幸田露伴の娘、文子(幸田文)が書いた
みとりの記「父・その死」を雪の日に読んだ。
山は、前日すっかり春の気配だったから
つくしんぼうやふきのとうを愛でながら
やや強い風で土ほこりが舞う森庭を散歩
した。ゆっくり歩くのは久しぶりだった。
水仙は何種類か植えてあって、早々と
咲いているのもあれば、まだ固い蕾み
のもある。それも、さあこれからよ、と
勢いをつけ、あたり全体に花の生気が
放たれているようだ。
温みに敏く、強い風にもめげずに
すくと茎を伸ばしているさまに
こちらのへこたれた気持ちがほんのり
明るくなった。
紅梅もほころんで、花がたくさん、
赤ではなく濃い桃色なので
童女の節句祝いみたいだ。
暮れるころから降りだした雨は雪に
変わった。予報通りだった。
でもこんなに降るとは思わなかった。
朝、窓の障子を開けると一面真っ白で
驚くやらうれしいやら。
いや、うれしいいいい、だった。
今年は一度しか積もるほどの雪はなく
そのまま春になるのはあんまりだわと
思っていたから、義理を果たすみたいに
降り積もった雪に喜んだ。
名残の雪。いつも四月の初めくらいに
降るがこんなに降ったのは珍しい。
やや水気の多い重い雪だった。
これで山櫻のつぼみがきゅっと絞まり
大きなしっかりした花を咲かせて
くれる。 花の時にここに居ればの
話だけど、見る前から次は櫻だと
思うとうれしい。
父は母に看取られて死んだ。
離れたところで暮らしていた私も
たまたま帰省して父の病室にいたが
仮眠している間に逝ってしまった。
ほんとうに親不孝のわがまま娘で
あった。その後の十数年も今も、
変わらず、そのことを思うと悲しい。
幸田文のみとりの記は、娘の玉が
書き付けておいた備忘録のような
メモを頼りに、二年半くらい後に
書いたとあとがきに記されている。
父親が高名で人望厚い大作家で
あるという特殊な環境で、父と娘と
いう肉親関係以上の心構えを持た
ざるをえなかったことのその胸の内
が詳細に綴られていく。
露伴という父から、自分は愛されて
いないという悔しさと諦めと意地に、
ぐるぐる巻きになり、それでもやはり
露伴の娘は娘として捨てられない
誇りがあった。
それは、露伴が幼い頃から厳しく
行儀作法から暮らしのことまで
女親代わりに刷り込み、仕込んで
きたことが、醸成したものだとよく
わかる。米とぎ、洗濯、火炊きばかり
でなく格物致知を極めて教えられ、
身に染みついていた。それが父から
承け継いだものだと自覚しないまま
行っているのだった。
江戸弁でまくしたてるように書かれ
また暮らしの中で当然あった
であろう教養ある言葉遣いが混ざる
書きようで、幸田文の鼓動の音が
聞こえるように、よく理解できた。
「父がどんな顔をしていたか知らない。
私は見ることができなかったから。
これが私が父にしゃべくった千万の
うその最後のものになった。」
という文を読んだとき、私はわっと
泣いた。
数十年も前に死んだ父のことを
いまさらに思って、口惜しさに
泣いてしまった。それが自分の
ほんとうの気持ちだった。
幸田文は、いや、文子は父露伴に
愛されていたことをみとりの最期に
覚る。戦後間もない頃の真夏の暑い日、
二間しかない借家で病死した文豪を、
それらしくりっぱに送るということのみ
思いつめ、力の限り精魂尽くし、倒れん
ばかりに尽くして父を送った。
その間際に父の愛を覚った。
それがすがすがしく思えた。
わたし自身は父に愛された娘だ。
なのに父の望みを何一つ果たさず、
与えられたことの何かを知らずにいた。
私を案じながら死んだ父に、申し訳なく
供養したが、ほんとうの父を理解する
までずいぶん時間がかかった。
甘えが強く抜けきらない分、時がかかった。
年を取ればとるほど、父の思いの深く
川を流れる水のような生き様だった
ことを思い知る。
1930年、満州国で馬賊と共産党と
日本軍の間を縫いながら自力で生きた
青年の父を想像すると、老年期近くに
なって授かった末っ子の私を、大きな
膝に乗せて甘やかしていた、胸の内に
ほんとうは何があったのかと思う。
父の見てきたものを私は知らなすぎた。
父さんは、黙って働いていた。
父が老いていたことが切なく、
私が幼すぎたことが、悲しくなる。
子どもの私が父に順ってしっかり
教わったと記憶しているのは、
手をとって教えてくれた筆順と
あいさつ口上と礼であった。
雪の厳しさをよく知る父は、
この春の雪をどういうだろう。
何も言わず、静かな面持ちが
