想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

猫に似てくる…

2015-11-03 15:35:34 | Weblog

浮かれ暮らしているときには気づかない。
困ってからあたふたとして、慌てるだけで
何もできない。
そーゆーひと、はい、わたくしでございます。



浮かれてはいない。浮かれる理由もなし、ただ…
ぼんやりして、ざわっとした周りになじまずツブに
なって沈んでいる…
というのが実際のところである。
子どもじぶんから治らない性質のような気がする。
三つ子のたましい。

ぼんやりとしているからおとなしいと思われる。
なのに、何も見ていないかというと、ちゃんと
見ている。ちゃんとというか、眺めている。
そして、急にとびついたり…また離れてじっとする。
じっとしてからがまた長いこと…。

ぼさーっとするな! とガッコのセンセにチョーク
投げられても、窓の外を見続けていたので
職員室に呼び出されたことがあった。
センセは首をかしげて、オマエなー、と言って
怒っているようで、やさしいようで、わたしを見て
くるりと椅子を回して背を向けた。
そのまま立っていたら、他のセンセが帰っていいよ
と言ってくれた。
困っていたのかもしらんと、センセくらいの歳に
なった今、思う。
治ってません。

帰っていいよと言ったセンセにそれから10年後に
オトナ同士として再会したことがあった。
よそ見してもテストの成績が良くて、あの時は
叱るわけにもいかなかったんだよと言った。
国語だけ満点、な。オレのは赤点だったな、と。
覚えていなかったので、へえええ~とびっくりした。
赤点というなら、一応点を貰えたのか…物理。

ガッコはいわば家からの避難所だった。
緊張の夜から解放され、昼間は教室でゆるんでいた。
勉強しようとはつゆとも思わない頃だった。
窓際のうしろの方の席で、景色を見ていたのは
しっかりと覚えている。



犬の代わりに猫が身近になったこのごろ、猫を
見るともなく見る。時には観察する。
そして、ある時、猫に似ている我に気づいて
「しまった」と我が不覚さにがっかりである。
な~んでか、わからないが似てしまっている。
猫の行動は謎めいている。
我が家ではいまだ解明されないことばかりだ。
テレビでやってる猫の飼い方や特質がここでは
あてはまらないことが多いのである。

猫がいるからといって、犬の不在を忘れたわけ
ではない。不在が存在の意味を鮮明にする日々。




古代史、古伝、記紀、それらに関連する著作の
数々を読んできた。
そして、いささか疲れてもいる。趣味ではなく
資料としてなのでいやもおうもなしに。
けれども、こんなことをしても無駄だという
気持ちが強くなって、限界に近い。
比較から比較、それを繰り返している著述ばかり
なので、元々のところが間違っているのなら
議論のための論に過ぎない。
書くためのタネに過ぎない。
思考の果てに発見のないものほどつまらないもの
はないのだが、安易に批判してはいけない。
ある人にとっては新しい出会いにもなるのだから。
しかし、疲れた。

つまらない、と言ってみたら、カメ先生曰く。
あなたは確証を得ないと書けない言えない人、
だから回り道ではないよ、確かめてようやく
気が済んだら、自分の言葉にできるでしょうと。

そうでやんす、とわかってはいたが…
言っていただいて少し気は晴れるが、
文明というか、文化というか、人がこしらえて
きたものは人が破壊する。それも容易に壊す。

壊されて葬られてきたものを蘇らせたいという
望みが、それもハンパじゃない強い望みが
つまらなさと反比例してふくれあがってくる。
みんなそうなのかもしれない…とも思うので
静かに仕事を続けなさい、と自分に言い聞かせる。

苦しい。
苦しい。
とても、苦しい。

せかいじゅう、この長い歳月、不在の時を
過ごしている。
認識することが存在の証ではないから不在は
正しい言い方ではないが。

消したのは誰かは、どうでもいいともう思う。
7世紀後半から8世紀にかけての変革期を経て
あれからというものの、より神に近づけたのは
詩人である。専門家である宗教者ではなく。
生きにくい世で肩身狭く、貧しく、清く、
日を送り死んでいった詩人たちが書き遺した
断片のなかに、証を探すほうがまだましである。









コメント
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