詩人の“読み”

2005年11月20日 | 健康・病気
  冬すでに路標にまがふ墓一基   中村草田男

11/20 の「増殖する俳句歳時記」に紹介されている
清水哲男さんのこの句の解説に深く感動した。
この句は、私の持っている
「合本 俳句歳時記 新版 角川書店編」にも載っている。

この句を最初に見て、それほどの印象はなかった。
しかし、清水さんの文章を読んでまいった。
いい句なんだな、とあらためて思った。
これが詩人の目なんだ、と感嘆した。
しょせん、私の感受性など足下にも及ばない。
まいりました。
でも、こういうショックはうれしい。
私も、こういう“目”を持ちたいものです。

  つはぶきはだんまりの花嫌ひな花   三橋鷹女

11/19 のこの句もいいですね。
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楽家で狂う

2005年11月20日 | 健康・病気
楽しみにしていた
高校時代の友人との邂逅がかなわなかった私は、
とうぜん、新所沢駅を出て楽家に向かった。
(何が“とうぜん”なのだ)

仕事からの帰り、私は楽家の前を車で通る。
そのときSさんがカウンターにいたのを見ていた。
今夜は東京に行くからSさんとは飲めないな、
とさびしく思ったのだが、
何の因果か飲むはめになってしまった。

楽家に入ると、“やっぱり”いました。
ありがたいです。
本とケータイをカウンターに置いて坐った。
「何にする?」とママ。
「久しぶりに、ホッピー飲もうかな」

「何の本ですか?」さっそくSさんが訊いてくる。
本好きの彼のことだから訊いてくると思った。
カバーがしてあるので裏表紙を開けてみせる。
「これがないもんですから」
「決断力」羽生善治著 角川書店。

それから、ダダ、ダーと本の話に突入する。
Sさんの嬉しそうな顔がいい。
読書量の少ない私だが、本の話は大好きだ。
「Sさんすみません。何か頼んでいいですか」
店に入って20分ほど、
料理を注文してないことに気がついた。
「1番のまぐろとえんがわの刺身、ママお願いします」

みっちゃんがきた。
「この前はどうも」
「会いたくねぇ奴がいっぱいいるな」
みっちゃんらしい挨拶だ。

ホッピーが終わり、日本酒「柏露」にした。
そのとき、S原さんが店に入ってきた。
2週連続で会えるとは…。
しかし、カウンターの席が埋まっているので、
彼は端に坐った。私からは遠い席だ。

相変わらずSさんとの話は続く。
そのうち、S原さんが壁にぶら下がったギターを取り、
得意のブルースを弾き始めた。久しぶりだ。
S原さんのギターに泣けてくる。
私は、友人と会えないことに落ち込んでいた。

一曲終わったところでギターを貸してもらう。
調弦をして、適当にコードを弾いた。
「おぎちゃん、何かやれよ」
なんて声に乗せられ弾き始める。
私の知っている曲のコードは少ない。
いくつかの曲を弾いてみんなでうたった。
どれもいわゆるフォークだ。
私は狂いました。
むかし、さんざん弾いてうたった曲をうたいまくった。
楽しかった。
こういう店があり、仲間がいてくれることが嬉しかった。
あとはどうなったか覚えていない。
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ぬかよろこび

2005年11月19日 | 健康・病気

3日前、茨城で高校の教師をしている友人から、
「金曜日に池袋で飲む」とメールがあった。
2年ぶりだったので嬉しかった。
そのときに来るもう1人の友人と連絡をとってくれ、ということだった。

作業所で仕事が終わった5時10分、送迎に出る前に電話した。
「今から所沢駅まで送迎に行くのでケータイに出られない」
「5時過ぎ、飲む所を連絡する」と前日メールがあったのだ。
プラダーウィリー症候群の22歳の女の子、
37歳のダウン症の男性、
自閉症の…?、いくつだったかな、21、2歳の男の子、
32歳の知的障害者、42歳の小児麻痺で車いすの男性。
5人を乗せて8人乗りのワゴン車のギアをDにした。

