、4回に6点と味方が大量得点。失点は初回と4回に1点ずつで、楽勝ムードが漂っていた。5回裏、先頭の松井とフェルナンデスに連打を許した。1点返されて無死満塁、五番・和田を迎えた。「ヒザ元へのスライダー」右打者を詰まらせる計算は、ピタリとはまった。和田の打球はバットの根元に当ってマウンド方向に転がる。だれもが併殺、と思った矢先に、岸川はこの打球を弾いてしまったのだ。続く垣内には前の打席で、ソロ本塁打を浴びていた。「惜しいことをした。実戦経験のなさが、あそこで出るとは…」(河村投手コーチ)ベンチは初勝利目前の岸川に降板を告げたが、ゲームの流れを考えれば致し方ないさい配だ。ゲーム経験という魔物に屈し、岸川は悔し涙を飲み込んだ。

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吉年滝徳

2023-05-20 11:17:51 | 日記
1995年


昨年夏から3季連続甲子園に導いた大型左腕。落差のあるカーブに魅力。
吉年は初戦で制球を乱したものの、1メートル86の長身から投げおろす速球と縦のカーブをうまく使うなど、頭脳派の面を持つ投手だ。


評判の大型左腕、関西の吉年が毎回の13奪三振を奪う快投。1メートル86の長身から投げおろす速球に加え、「三種類ある」というカーブを駆使して、清陵情報打線から三振の山を築いた。

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木村恵二

2023-05-20 09:00:43 | 日記
1990年


近大時代は山内(オリックス)らに次ぐ三番手。140キロ台の速球とカーブの緩急差が持ち味。177センチ、70キロ。右打ち。25歳。

1995年

根本前監督が率いた昨年までの二年間、抑えとしてフル回転だった木村恵二投手が、豪州キャンプで、「先発転向」を首脳陣にアピールしている。王監督が打ち出した「レポート書き」でも、いきなり、初日から「先発希望」を書いた木村。2月8日には、王監督直々、打席に立った場面で、68球のピッチングを行った。そしてルーキー・イヤーに西武の清原を4打席4三振に打ち取った落差の大きなカーブを投げ「オッ」と王監督のド肝を抜いた。「去年のカーブは横の変化でしたけど、今年はタテの変化。いい感じですよ」指揮官の伝家の宝刀、縦割れのカーブをアピールした木村はニコニコ顔。「次のクールから、スライダーにフォークも投げます」先発転向を実現させようと、木村が目の色を変えている。

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佐々木重樹

2023-05-20 08:50:58 | 日記
1990年
「この外人はいけるかもしれない」とチームメイトからからかわれているのは、5ヶ月間の米大リーグのA級・サリナスへの野球留学から帰国したヤクルトの佐々木重樹投手、すっかりアメリカかぶれしたようで、その投球フォームはノーラン・ライアンにウリふたつ。もともと体型が日本人離れした筋肉隆々の逆三角形をしていることもあり、遠目に見たら「ヤクルトに4人目の外人が入団したのか?」と錯覚してしまうほど。帰国後2試合に登板し、重い速球を武器に6回を3失点とまずまず。来季へのテストも兼ね近々、一軍にもデビューの予定。

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嵯峨健四郎

2023-05-20 08:46:11 | 日記
1984年
東映から投手として移籍し、肘を痛めて活躍できなかった嵯峨健四郎氏はいま都内世田谷区松原に住んでいる。大洋塗装工業KK第三事業部の課長として働いているが、トレードで入団した吉田(勝)、森永、高倉、田中で私をスタメンに入れておいて幻惑し、私が打者一人を打ちとったら伊藤芳明投手にリレーするという作戦が立てられた。私はつまりアテ馬ですよ。その日、阪神はいつものように左打者ばかりを私の前に並べてきた。私は一番バッターの吉田選手をピッチャーゴロに打ちとったあと、監督が出てくる以前に自分からすたすたとマウンドを降りました。勝つための手段だとはいっても、このときばかりはプライドを傷つけられましたね」と、笑った。勝つためには個人の感情やプライドなど問題にしてはおれんのだ。

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宮沢澄也

2023-05-20 08:40:52 | 日記
1981年
「この道、30年ですからねぇ。このまま、終わってほしくはありませんよ」5月末のロッテ、阪急、西武戦で3年ぶりの6連敗で、誰よりも歯ギシリをしているのが、チーム付きの宮沢澄也スコアラーだ。宮沢さんは、5月いっぱいで球団職員を定年(55歳)となり、6月からは嘱託としてナインの一挙手一投足を追っているのだ。26年に明大から東急入り。その後、東映、日拓、日本ハムと親会社は変わったが、宮沢さんは投手、コーチ、スカウト、スコアラーと、その青春をチームに燃やしてきた生え抜き、いわば歴史なのだ。

