今日のお題は、二重の基準論・再考。
二重の基準論の意義 - 社会科学研究会
======【引用ここから】======
憲法学において、「二重の基準論」(double standard)といわれる理論が存在します。
----(中略)----
この考え方によれば、経済的自由を制約する立法は民主政治による是正というプロセスに期待して、裁判所は積極的な介入を控えるべきだとされる一方で、精神的自由を制約する立法は民主政治のプロセス自体を損ねるおそれがあるため、裁判所の積極的な介入が必要であるとされます。
----(中略)----
アメリカで行われたこの数々の”ニューディール立法”に対して最高裁判所は、私有財産権および自由な経済活動を守るという理由から違憲判決を続出させました。しかし、それらの違憲判決は国民の批判を受けることになりました。”裁判所の違憲立法審査権は、一体何のために、誰のためにあるのか”ということが問われたのです。ニューディール政策は、経済的・社会的に不利な立場にいる国民を救うために実施しようとされた政策です。そのような政策を実現するための立法を違憲と判断するということは、最高裁判所は国民の利益を考えていないのではないか、と考えられたのです。1937年、ついに最高裁判所は、今までの契約の自由を保護してきた判例を覆しました。経済政策立法についての違憲審査において、最高裁判所は方向転換を図ったのです。この一連の動きは、”憲法革命”といわれることがあります。この出来事以降、最高裁判所は、経済政策立法に対する違憲判決を控えるようになりました。これが、憲法学における二重の基準論の誕生です。
======【引用ここまで】======
そもそも、ニューディール立法は国民のためになったのでしょうか。
ニューディール政策は成功だったのでしょうか。
アメリカの失業率は、1933年に25%となった後、ニューディール政策を開始した1937年に14%へと回復します。
ところが、この効果は一時的なものに過ぎず、翌1938年には19%に逆戻り。
失業率が本格的に回復するのは、第二次世界大戦により軍需工場や戦場で人手が必要になった頃からでした。
法律が作られるとき、前文や第1条の中に
「国民生活の向上のため」
「福祉の向上のため」
「経済的・社会的弱者保護のため」
と美辞麗句で飾ることがよくあります。
しかし、そのとおりに実現するとは限りません。
逆に終わることも多いのです。
政府の意図する立法目的・社会正義が、短絡的な政策によって実現できるほど多数の人々からなる社会は単純ではないのです。
この繰り返しが、結果として人々の便益を増し資源のより望ましい分配を可能にします。
長期的にみた時、資源を効率的に分配する方法として、市場より優れた方法はおそらく存在しないでしょう。
政府にできることは、ごくごく短期間の、分野や対象者を限定した利益誘導くらいのものです。
Aから金を奪ってBに配ったり、Aの活動を制限してBのみに特権を与えれば、Bの状態は改善されますが、それはAの不利益を前提としています。
じゃあ次は不利益を受けたAに金を配るためにCから金を取ろう、その次はCに特権を認めるためにBの権利を制限し・・・という事を繰り返すと、人々は、
「自分の生活を向上させるためには、他人に対し有益な商品やサービスを提供し、その交換で自分にとって有益な商品やサービスを手に入れるという迂遠な方法よりも、投票をチラつかせて政治家に泣き付いた方が手っ取り早い」
と思うようになります。
そして、この過程で、政府による奪う権限、配る権限が拡大します。
政府の権限や取り扱う金額が増え、政府規模が拡大し、政府職員も増えることになります。
大きな政府の誕生です。
この扉を開いたのがニューディール政策です。
ニューディール政策を社会主義という母親から産まれた子供とすれば、助産師として母親の胎内からニューディール政策を取り上げたのが「二重の基準論」であるというのが私の認識です。
あるいは、憲法という自由の堤防が「二重の基準論」という穴から徐々に決壊し、ニューディールを始め社会主義的介入政策の氾濫を止められなくなったと言った方が良いでしょうか。
世界恐慌という特殊状況の中、短期間の効力すら疑わしいニューディール政策を肯定するために誕生した特殊理論を、長期間にわたって憲法の通説として取り扱い、憲法が持つ自由の基礎法としての機能を弱めてきたことを、憲法学に携わる人々は反省すべきです。
二重の基準論の意義 - 社会科学研究会
======【引用ここから】======