ハナキンの浦所(ウラトコ)バイパスは混んでいる。
助手席のプラダーウィリーの子がいろいろ話しかけてくる。
「明日は、オギワラさん休み?」
「休みだよ」
「芋煮会来ないの?」
「休みだもん、行かないよ。歯医者はどこにあるの?」
彼女は、5時半に歯医者の予約をしているという。
「………」
「東所沢駅の前、先?」
「………」
「湯の森(スーパー銭湯)の前?、先?」
「そのむこう」
「イノマタくんの住むあたり?」
「そこまで行かない」
「湯の森あたりでいい?」
「さとれーぜ」
「シャトレーゼ? ケーキ屋さんの?」
「そう」
「じゃ、そのあたりで降ろすから自分で行って」

所沢駅に着く。
ハッチバックドアを開けて、車いすを降ろし、
小児麻痺のKさんが車から降りる補助をする。
いすの取っ手を軽く押し、
「お疲れ様、また月曜日にな」
彼は、アパートのほうではなく、駅の方角に向かった。
彼なりの“ハナキン”があるのだろう。
ダウン症のSさんに、「明日は休み?」と訊く。
「休みで~す」おどけて右手を上げる。
まるで小学生だ。かわいい。
彼を初めて見る人だったら気持ち悪いと思うだろう。
でも、私とすればとっても“チャーミング”だ。

作業所に戻り、連絡帳に明日の仕事のことを書いた。
自分の車に乗る。
市場の出口近くの自販機で缶コーヒーを買う。
温かいのがない。冬になったというのに全部冷たい。
自販機会社の担当者の気が知れない。
車の中で、私はうきうきしていた。
高校時代の友だちにこうして会える。とても幸せなことだ。
話したいことがいっぱいある。
信号の赤がかったるかった。

家に着き、昨日書いておいた九想話を更新して家を出る。
飲んで帰りが遅くなったら九想話を書く気もしない。
そう思って昨日書いておいたのだ。
新所沢駅のホームでメールを書いた。
「19:39 の電車に乗る。そちらに9時前に着くと思う。
 遅くなって申し訳ないが待っていてくれ」
所沢駅に着く頃、池袋行きの特急があると車内放送があった。
それに乗れば10分は早く着くはずだ。
特急券売り場を探しているとき、ケータイが鳴った。
あわてて電話に出ると、友人だった。
「今日はやめよう。おれたち、6時から飲んでる。
 もう出来上がっちゃってる」

昨日、九想庵のトップページに、
「今から、東京で友人たちと会うので、
 今日は、早めに更新しました。」
と書いたが、会えなかった。
私の幸せなんてこんなものだ。
いつも水の泡となって消えていく。

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お風呂の話 3

2005年11月18日 | 健康・病気
今の住まいのお風呂は快適だ。
風呂を洗って、スイッチを「自動」にしておくと、
20分ほどで設定した温度のお湯が湯船にたまる。
釣瓶井戸から水をバケツで運び、
薪を燃やして風呂を沸かした昔を考えると、
なんと素晴らしいことなんだとしみじみ思う。
それにシャワーだ。
きれいなお湯が使えるということは幸せなことです。

その設備の恩恵をこうむって私は毎日お風呂に入っている。
私は、長湯はしないがお風呂は大好きだ。
湯船につかっていると、疲れが静かに消えていく。

月曜だったか、通所者を送迎しているとき
聴いていたラジオで「風呂嫌いな女」のことを話していた。
このところ、風呂に入らない女性が増えてきたそうだ。
「のだめカンタービレ」というコミックに出てくる
野田恵(略して「のだめ」)という女性が、
風呂が嫌いで髪は4日に一度しか洗わないらしい。

これまで「風呂が嫌いであまり入らない」
なんていう女性はいなかった。
いたかも知れないが、表だってはいわなかった。
それがこのマンガの影響か、公言する女性が増えてきたらしい。
時代は変わったなと思う。

別に、女性で風呂嫌いなひとはいてもいいと思う。
それは性格だからしょうがない。
しかし、そういう女性が市民権を得たとは“今”ですね。

それにしても、男のいろいろな市民権は奪われていくのに、
女性のは認められていく。
男の立場は、ますます弱くなります。
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お風呂の話 2