眼に浮かぶ。
みとりの記「父・その死」を雪の日に読んだ。
山は、前日すっかり春の気配だったから
つくしんぼうやふきのとうを愛でながら
やや強い風で土ほこりが舞う森庭を散歩
した。ゆっくり歩くのは久しぶりだった。
水仙は何種類か植えてあって、早々と
咲いているのもあれば、まだ固い蕾み
のもある。それも、さあこれからよ、と
勢いをつけ、あたり全体に花の生気が
放たれているようだ。
温みに敏く、強い風にもめげずに
すくと茎を伸ばしているさまに
こちらのへこたれた気持ちがほんのり
明るくなった。
紅梅もほころんで、花がたくさん、
赤ではなく濃い桃色なので
童女の節句祝いみたいだ。
暮れるころから降りだした雨は雪に
変わった。予報通りだった。
でもこんなに降るとは思わなかった。
朝、窓の障子を開けると一面真っ白で
驚くやらうれしいやら。
いや、うれしいいいい、だった。
今年は一度しか積もるほどの雪はなく
そのまま春になるのはあんまりだわと
思っていたから、義理を果たすみたいに
降り積もった雪に喜んだ。
名残の雪。いつも四月の初めくらいに
降るがこんなに降ったのは珍しい。
やや水気の多い重い雪だった。
これで山櫻のつぼみがきゅっと絞まり
大きなしっかりした花を咲かせて
くれる。 花の時にここに居ればの
話だけど、見る前から次は櫻だと
思うとうれしい。
父は母に看取られて死んだ。
離れたところで暮らしていた私も
たまたま帰省して父の病室にいたが
仮眠している間に逝ってしまった。
ほんとうに親不孝のわがまま娘で
あった。その後の十数年も今も、
変わらず、そのことを思うと悲しい。
幸田文のみとりの記は、娘の玉が
書き付けておいた備忘録のような
メモを頼りに、二年半くらい後に
書いたとあとがきに記されている。
父親が高名で人望厚い大作家で
あるという特殊な環境で、父と娘と
いう肉親関係以上の心構えを持た
ざるをえなかったことのその胸の内
が詳細に綴られていく。
露伴という父から、自分は愛されて
いないという悔しさと諦めと意地に、
ぐるぐる巻きになり、それでもやはり
露伴の娘は娘として捨てられない
誇りがあった。
それは、露伴が幼い頃から厳しく
行儀作法から暮らしのことまで
女親代わりに刷り込み、仕込んで
きたことが、醸成したものだとよく
わかる。米とぎ、洗濯、火炊きばかり
でなく格物致知を極めて教えられ、
身に染みついていた。それが父から
承け継いだものだと自覚しないまま
行っているのだった。
江戸弁でまくしたてるように書かれ
また暮らしの中で当然あった
であろう教養ある言葉遣いが混ざる
書きようで、幸田文の鼓動の音が
聞こえるように、よく理解できた。
「父がどんな顔をしていたか知らない。
私は見ることができなかったから。
これが私が父にしゃべくった千万の
うその最後のものになった。」
という文を読んだとき、私はわっと
泣いた。
数十年も前に死んだ父のことを
いまさらに思って、口惜しさに
泣いてしまった。それが自分の
ほんとうの気持ちだった。
幸田文は、いや、文子は父露伴に
愛されていたことをみとりの最期に
覚る。戦後間もない頃の真夏の暑い日、
二間しかない借家で病死した文豪を、
それらしくりっぱに送るということのみ
思いつめ、力の限り精魂尽くし、倒れん
ばかりに尽くして父を送った。
その間際に父の愛を覚った。
それがすがすがしく思えた。
わたし自身は父に愛された娘だ。
なのに父の望みを何一つ果たさず、
与えられたことの何かを知らずにいた。
私を案じながら死んだ父に、申し訳なく
供養したが、ほんとうの父を理解する
までずいぶん時間がかかった。
甘えが強く抜けきらない分、時がかかった。
年を取ればとるほど、父の思いの深く
川を流れる水のような生き様だった
ことを思い知る。
1930年、満州国で馬賊と共産党と
日本軍の間を縫いながら自力で生きた
青年の父を想像すると、老年期近くに
なって授かった末っ子の私を、大きな
膝に乗せて甘やかしていた、胸の内に
ほんとうは何があったのかと思う。
父の見てきたものを私は知らなすぎた。
父さんは、黙って働いていた。
父が老いていたことが切なく、
私が幼すぎたことが、悲しくなる。
子どもの私が父に順ってしっかり
教わったと記憶しているのは、
手をとって教えてくれた筆順と
あいさつ口上と礼であった。
雪の厳しさをよく知る父は、
この春の雪をどういうだろう。
何も言わず、静かな面持ちが
眼に浮かぶ。