1週間のんびり過ごしたカサーレスのキャンプサイトを去ってメリーダへ向かう。走行中に何組かのコウノトリのグループが飛んでいるのを見かけた。スペインも寒くなってきたから皆で集まって暖かいアフリカ辺りへ避寒に行くのかと思った。ところがこの夜のローカルニュースでは、コウノトリが帰ってきた、と人々が集まって写真やビデオを撮っているので、一体どこから帰ってきたのだろうと不思議でならない。
メリーダはローマ時代、イベリア半島(スペイン、ポルトガル)で一番栄えた町で、当時人口4万人と言われている。2千年後の現在人口5万4千人とあまり変わらない。4万人の人々が生活し人生を楽しんだことを想像すると、ローマ人は本当にすごい人達だったのだと心から尊敬してしまう。
カサーレスから1時間ほどでメリーダのキャンプサイトがある。午前中に着いたので、町までのバスの有無を聞くと日曜日はないと言う。キャンパーで町の中心地を目指すと途中に立派なアクアダクト(水道橋)が目に付いた。そのすぐ近くに駐車して、一番近い観光名所がこのとてつもないアリーナだった。この広大なアリーナは当時馬車のレースの行われたところで、映画ベンハーに馬車の競技があったが、それがこのようなアリーナだと説明されていた。
アリーナから歩いて約10分、旧市街の真ん中に円形劇場と半円形劇場が隣り合わせにある。入場料を払って入るが日曜日とてローカルのスペイン人が多かった。特に若い人たちが多く、若者もこんな遺跡に興味があるのかしらと思ったが、この半円形劇場では夏の間音楽祭や、オペラなどが上演されるという。
なんてラッキーな人たちだろう。先祖から受け継がれた最高の遺産で今でも楽しめるなんて。
この半円劇場の再建された柱やデコレーションなどは、トルコのエフェシスの遺跡を思い起こさせる。
ローマは狼に育てられた双子の兄弟が作り上げた伝説があり、狼が双子に授乳している像はローマとルーマニアで見たが、この町にもあった。この町もローマの末裔として誇りを持っているのだろう。
円形劇場のすぐ近く、この町では一番の見所と言われるローマン博物館は日曜日は無料だが2時に閉館、月曜日はヨーロッパのほとんどの博物館が閉まる。ここもその例外でない。あきらめてこの町を去ることにして、キャンパーで出発したが、道を間違え狭い道をあちこち走り回った挙句、町の反対側の川淵に出てしまった。そしてここのローマ橋にびっくり仰天。グアデアーナ川にかかるこの橋は全長783メータ、60からのアーチで成っているという。
今までローマ人の建設した立派な橋は何度と無く見ているが、こんな長い橋は見たことがない。普通で100メータもあったら長いほうだ。
このローマ橋の横に、アラブの城砦、アルカザーがあり、どうしても見たいと駐車場を探すが旧市街のほうはどこも満杯。とうとう川向こうへ行きローマ橋の近くに駐車できた。この橋を渡って早くしないと4時にアルカザーが閉まるかもしれないとあせりまくって、亭主はそっちのけ、7百メータを走ったがその長いこと。5時閉館と聞いてやっと落ち着き見て周ったが、まだ800年くらいしか経っていない城砦の中はほとんどが瓦礫のやま、川淵の城壁は強健そのものだった。
この石畳をアラブの人たちが闊歩したんだなーなどと思いながら歩き回った。
5時過ぎて次の町まで行くには遅すぎるので、今夜はメリーダのキャンプサイトで一泊しようと道を引き返した。
メリーダを出た朝は霧が深くて、見残したメリーダの町を見ようと計画していたのを変更して、真っ直ぐポルトガルへ向かうことにした。この道は7年前の12月ポルトガルからスペインへと通った道で、雨模様で寒かった。ポルトガルの国境まで深い霧は晴れなくて、入国とほとんど同時に空は真っ青、太陽が暑い。
国境から14Kmのエルヴァスの町は、この町の表看板と言うべき巨大な水道橋が、メインストリートの横に伸びていて決して見逃すことがない。7年前は雨の中駐車場が見つからず、この水道橋の写真を撮ってすぐスペインへ向かった。インターネットに拠ればこの7Kmの水道橋は15-17世紀に作られたものだと言う。
今日の素晴らしい天気に時間もたっぷり、そして水道橋のすぐ横に駐車することが出来、2時間ほどこの町を探索することにした。
