想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

「家路」の人々、その後

2015-06-13 19:36:20 | Weblog
(子猫、ちょっと毛がしっかりしてきた)

小鳥のさえずりで目覚めた朝。
森庭では鶯が盛んに鳴いて、前頭葉が肥大したヒトの鈍感な
感性にも刺激を与えてくれる。
起きなさいと誘われた鶯の声に、そうなんだ、とにわかに
ひらめいた事があった。


映画「家路」は忘れがたく、胸に刺さっていた。
それを数日前にビデオで再び観ていた。
そして、一周遅れで手にした日々の新聞を一昨日開いた。
そこには《秋元さんちの田んぼ》が特集されていた。

映画のエンドロールに秋元美誉(よしたか)さんの名前が
あったのは覚えていた。
秋元さんは農業指導その他諸々を担っただけでなく撮影に
大きく貢献した方だった。
この映画は秋元さんの「生きざまと重なった映画」である
と新聞の記事は伝え、これまでの五年と現在の暮らしぶり
について聞いていた。

脳裏に焼きついているのは、主人公役の松山ケンイチと
その母親役の田中裕子が田植えをするラストシーンだ。
映画の舞台は原発事故によって避難区域に指定された地域、
人が住んではいけないとされた警戒区域である。

秋元さんは警察や役場に退避を促されたが、屋内退避区域
であることを盾にして断った。
六頭の牛と仔牛に餌と水をやりに毎日川内村の家へ通った。
そして一か月ほどして奥さんと母上も一緒に家へ戻った。

秋元さんの稲作は有機農法である。
化学肥料から有機農業へ転換するのは容易なことではない。
田んぼの命は土なのだが、化学肥料で硬化した田んぼに自然
のめぐりを取り戻すのに数年かかる。
その間、雑草や害虫との闘わねばならないし、地続きの
周辺農家は化学肥料を使っていれば軋轢も当然ある。

秋元さんは独学で学びアイガモ農法を選択した。
収穫量が減っても続けた。その苦労がようやく実ってきて
今年こそはと期待したのが2011年の春のことだった。
放射能が降り注ぎ、秋元さんの田んぼのある地域も
作付禁止になった。

けれども秋元さんは作った。
制限を受けながら、米を作ることをやめなかった。
止めずにいたからわかることがあった。
試験的に作った田んぼを秋に稲刈りをして調べると
放射能は不検出(検出限界値以下)であった。



役人が禁止することに抗うことができる人は少ない。
ダメだと言われたら従うしかない、たいていの人が
そう思い、しぶしぶと諦め、未練をどこへ持っていけば
いいのかわからないままに立ち止まってしまう。
秋元さんはそれをしなかったのだった。
映画の主人公二郎もまたそういう人間であったが…。

二郎は農村から一度は逃げ出し、そして望郷の念断ち難く、
人が誰もいなくなった故郷へ帰ってきたのだ。
もちろん咎められる。けれどこっそりと苗代をつくり、
雑草が生い茂り荒れ放題の田をひとり人力で起し、
水を引きこみ、田植えをするまでこぎつける。

映画には、突然あわただしく故郷を捨てていかねば
ならなかった人々の暮らしがいくつか描かれているが
受け入れがたい現実に納得している人など一人もいない。
なにごともなくあたりまえに日が昇り、光と風と水と
先祖代々育んできた土があった。それが人生の土台で
あったことなどふだん考えもせず、都会に憧れたりも
しただろう。けれど、考える間もなくそれを奪われて
誰が奪ったのかも、誰に怒ればいいのかもあいまいに
待たされ続ける日々だ。

自死する人も描かれた。
実際に映画ではなく、実際に絶望の果てに納屋に書き置き
をして死んだ人のニュースがあったことを覚えているだろうか。

今なお自宅を失い仮設住宅や借り上げ住宅にいる人は
たくさんいる。
県外に避難したまま、けれども住民票を残したままの人も。
未来を描けないままの人生は、補償金だけで解決できる
はずもないのに、復興の文字ばかり前面に押し出されている。
復興はありがたいと心からいえる「復興」がそこにあれば
それに越したことはない話だが。
 