2005年11月17日 | 健康・病気
東京で暮らすようになって、お風呂は銭湯だった。
三畳の部屋をかわきりに、
アパートは東京の駒込の中で4回かわった。

銭湯は好きだった。
行くのは面倒だったが、行ってしまえば
身体もきれいになり、それなりに楽しんだ。
なんといってもお湯をふんだんに使えるのがよかった。
生家の風呂は高校生の頃、昔の状態ではなかったが、
お湯は湯船にしかなかった。
垢が浮いているお湯で洗うのがイヤだった。
夏は水で洗って出てしまうが、
冬だと寒くて、目をつぶって垢の浮くお湯で洗った。
思春期の私は潔癖性で、それが厭でイヤでしょうがなかった。
(現在もかなり潔癖性です。
 歳のせいで少しいい加減になってますが…)

行くのはだいたい一日おきだった。
あの頃(1970年代)はいくらだったんだろう。
それほど高くはなかったと思うが、
毎日は行けなかった。
仕事の終わりが遅かったり、酒を飲むことが続くと、
1週間ぐらい銭湯に行かないこともあった。
あれは辛かった。
狭い台所で、身体を拭いたこともありました。

銭湯の帰りに缶ビールを買って帰るのが楽しみだった。
アパートに冷蔵庫がない暮らしをしていた。
ささやかな幸せでした。
たまに居酒屋により、ホッピーなんかも飲みました。
もつの煮込みなどを食べ、“贅沢”だなと涙した。

かぐや姫の「神田川」が流行った頃、
同棲に憧れ、「小さな石けんカタカタ」鳴らしたかった。
しかし、そのときの私には無理なことだと諦めていた。
ところが、数年後、
ある女が私のアパートに住みついてしまった。
「♪ 貴方はもう忘れたかしら…」
なんて2人でうたいながら銭湯に行ったこともありました。
が、その女は、女房という怖いものになってしまった。
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お風呂の話

2005年11月16日 | 健康・病気
   水風呂に戸尻の風や冬の月   十 丈

増殖する俳句歳時記」のこの句を紹介している文章で、
清水哲男さんが、
“田舎にいたころの我が家の風呂”のことを書いている。
触発されて私も子どもの頃に入った風呂のことを書きたくなった。

五右衛門風呂でした。
薪でお湯を沸かしていた。
風呂に入るための台はあったが、身体を洗うところなどない。
誰も風呂の中で身体を洗っていた。
というより身体を手拭いでこすっていた。
考えればお湯は汚なくなっただろうね。
ただ、風呂場の隅で燃えていたロウソクが照明だったので、
暗くてあまりお湯に浮かぶ垢などは見えなかった。
風呂に水を入れるのが大変なので2、3日替えない。
家の外にある釣瓶井戸からバケツで運ぶのです。
重労働でした。

風呂場はお勝手の隅だった。
区切ってあるものなどない。
薪をくべる人と風呂に入っている人がじかに話ができた。
女の人などいやだろうなと思うが、
薄暗くて、あまりよく見えなかったから関係ないか。
そんなことはないでしょうね。

その風呂に一番最後に入るのが母だった。
井戸から運び水を入れ、薪で風呂を沸かした母でした。
一日中、田畑で百姓を父とやってきて、
晩飯の用意もしていた母だった。
風呂から出た母は、「いい風呂だった~」といつもいっていたな。

   煤湯にて母の一日過ぎてゆく   九想
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みっちゃん

2005年11月15日 | 健康・病気
今日、私としてはとてもイヤなことがあった。
生きていることがどうでもよくなった。
楽家に行くと、みっちゃんがいた。
話していて救われた。
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へちま亭文章塾