内閣法制局のあり方は問題にされるべきだと思います。日本国憲法は必ずしも、内閣法制局の存在を予定していません。内閣法制局を置く日本の制度が一定の成果をあげてきたことは事実だと思いますが、これからもこのような制度でよいのかと問われることは有益であると思います。日本国憲法第九条の解釈にしても、”憲法の番人”であるはずの最高裁判所ではなく、官僚である内閣法制局長官が表明してきた憲法解釈の方が影響力を持ってきたことに表れています。内閣法制局長官による憲法解釈は技術的な側面が強すぎ、硬直的な解釈である点も指摘されることがあります。内閣法制局による憲法解釈や事前審査によって一貫した法体系や法解釈が維持されてきた反面、最高裁判所こそが国民のための”法の番人”であるという事実は忘れられてきた部分があると思います。最高裁判所こそが”法の番人”であるという事実は、もう一度確認される必要があるのではないでしょうか。
======【引用ここまで】======
内閣法制局が今のように「法の番人」としての地位を築いたのか。
それは、「二重の基準論」に沿って裁判所が国会・内閣の定めた経済政策に大きく譲歩することを繰り返した結果、
「裁判所は憲法判断をしない。実質的には、政策立案する内閣による『ここまでなら合憲』という線引きが重要になる。それを決めているのは内閣法制局だ。」
という運用が積み重ねられたからです。
最高裁判所が「法の番人」の地位を内閣法制局から取り戻すためには、「二重の基準論」を捨て、経済政策についても憲法上の自由権・財産権規定に沿った判断を裁判所がやっていく必要があります。
経済活動は単独で存在しているのではなく、その活動に携わる人々の意思・思想・表現と密接に繋がっています。
精神的自由と経済的自由を切り分けることができる、国会・内閣が立案した経済政策にはノータッチという「二重の基準論」の発想が最高裁判所の地位を暴落させ、いち官僚に過ぎない内閣法制局長を実質的な「法の番人」たらしめているのです。
裁判官のみなさん、安心してください。
「私たち裁判官は経済政策を判断する材料を持っておらず、経済政策を適切に判断する能力を有していない」
なんて卑下する必要はありません。
国会議員にしろ、中央省庁の官僚にしろ、地方自治体にしろ、みんな経済政策を適切に判断する能力なんて持ち合わせていないのですから。
二重の基準論の意義 - 社会科学研究会
======【引用ここから】======
憲法学において、「二重の基準論」(double standard)といわれる理論が存在します。
----(中略)----
この考え方によれば、経済的自由を制約する立法は民主政治による是正というプロセスに期待して、裁判所は積極的な介入を控えるべきだとされる一方で、精神的自由を制約する立法は民主政治のプロセス自体を損ねるおそれがあるため、裁判所の積極的な介入が必要であるとされます。
----(中略)----
アメリカで行われたこの数々の”ニューディール立法”に対して最高裁判所は、私有財産権および自由な経済活動を守るという理由から違憲判決を続出させました。しかし、それらの違憲判決は国民の批判を受けることになりました。”裁判所の違憲立法審査権は、一体何のために、誰のためにあるのか”ということが問われたのです。ニューディール政策は、経済的・社会的に不利な立場にいる国民を救うために実施しようとされた政策です。そのような政策を実現するための立法を違憲と判断するということは、最高裁判所は国民の利益を考えていないのではないか、と考えられたのです。1937年、ついに最高裁判所は、今までの契約の自由を保護してきた判例を覆しました。経済政策立法についての違憲審査において、最高裁判所は方向転換を図ったのです。この一連の動きは、”憲法革命”といわれることがあります。この出来事以降、最高裁判所は、経済政策立法に対する違憲判決を控えるようになりました。これが、憲法学における二重の基準論の誕生です。
======【引用ここまで】======
そもそも、ニューディール立法は国民のためになったのでしょうか。
ニューディール政策は成功だったのでしょうか。
アメリカの失業率は、1933年に25%となった後、ニューディール政策を開始した1937年に14%へと回復します。
ところが、この効果は一時的なものに過ぎず、翌1938年には19%に逆戻り。
失業率が本格的に回復するのは、第二次世界大戦により軍需工場や戦場で人手が必要になった頃からでした。
法律が作られるとき、前文や第1条の中に
「国民生活の向上のため」
「福祉の向上のため」
「経済的・社会的弱者保護のため」
と美辞麗句で飾ることがよくあります。
しかし、そのとおりに実現するとは限りません。
逆に終わることも多いのです。