7年前この町の歴史が知りたくてインターネットを調べたことがあったが、観光地でないここは町の名前さえ載っていなかった。今日水道橋から上手に歩くと堅固な城壁に囲まれた中世の町並みが現れた。
ポルトガルの町はスペインのそれよりも白さが際立って鮮やかだ。狭い一方通行の通りを車が走り、ところかまわず駐車している。広いオリーヴ畑の中に盛り上がった岡の上は、教会や、城砦が見える。
観光案内所の壁のポスター(上の写真)はこの町から数キロ離れた岡の上の城砦で星型は上空写真でなければわからないだろう。観光案内所に英語の説明書が無くてここがセント・ルジア城砦としか判らなかった。
町のスクエアはサンタ・マリア教会(旧エルヴァス大聖堂)の前でこの日は骨董市が開かれていた。どこかのお屋敷からもってきたのではないかと思われる素敵な家具があったけど、もちろん買えない。
このエルヴァスの旧市街は大きな変形ひし形の城壁で囲まれた岡の上の町で、その一角にあるエルヴァス城からの眺めは格別素晴らしい。周囲の岡はコルク樫の林とオリーヴ畑で、どこもかしこもからからに乾燥しているように見える。城自体は内部が崩れ落ちた13世紀のもので城砦とタワーが残っていてとっても安い料金で一周できた。
城砦を出た町外れの公園は鈴なりのオレンジの木に囲まれた中にベンチが点在していた。
今回がスペイン、ポルトガルの旅では3回目、ブルーの線は2004年10月から12月の旅でスペインは一般観光地をめぐったもの、赤の線は昨年11月から今年3月までで北スペインからポルトガルを主に周ったもので、今回は今まで行かなかったところを中心にしているが(黒線)、今いるところが昨年クリスマス、正月を過ごしたクォテイラのキャンプ場。
私たちも渡り鳥と同じで、以前に行ったキャンプ場へ行く。コウノトリは昨年作った巣に帰ってゆく。キャンパーを停めた辺りは、イギリスのキャンパーが多く、昨年おしゃべりしたイギリス人が何組もいて歓迎してくれた。クリスマスの間はキャンパーを置いたまま英国の家族のところへ帰る人たちも多い。
ヨーロッパ人のクリスマスに対する心構えは、日本人がお盆や正月に対する故郷へ帰って家族や親戚、友達に会うのに似ている。
キャンプサイトでもキャンパーやキャラバンの周りに色とりどりの電球や飾りを下げ、ポインセチアの鉢植えを並べているところもある。ヨーロッパ人にはクリスマスは25日だけでなく、12月1ヶ月がクリスマスなのだ。
クォテイラのキャンプ場には大きなユーカリの木が多く、その下を通るとさわやかな香りがする。12月がこの白い花の満開時期で、今が一番良い時期。
1月末から3月にかけてポルトガル、スペインはミモザの花が辺りを彩るが、このサイトのミモザはもう少しで開花しそうなくらいつぼみが膨らんでいる。
12月8日はポルトガルの祭日、この日は宗教祭日でカソリックのこの国では聖母マリアを祭る行進がおこなわれる。午後2時ごろ町へ出てみたがあまり人出はないし、車もほとんど走っていない。魚市場の近くの港へ行ってみると、青と白の旗で飾った漁船や、観光船が30艘ほど並んでいる。一艘の船の舳先に、花に囲まれたマリア像がすえつけられ、やたらと太った若い僧侶がバイブルを読み上げ、集まった人たちは神妙に聞いている。
3時過ぎてから船は数艘づつ港を離れ海岸に平行に走ってゆく。日本なら太鼓を叩いたり歌を歌ったりしてもっとお祭り気分が上がるだろうに、ここは何もない。堤防の突端ではお祭りに興味のない若者たちが魚釣りに夢中で、中サイズの鯖や,小鯛のようなのが釣れていた。
このお祭りはつまらないなと思いながら海岸線のプロムナードへ行ってみるとどんどん人々が集まってくる。
船は港とは一番遠い海岸に集まり何をしているのかが全然見えない。4時過ぎにプロムナードに集まった人たちがぞろぞろ港の方角へ移動している。船も港へ戻ってゆく。
プロムナードの人々の間にマリア像を担いでいる数人の男性がみえた。
海を渡ったマリア像は旧市街の教会へ帰ってゆくらしい。すごく期待してきたから、この簡単なお祭りにはすごくがっかりしてしまった。
クェテイラから南ポルトガルの主要都市ファーロを挟んだ反対側の町オルニャオは、昨年2回も滞在したところで、馬鹿でかいキャンプサイトはヨーロッパ北部からの避寒者でいつも活況を呈している。
ここが気に入ったのは、サイトのすぐ近くの野鳥観察公園と活気あふれる土曜マーケット、そして魚料理が美味しいマーケット周囲のレストラン。
