この秋に読んだ荒地の恋にまつわる、
というより華やかな田村隆一の影法師
だった北村太郎を描いた本。
「珈琲とエクレアと詩人」(港の人刊)
「いちべついらい 田村和子さんのこと」(夏葉社)
著者 橋口幸子さん。
橋口幸子さんのことはツイッターで知った。
港の人(出版社)から出ている方を先に
読み、その後しばらくして夏葉社から出た
「いちべついらい…」を秋の初めに知り
アマゾンで取り寄せて読んだ。
薄い小さな本なのだが、二冊を併せて
読むと密度が増し、息苦しいほどの内容
だった。
「荒地の恋」はそうだったっけ…と思った。
小説に描かれた北村太郎と北村本人と交流
した日々を綴った著者の記憶にある詩人は
かなり違った印象であった。
別人のようでもあった。
人は出会い方や関係性、スタンスで別人に
なる。なるというより映る。当然のことだ。
けれど、橋口さんが北村太郎の本質により
迫っている気がした。
書く事が生業であれば、何故書くかという
動機によって、書かれた作品の質は異なる。
質とは善し悪しという意味ではなく、焦点
がどこにあるか、グラデーションはどうか
というような差異である。
ねじめ正一の「荒地の恋」に登場した
北村太郎と田村和子とは別なふたりが
橋口さんの言葉で生きていた。
「ふたりは孤独に見えた」
ふたりとは和子と北村のこと。
好きな者同士が、解決せぬことを抱えたまま
二人で生きることを選ぶ。
一緒にいるから幸せになった、そんなふうに
完結するのでもなく、一人と一人がより添う。
心は結ばれてもふたりの身体の周辺には
あれこれも世俗のことが入り込んだままで、
それは時にはさざ波を立てる原因にもなる。
そのことを、ではどうするということもせず
ふたりでいつづけるだけだ。
離れないように。
それが孤独に見える時もあるのは、
何かを捨てているから。
捨てて、大事なものだけにしたから。
多くを望むのを止め
多くを持たないから。
若くはないふたりの恋は、若い人には想像も
できないくらい激しく、切羽詰まる勢いがある。
恋と呼ぶには辛く重すぎる、生命の燃焼だった。
北村さん、と呼びかけるように書く橋口さんの
表向きの顔とはたぶん違うであろう純粋と潔癖が
修羅場の生々しさを昇華させもして、凪の静けさ
を思わせてくれる。
そこまで辿りつくのに、どんなにか苦悩した
であろうかと、珈琲を飲みながら考えた。
エクレアを添えてみたが、エクレアは名前の
由来通りパクッと一口二口で食べてしまうから
北村太郎のいとおしそうな食べ方はうさこには
真似できない。
橋口さんの文章は、潮や樹々の香りもしていた
ことに気がついた。

ジョリコの声なき声が聴こえるので
ふと顔を上げればすぐそこにいた。
─────────────────
荒地といえば田村隆一を思い浮かべる。
若い時に買えた詩集は現代詩文庫(思潮社刊)
だった。小説よりも詩作品からの影響が
大きかった。中でも富岡多恵子。
荒地派では黒田三郎を唯一よく読んだ。
田村隆一の言葉はとうてい好きになれなかった。
だが記憶に残ったのは露出の多い有名人で
あったせいか。本棚にエッセイ、雑文を
集めた本などあり、なぜそこにあるのか
自分でも思い出せない。
90年代の女性誌がとても元気だった頃、
田村隆一はダンディというより危ない匂い
のする、知的で、魅惑的な不良老人として
世代を超え女性たちに人気があったようだ。
表紙でポーズをとる田村隆一は欺瞞の時代
の空気を、余すところなく伝えてシュール
であった。
一方、北村太郎は詩集以外には存在を
知らしめるものがなかった。
光を当てたのは同じく詩人のねじめ正一で
ある。直木賞作家でもあるねじめ正一の
小説の形を借りた評伝のような「荒地の恋」
(2007,文芸春秋刊)は、荒地派詩人たちの
人生を、恋という最も人間味が溢れる出来事
を切り取ることで描いてみせた。
荒地の恋というタイトルなのに、主人公は
モテ男田村ではなく朴訥そうな北村太郎である。
詩の言葉はシャープ、だが外見は普通だった。
恋多き人は田村の専売特許のようであるのに、
そっちではなく北村太郎が中心なのは、
いわゆるスキャンダラスな恋だったからと
いうことではないだろう。
小説の構成云々とは別の、ねじめ正一の詩才と
人柄を感じさせた。
男性目線の感が拭えないというのは置くとして。