政府の意図する立法目的・社会正義が、短絡的な政策によって実現できるほど多数の人々からなる社会は単純ではないのです。
【自由市場を歪める政府介入】
個人の自由な活動、自発的な取引が市場を成立させています。この繰り返しが、結果として人々の便益を増し資源のより望ましい分配を可能にします。
長期的にみた時、資源を効率的に分配する方法として、市場より優れた方法はおそらく存在しないでしょう。
政府にできることは、ごくごく短期間の、分野や対象者を限定した利益誘導くらいのものです。
Aから金を奪ってBに配ったり、Aの活動を制限してBのみに特権を与えれば、Bの状態は改善されますが、それはAの不利益を前提としています。
じゃあ次は不利益を受けたAに金を配るためにCから金を取ろう、その次はCに特権を認めるためにBの権利を制限し・・・という事を繰り返すと、人々は、
「自分の生活を向上させるためには、他人に対し有益な商品やサービスを提供し、その交換で自分にとって有益な商品やサービスを手に入れるという迂遠な方法よりも、投票をチラつかせて政治家に泣き付いた方が手っ取り早い」
と思うようになります。
そして、この過程で、政府による奪う権限、配る権限が拡大します。
政府の権限や取り扱う金額が増え、政府規模が拡大し、政府職員も増えることになります。
大きな政府の誕生です。
【二重の基準論から始まった個人の自由の侵食】
非効率で大きな政府への道を、アメリカの憲法は閉ざしていました。この扉を開いたのがニューディール政策です。
ニューディール政策を社会主義という母親から産まれた子供とすれば、助産師として母親の胎内からニューディール政策を取り上げたのが「二重の基準論」であるというのが私の認識です。
あるいは、憲法という自由の堤防が「二重の基準論」という穴から徐々に決壊し、ニューディールを始め社会主義的介入政策の氾濫を止められなくなったと言った方が良いでしょうか。
世界恐慌という特殊状況の中、短期間の効力すら疑わしいニューディール政策を肯定するために誕生した特殊理論を、長期間にわたって憲法の通説として取り扱い、憲法が持つ自由の基礎法としての機能を弱めてきたことを、憲法学に携わる人々は反省すべきです。
【法の番人はいずこへ】
さて、冒頭のブログでは次のように続きます。二重の基準論の意義 - 社会科学研究会
======【引用ここから】======
内閣法制局のあり方は問題にされるべきだと思います。日本国憲法は必ずしも、内閣法制局の存在を予定していません。内閣法制局を置く日本の制度が一定の成果をあげてきたことは事実だと思いますが、これからもこのような制度でよいのかと問われることは有益であると思います。日本国憲法第九条の解釈にしても、”憲法の番人”であるはずの最高裁判所ではなく、官僚である内閣法制局長官が表明してきた憲法解釈の方が影響力を持ってきたことに表れています。内閣法制局長官による憲法解釈は技術的な側面が強すぎ、硬直的な解釈である点も指摘されることがあります。内閣法制局による憲法解釈や事前審査によって一貫した法体系や法解釈が維持されてきた反面、最高裁判所こそが国民のための”法の番人”であるという事実は忘れられてきた部分があると思います。最高裁判所こそが”法の番人”であるという事実は、もう一度確認される必要があるのではないでしょうか。
======【引用ここまで】======
内閣法制局が今のように「法の番人」としての地位を築いたのか。
それは、「二重の基準論」に沿って裁判所が国会・内閣の定めた経済政策に大きく譲歩することを繰り返した結果、
「裁判所は憲法判断をしない。実質的には、政策立案する内閣による『ここまでなら合憲』という線引きが重要になる。それを決めているのは内閣法制局だ。」
という運用が積み重ねられたからです。
最高裁判所が「法の番人」の地位を内閣法制局から取り戻すためには、「二重の基準論」を捨て、経済政策についても憲法上の自由権・財産権規定に沿った判断を裁判所がやっていく必要があります。
経済活動は単独で存在しているのではなく、その活動に携わる人々の意思・思想・表現と密接に繋がっています。
精神的自由と経済的自由を切り分けることができる、国会・内閣が立案した経済政策にはノータッチという「二重の基準論」の発想が最高裁判所の地位を暴落させ、いち官僚に過ぎない内閣法制局長を実質的な「法の番人」たらしめているのです。
裁判官のみなさん、安心してください。
「私たち裁判官は経済政策を判断する材料を持っておらず、経済政策を適切に判断する能力を有していない」
なんて卑下する必要はありません。
国会議員にしろ、中央省庁の官僚にしろ、地方自治体にしろ、みんな経済政策を適切に判断する能力なんて持ち合わせていないのですから。