昨年はここにWifiがあるのを知らなかった。レセプションから奥行き500メータ以上ある松林の中にキャンパーを停めたが、Wifiの電波が受けられるところは、ウオータータワーからレストランの間だという。
レストランの庭のテーブルでブログを送付する。毎日良い天気が続き、日中気温は20度を越える。ヴァレンシア以来もう2週間以上も晴天が続いているが、内陸の朝夕は急激な気温の変化で身を切るほど寒かった。
この南部ポルトガルは、昨年もそうだが穏やかで暖かい。
皆この地で6ヶ月はゆっくり落ち着いて、夏だけ故郷へ戻ってゆく。キャンプサイト料金も夏の7-8月は高騰して若者や家族連れの短期滞在者で占められる。
ここオルニャオのサイトは電気込みで一泊9.5ユーロ(8.1ポンド)と驚くほど安い。おまけに設備が整っていて文句なし、しいて言えばレセプションまでが遠すぎる(文句を言えば罰があたりそう。ポルトガルの神様ごめんなさい)
最近はEU圏内ではユーロ不安定、ギリシャに次ぎ、ポルトガルの経済が破綻寸前まで行っているという。昨年から見るとガソリン代が高騰し,1月からは準高速道路も料金を徴収するそうだ。
土曜日は港にある常設マーケットの周囲に野菜や日用品の市がたち、何としても見逃すわけにはいかない。
昨年も買った500グラム入りのアーモンドを、昨年と同じ年寄り夫婦の出店から買う。言葉はわからないからジェスチャーだが、おじいさんがこのアーモンドは俺が木からとったものだと言う。
オリーヴの漬物は量り売りで、大中小の金属の枡で買う。いろいろ種類があるが私はやっぱり黒オリーヴが一番好き。大枡いっぱいのオリーヴが2.5ユーロ、うれしい。
柿もこの地方でも取れるが、スペインほど立派なものではなく、皆自分の庭で取ってきたものを売っているみたい。1kgで1.2ユーロからだからロンドンのマーケットと変わらない。今が取り入れシーズンのオレンジは1kgが40セントから80セントくらい幅があり、サイズや種類で違うらしい。ここのオレンジは新鮮で味が違う。ここにいる間は毎日オレンジを食べ続ける。
ポルトガルは豚肉が安く、このマーケットの肉屋さんは売っている肉の半数は豚肉、そして鳥、牛、羊肉は豚肉より格段に高い。ほとんどが塊で日本のようにきれいにスライスされた肉はあまりない。
魚市場は込み合っていた。ぎらぎら光る大きな太刀魚などどうして料理するか判らない。
1kgの鯵と巨大なカツオを買ってしまった。カツオは近海では取れないはずだから鮮度が落ちていたがやっぱり魚は最高。
12月10日は満月、午後から曇りだった空が夜中の1時澄み渡った。月光であたりは明るく静まり返ったキャンプサイトを照らしていた。
オルニャオのキャンプサイトに落ち着いてもう10日も経ってしまった。
毎日特別することも無いが、どこに居ても生活していることに変わりない。掃除、洗濯は毎日こまめに、三食はほとんどキャンパーでクッキングしている。たまにお昼にショッピングに出ると、町のレストランやスーパーの簡易食堂で昼食を食べる。外食は塩分が多いのがたまに傷。町のクリスマスデコレーションもあちこち見られ、キャンパーにも派手な電気の飾りが見られる。ショッピングセンター内のクリスマスツリーはいろいろ工夫を凝らしてあり、特に卵の空箱を利用したツリーは良く出来たと感心した。
去年この町へ来てはじめの印象が、町の空き地いたるところの落書きで何と落ちぶれた町だろうと思ったのに、今ではこれらの大きなグラフィティ(落書き)は完全な芸術だと思うようになった。
この巨大なキャンプサイトで数百台のキャンパーやキャラバンに住む人たちは、ほとんどが北ヨーロッパからの60才台以上のゴールデン・エイジの年寄り?この50人乗りのバス・サイズのキャンパー(10メーター以上ある)がこのサイトに5台も停まっている。彼らは6ヶ月くらいはここに住み着いているのらしいが、こんな大きな車がポルトガルやイギリスの田舎道や街中を走ると思うと恐ろしい。
食器洗い場へ行くと出会った人たちと気安くおしゃべり、英語の出来ないフランス人のおじさんはチーナ(中国人)?と聞き日本人と知ったらすぐ”おはようございます”、こんばんはございます”と片言の日本語連発。翌朝自転車で”おはようございまーす”と走り抜けていった。