放射能汚染の土は剥がしても、もともと山に囲まれた土地
が多いのだから山の木々を撫でて吹き寄せてくる風、また
廃炉工事中の原発からたちのぼる不気味な蒸気や雲、粉塵
への疑念と不安は拭い去れない。
農民の田んぼだけではなく海も住宅地も暮らしていける
ようには戻らないまま、国の原子力政策は何事もなかった
かのように再び安全安心と繰り返している。
日々の新聞の一面はK排水路の問題であった。




朝の覚めやらぬ頭に鶯の声が響いたとき、あの主人公の
母親が田植えをする姿が脳裏に浮かんだ。
その時、人が生きることの条件がひとつづきの絵のように
わっと私の中に像を結んでいた。

自然の恵みというのは、人が作り出せないから恵みである。
恵みの中から、より宝物になるものを人は選びだしタカラを
我が宝とするのではなくタカラを大きく育てることを知った。
そして大きくなったタカラを喜び、喜びを天へ向けて感謝し
お天道様を忘れずに生きてきたわけだ。
百姓は、その昔、タカラから知恵を得て、その智慧を伝播
させていく役割であった。百の知恵が百の仕事を生んだ。

時とともに人が増え、知恵は売り買いされるようになり、
タカラを独り占めにする者も出てきた。
だが、お天道様が一番であることをわすれない人々もいた。
子々孫々、努力が無駄になることもあったが大事なタカラの
ことだけは伝え続けてきた。言葉でもしきたりでもなく
おじいさんおばあさんの知恵として。

土に触っていればいい。
土に触れないと、病気になる。
水は山から引いた水、土を掘って汲みあげた水がいい。
水道水は便利だと思ったが、病気になってしまった。
う~んと背をそらし、大きく胸を広げて息を吸う。
毎日、外へ出て風にあたり、雨にあたり、したい。

金を貰っても、土はない。
境界線を引かれて、景色が消えた。
そこでどうやって生きればいいのか、知らない。
わたしの身体はお天道様からいただいたから、
それ以外のことは知らないのだと、惚けていく母親が
訴えていた。

古道では、日本には言挙げしないという伝統があるという。
しないのではなく、しなくてもよかったからだということを
忘れ果てて、何もいわずにいたら放射能は降ってきた。
後悔と遺恨。

秋元さんの作った米は美味しいそうだ。
米がまったく作れなくなった人からすれば腹立たしい話
かもしれない。不幸中の幸いだと皮肉をいうかもしれない。

けれど、僻ごとを言うより、人がどう生きればいいかを
思い出すほうがいい。
なんとかやりようも見つかるのではないか。
目先の交渉だけでなく、今度こそ日本人のタカラを
胸に思い出し、出直すときだ。
福島の人も黙ってばかりはいなくなった。

米を買うだけの人(私もだが)も、米だけでなく、
命の糧がどういう廻りで我が元へ辿りつくのか、
銭金でどうにかするという方法以外のことも知っては
どうだろうか。子どもたちに教えてはどうだろうか。



お天道さまと古来から日本人が拝んできたのは
天神のことではなく地神であった。

人は地神の内にあって、渡り鳥のようではなく、地に
根ざした来し方をしてきた。
恵みをタカラとする智慧を天神に授かり、知ったからだ。
誰に教わらずともそのことを感じられた時代はとうの昔に
終わっている。
けれど、言挙げしなくても、行いによってそれをたぐり
よせることができる。ではどういう行いか。
それは内なる神が教えてくれる。


福島の困難は福島の人だけの問題ではなく、思えば
息が詰まりそうだが、かわいらしい声でさえずって
いた鶯だって安全無事というわけではないだろう。
福島で採取したツバメの巣(藁)からは高濃度の
放射能が検出されている。(ちなみに山形は不検出)
それでも夏を喜んで思い切りさえずる野鳥たちに
うなだれてばかりいては、申し訳が立たない。

森には金になりそうなものは何もない。
けれども生きていることを感じられる。
それがなによりもタカラである。








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