2005年11月14日 | 健康・病気
昨夜は2つの九想話を書いた。
1つはここにUPしましたが、
もう1つは「へちま亭文章塾」に投稿した。

課題は「衣」だった。
衣類にあまり興味のない私には苦手な課題でした。
最初は、20代からはいていたジーパンへの想いを書こうとした。
いや、27歳のとき8ヶ月だけやっていた
営業という仕事で着ていた背広のことにするかな。
まてよ、製造会社にいたときの作業服のことだったら、
エピソードは沢山ある。
それとも、子どものときから、
そして現在も冬には着ている綿入りはんてんのことを書いて、
おふくろのことを浮かび上がらせようか。
いろいろ悩んだ末に、作業所のことになってしまった。
#001-0055 「つぎはぎだらけのジーパン」です。
よろしかったら読んでください。
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姉からの電話

2005年11月13日 | 健康・病気
私には3人の姉がいる。
その一番上の姉に、どてらと綿入りはんてんを
縫ってもらったことは以前書いた。
その姉に先週、御礼としてお菓子とお金を送った。
いくらぐらいの御礼をしたらいいか分からないので、
とりあえず2万円にした。
あれだけのものだからそれぐらいかな、と思った。

長姉は、私より15歳上だから68歳になる。
私が小学4年のとき結婚して家を出たので、
あまり一緒に暮らした思い出はない。
田舎で小さな駄菓子屋をやっていて、
義兄は会社を退職してぶらぶらしていた。
34、5で独身の息子と3人で暮らしているのだが、
姉は、その息子の結婚のことをいつも心配している。

土曜日の夜の8時過ぎ、姉から電話がかかってきた。
「今日、届いだよ。こんなごどしなぐってもいがったのに。
 きれは母ちゃんの着物だし、綿代だけだら5千円もしねぇのに。
 あれはあづがっておぐよ」
「縫い賃だよ。大変だったっぺな、あんだげ縫うのは」
「いいんだよ。店番しながらやってんだがら」

姉は7、8年前、頭に腫瘍ができて手術してとった。
今年の夏は、腕を脱臼して大変だったという。
私も春に肩を脱臼したので、そのことを話した。
私は久しぶりに姉の甲高いやさしい声を聴き、
涙が出そうになった。
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木枯らし1号

2005年11月12日 | 健康・病気
今日、木枯らし1号が吹いたとラジオで聴いた。
昼間は太陽のおかげで暖かかったが、
夕方、日が暮れてからは寒かった。
「木枯らし」というと、思い出すのが、
わいわい雑俳塾に初めて投句した、

  自己嫌悪木枯らしの中ぶら下げて

という句です。
40歳のときのことなので、今から13年前ということになる。
九想庵の俳句のページの最初にある句だ。
この句から私の俳句は始まった。

俳句のことなど何も知らなかった。
ただ、そのころ山頭火が好きだった。
尾崎放哉も好きだったな。
ふたりとも自由律俳句のひとです。
そんなことから五七五の定型句のことは頭になかった。


分け入っても分け入っても青い山
うしろすがたのしぐれてゆくか
焼き捨てて日記の灰のこれだけか
ちんぽこもおそそも湧いてあふるる湯
いつも一人で赤とんぼ
まっすぐな道でさみしい
            -山頭火-

咳をしても一人
足のうら洗へば白くなる
こんなよい月を一人で見て寝る
入れものがない両手で受ける
墓のうらに廻る
            -放哉-

自由律俳句をつくったこともないのに、定型に戸惑った。
そのころ、何をしても自己嫌悪だった。
(今でもそうですが…)
そしてひねったのがあの句だった。

パソコン通信の句会に入るのに、
小心な私はパソコンの前で逡巡した。
それでもなんかそのときの暮らしを打開する意味でも、
「ええい、ままよ」と投句した。
「わいわい雑俳塾」という名前に後押しされた。
私のような俳句に無知な者でも受け入れてくれると“甘えた”。
塾長はじめそのときの参加者が温かく迎えてくれた。
そして、12年半続けた。
句会では素晴らしい人たちと出会えた。
何人かは他界してしまったが…。

12年間続けた大切なところを9月にやめた。
やめたくなかったがやめた。
“わいわい”とやっていた句会がそうできない雰囲気になった。
そして、やめた自分に“自己嫌悪”です。
しょせん私はだめな人間なんです。
ひとりで俳句をつくっていきます。
へたでもなんでも毎日一句つくるのを目標にします。
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