スーパーマーケットの支払い場でオブリガード(ありがとう)と言うととっても喜ばれる。
ポルトガル人のお客まで一緒ににっこりして、此方まで嬉しくなる。市場でだってこうして地元の人たちに混じって平気で買い物が出来る。
今日、スーパーで買い物中に亭主が寄ってきて、”あれだからイギリス人は嫌われるんだ”と言う。キャッシャーではこの店はクレジットカードは受け付けないと言うのに、態度の大きいイギリス人の男性は”ヴィザはどこでも有効なのに君はヴィザなど知らないのか!!”と怒っている。 何をえらそうに・・・・とは私の独り言。
スペインもそうだがポルトガルでもスーパーの中で生鮮魚の売り場が充実している。一匹の魚でもえらやはらわた、うろこ、尻尾など全部とってくれる。このサーヴィスは市場ではあまりない。以前にスペインのスーパーで私の前に小イカを1kgほど買った客がはらわたを抜いてもらっていたから30分以上も待たされて、頭にきたことがあった。
今日は新鮮な鯛があったから1匹買って刺身に、頭と中骨は味噌汁にした。亭主にはステーキとチップス。お互いにハッピイでこれに越したこと無し。
この巨大なサイトの中間点でしかWifiが使えない。レストランの庭がWifiの使える最端でその日によって、電波の強弱が激しくて、つながらないことも多い。
ウォータ・タワー近くの道端のベンチでコンピューターをつけて、マレーシアの友達とスカイプ交信。すっかり楽しんで大声で話していたら、通りかかったサイクリストの夫婦が去年クエテイラで親しくなったアイルランド人の二人だった。
偶然の再会に大喜び、ポルトガルでアイルランド人、マレーシア人、イギリス人、日本人とのおしゃべりなんて何と国際的ではないか。
この10日間に雨が降ったのが1日だけ、ほとんど空が澄み渡って、キャンプサイトの上空を舞う2羽のコウノトリを見て何と幸せだろうと思う。
昨日は暖かくて半そでで海辺へバードウオッチングに出かけた。海は遠浅で貝拾いの人たちがあちこち見える。遠くに一塊のへら鴨の群れが見えたが、土手を行く3人の人たちを恐れて飛び立っていった。今年は去年ほど野生の鳥が見えないのが気になる。
オルニャオのサイトへ来て今日で20日、お正月からはスペインへ行き10日からモロッコへ渡るつもりだから、もう一度ここオルニャオのブログを書いておこう。
もう3週間以上晴天が続いていて、今では青空が当然のようになったが、暖冬とは言え暗いイギリスの冬を考えると、英国に住む友達に申し訳ない気になってしまう。
クリスマスはキャンパーの中でチキンの丸焼きとローストポテト、疑似ヨークシャプディングで亭主が大喜びした。
クリスマスの翌日、運動も兼ねサイトから7-8Km位離れたフセタ(Fuseta)の町まで散歩に行った。サイトの横の鉄道線路は海岸とほとんど平行に走っていて、線路の海岸側には家は一軒も見当たらない。
南ポルトガルは冬の平均温度が18度、夏は40度にもあがると言う。働きもののポルトガル人は線路と海岸までの広大な湿地帯を塩田に変えた。
冬季は人影もないこの塩田では、かもめの群れや足長の海鳥がえさをあさっているばかり。
道端には金盞花(マリーゴールド)の原種やこの地方独特の黄色や白の野生の花が咲き乱れ、純白の家々の垣根には冬と言えどもカラフルな花が咲いている。濃い緑の葉の間から金色のオレンジやみかんが実っているのが見える。
線路脇の田舎道を歩いていて20分に一本くらい来る電車に手を振ると、運転手も手を振ってピーポーと汽笛を鳴らしてくれる。もうずいぶん昔に日本でもこんな情景があった。
フセタの町は新市外が横に広がりどこの家も純白、狭い旧市街に入ると昔からの壁タイルを張ったテラスド・ハウスになる。道端のカフェーでは年寄りが集いお茶を飲みながらおしゃべりに余念がない。こんな平和な年の暮れ、この地方の人たちは幸せだなーと思う。
帰りはたった一駅だけれども2時半の電車に乗った。下りの電車は落書きがひどくみすぼらしく見える。この地方の電車はプラットホームよりずっと高くて3段の階段を登らなければならない。体の不自由な人たちは一体どうするのだろうか?最近のヨーロッパでは身障者の為にあらゆる便宜が図られていて、電車もバスも車椅子のままで乗降できるというのに・・・・・。キャンプサイトだって身障者用のシャワー、トイレが設置されていて、何人かの車椅子のお年寄りが住みついている。