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坪井新三郎

2023-05-20 08:35:13 | 日記
1977年
久し振りに名古屋で試合を見て思い出されたのは、坪井信三路(クラウン)がファームから引っぱりあげられたころの中日である。華麗な名プレーヤーではないが、ファームでとにかく元気がいい。百六十八㌢、打席の一番前に立って、デッドボールでも一塁に出ようという男。二軍寮長の岩本信一さんが明石のキャンプでけしかけた。「おい、監督に売り込め」すると坪井。二軍の練習場からノコノコと一軍の練習場に行って水原監督(当時)に一礼して、参院選ではないがこういった。「坪井です。よろしくお願いします。サードは坪井です」おもしろいと水原監督、チームが不振になるとこの男を使い、ほかの選手を刺激した。

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野上俊夫

2023-05-19 20:39:25 | 日記
1988年
42年・初戦の三重高で史上8人目のノーヒット・ノーランを達成。夏の大会でベスト4まで進出して阪神に1位指名され、入団。のち南海に移り、52年任意引退。現在は和歌山くみあい飼料会社(製造部)に勤務。4人家族。

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吉良修一

2023-05-19 20:35:36 | 日記
1988年
42年、ドロップの吉良の異名をとり、4試合すべてに2ケタ奪三振。高知高を2対1で突き放して優勝。同年阪神入り、47年ヤクルト戦で初勝利。51年暮れ引退。現在は建設会社に勤務。宝塚在住。妻、娘と3人家族。

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中村公信

2023-05-19 20:27:35 | 日記
1991年
ドラフト8位指名の中村公信投手(21)=朱雀高出=181㌢、75㌔、左投げ左打ち=の入団が二十七日決定した。契約金一千万円、年棒四百五十万円。中村は左横手投げ変則タイプで、今秋の入団テストに合格した。

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山口弘佑

2023-05-19 20:23:37 | 日記
2001年
「すぐに一軍で投げられるようアピールしていきたい」十九日のプロ野球ドラフト会議で、日本ハムに二巡目で指名されたリースキン広島の山口弘佑投手(24)は、広島市中区のホテルで記者会見を行い、プロ入りに意欲を見せた。山口投手は、大阪府岸和田市の泉州高、奈良産業大を経て、2000年4月にリースキン広島硬式野球部に入部、身長176㌢、体重75㌔。最高146キロのストレートを主体とする本格派左腕で、カーブ、スライダーも使いこなす。

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前田勝宏

2023-05-17 20:53:23 | 日記
1993年
契約金7000万。89年夏の甲子園では1勝1敗。プリンスホテル入社後、全日本入りしたが、バルセロナ五輪出場からはずれた。昨年、都市対抗野球で150㌔、日本選手権では156㌔のスピードを出して、アマ球界最速男といわれた。


高3夏の甲子園で3回戦まで進む。社会人時代は速球派のエースとして活躍。「最高157キロのスピードボールを見てもらいたい。日本人初の160㌔台を出すのが夢」


2001年


米国球界からのテスト生。5年前までは西武に在籍し、米大リーグにあこがれて海を渡った150㌔右腕が、中日にやって来た。「日本でも、今までやってきたことをやるだけ」己を信じて投げる強気の姿勢は、今年も変えるつもりはない。米球界ではトレードマークとなっていた金髪を黒く染め直しての再出発。投球も渡米前ほどの豪快さは陰を潜めたが、その分、制球力は増した。「日本で成績を残してもう一度、アメリカで挑戦したい」再渡米を視野に入れた新たな戦いに挑む。

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伊藤仁昭

2023-05-17 20:49:38 | 日記
1991年


背番号69 練習生 御殿場西高 昭和45年5月31日生
1メートル79、71㌔、右投げ左打ち
一次はプロゴルファーの道を歩みかけたが、野球への情熱はやはり捨て切れなかった。ことしはすべてが勉強。まず基礎を徹底し、これから第二の野球人生が始まる。

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厚澤和幸

2023-05-17 20:44:00 | 日記
1995年


昨年東都大学二部の春季節リーグで6勝0敗の好成績をあげ、MVPを獲得するとともに昨秋、国士館大を一部リーグに昇格させる立役者となった。一部リーグでは3勝3敗、防御率1.88の成績を残している。「自在にフォークボールをあやつれる」と豪語しているとおり、左腕不足のファイターズにあって先発ローテーション入りはもちろんだが、貴重なリリーフ要員としても期待される。同期の高校生に負けるわけにはいかない。

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