というより華やかな田村隆一の影法師
だった北村太郎を描いた本。
「珈琲とエクレアと詩人」(港の人刊)
「いちべついらい 田村和子さんのこと」(夏葉社)
著者 橋口幸子さん。
橋口幸子さんのことはツイッターで知った。
港の人(出版社)から出ている方を先に
読み、その後しばらくして夏葉社から出た
「いちべついらい…」を秋の初めに知り
アマゾンで取り寄せて読んだ。
薄い小さな本なのだが、二冊を併せて
読むと密度が増し、息苦しいほどの内容
だった。
「荒地の恋」はそうだったっけ…と思った。
小説に描かれた北村太郎と北村本人と交流
した日々を綴った著者の記憶にある詩人は
かなり違った印象であった。
別人のようでもあった。
人は出会い方や関係性、スタンスで別人に
なる。なるというより映る。当然のことだ。
けれど、橋口さんが北村太郎の本質により
迫っている気がした。
書く事が生業であれば、何故書くかという
動機によって、書かれた作品の質は異なる。
質とは善し悪しという意味ではなく、焦点
がどこにあるか、グラデーションはどうか
というような差異である。
ねじめ正一の「荒地の恋」に登場した
北村太郎と田村和子とは別なふたりが
橋口さんの言葉で生きていた。
「ふたりは孤独に見えた」
ふたりとは和子と北村のこと。
好きな者同士が、解決せぬことを抱えたまま
二人で生きることを選ぶ。
一緒にいるから幸せになった、そんなふうに
完結するのでもなく、一人と一人がより添う。
心は結ばれてもふたりの身体の周辺には
あれこれも世俗のことが入り込んだままで、
それは時にはさざ波を立てる原因にもなる。
そのことを、ではどうするということもせず
ふたりでいつづけるだけだ。
離れないように。
それが孤独に見える時もあるのは、
何かを捨てているから。
捨てて、大事なものだけにしたから。
多くを望むのを止め
多くを持たないから。
若くはないふたりの恋は、若い人には想像も
できないくらい激しく、切羽詰まる勢いがある。
恋と呼ぶには辛く重すぎる、生命の燃焼だった。
北村さん、と呼びかけるように書く橋口さんの
表向きの顔とはたぶん違うであろう純粋と潔癖が
修羅場の生々しさを昇華させもして、凪の静けさ
を思わせてくれる。
そこまで辿りつくのに、どんなにか苦悩した
であろうかと、珈琲を飲みながら考えた。
エクレアを添えてみたが、エクレアは名前の
由来通りパクッと一口二口で食べてしまうから
北村太郎のいとおしそうな食べ方はうさこには
真似できない。
橋口さんの文章は、潮や樹々の香りもしていた
ことに気がついた。

ジョリコの声なき声が聴こえるので
ふと顔を上げればすぐそこにいた。
─────────────────
荒地といえば田村隆一を思い浮かべる。
若い時に買えた詩集は現代詩文庫(思潮社刊)
だった。小説よりも詩作品からの影響が
大きかった。中でも富岡多恵子。
荒地派では黒田三郎を唯一よく読んだ。
田村隆一の言葉はとうてい好きになれなかった。
だが記憶に残ったのは露出の多い有名人で
あったせいか。本棚にエッセイ、雑文を
集めた本などあり、なぜそこにあるのか
自分でも思い出せない。
90年代の女性誌がとても元気だった頃、
田村隆一はダンディというより危ない匂い
のする、知的で、魅惑的な不良老人として
世代を超え女性たちに人気があったようだ。
表紙でポーズをとる田村隆一は欺瞞の時代
の空気を、余すところなく伝えてシュール
であった。
一方、北村太郎は詩集以外には存在を
知らしめるものがなかった。
光を当てたのは同じく詩人のねじめ正一で
ある。直木賞作家でもあるねじめ正一の
小説の形を借りた評伝のような「荒地の恋」
(2007,文芸春秋刊)は、荒地派詩人たちの
人生を、恋という最も人間味が溢れる出来事
を切り取ることで描いてみせた。
荒地の恋というタイトルなのに、主人公は
モテ男田村ではなく朴訥そうな北村太郎である。
詩の言葉はシャープ、だが外見は普通だった。
恋多き人は田村の専売特許のようであるのに、
そっちではなく北村太郎が中心なのは、
いわゆるスキャンダラスな恋だったからと
いうことではないだろう。
小説の構成云々とは別の、ねじめ正一の詩才と
人柄を感じさせた。
男性目線の感が拭えないというのは置くとして。