12月26日夕方6時過ぎ南西の空に新月が輝いた。去年と同じ時期だったと思うに、昨年は東北に新月が昇った。
今年は史上最悪の災害の多い年だった。激動の歴史の変遷があった年でもあった。2012年は一体どんな年になるのだろうか。ポルトガルの陽だまりで平和な世界を願っている。
12月31日、オルニャオのキャンプサイトを出てクォテイラへ帰っていった。
オルニャオの町を去る前に海岸の土曜マーケットへ行った。このマーケットはクリスマスイヴにもこの年末にも大盛況の賑わいを見せていて、スペインへ行ってもすぐスーパーへ行かなくても済むよう、果物や野菜、それに丸々太った生きのよい鯖2匹も買った。鯖は一匹をしめ鯖にしてお正月のご馳走。オレンジの盛りで値段がだんだん下がり1kg40セント(35ペンスくらい)になった。柿とオレンジを数キロ買い、オリーヴの漬物も買い込んで欲しいものが全部手に入って嬉しい。
新年は日本では除夜の鐘がなるが、世界各国で夜中に花火が上がるようになったのは、2000年祭からだと思う。テレビではオーストラリア、ホンコン、シンガポール、モスクワ、パリ、ロンドンと時差があるから東のほうから順に花火が上がり始め、最終はニューヨークで祝典は終わる。各国の首都であがる花火は絢爛豪華で他国に負けない気概がある。
ここクォテイラの町では、海岸べりで夜中12時から花火があがる。こんな小さな片田舎の町では日本の町内会の花火ほどにも華やかさはないかもしれないが、わずか10分間を大いに楽しませてもらった。
スペイン、ポルトガル、イタリア、ギリシャ、アイルランドのユーロゾーンでは経済危機が叫ばれて久しい。アイルランドでは若者たちがオーストラリアやアメリカに移民し、ポルトガルではブラジルへの移民が相次いでいるとのニュース。こんなに経済危機でも年末に決して安くない花火をふんだんにあげるこの国民性に感激した。
この夜夕食をアイルランド系のレストランで食べようと10時まで待って行ったのに、この夜だけは予約制で断られた。仕方がないから海岸べりのあいているレストランを探し廻って入ったところは、メニューの数が極端に少なく満員の客はほとんど飲み物だけで騒いでいた。食べ物は私が料理できるようなものばかりで、値段は高くがっかり。11時半ごろから海岸の歩道はワインボトルを持った人たちでいっぱいになり、12の花火と同時にいたるところで歓声が上がった。私たちもワイン1本を持って行ってたから新年のお祝いに海辺で乾杯。半月が輝いていた。
明けましておめでとうございます。 皆様にとって良い年になりますよう。
1月2日スペインへ向けて出発、昨年12月半ばまで無料だったポルトガルからスペインへ行く高速道路は無人有料道路になり、その支払いの仕方がはっきりわからない。だから田舎道を通ってスペイン国境までたどり着いた。昨年も行ってとっても気に入ったスペインのエル・ロシオを目指す。
もう一月近く晴天が続いて、砂漠の中に造られたようなロシオの町は砂埃が舞う。昨年行ったときは大雨の後だったせいもあり、砂で出来た道路のいたるところに大きな水溜りがあって車が泥水を跳ねて走っていた。
昨年町の隅々まで歩き回って写真を取り捲ったものだけど、今回は感激度がずいぶん薄れてしまった。それでも湖に映る純白の町は何度見ても素晴らしい。広大な湖にはフラミンゴは数えるほどしか見えず、がっかりしてドニャーナ(Donana)自然公園へ足をのばした。
今回気づいたのはドニャーナ自然公園がユネスコに指定されていたこと、この自然公園の中のロッシナ・ビジターセンターは3.5kmの木道が松林や、湿地帯、草原に延びており、湖のほとりにわらぶき屋根の野鳥観察小屋が設置されている。
松林の中は涼しく、草原に出ると直射日光が暑い。私たちの真上でたくさんのコウノトリが舞っている。どうしてあんなにたくさん集まっているのか不思議だけれど、とにかく上を向きっぱなしで写真を取り捲った。首が疲れていったん休み、1分ほどして見上げたらあんなにたくさん舞ってたのが手品のように消えてしまってまるで狐に化かされたみたい。
夕方になるとこの湿地帯は帰宅する水鳥で賑わうらしいが、太陽ぎらぎらの日中ではカイツブリくらいしか目に付かない。又ゆっくり木道を散歩しながら日向にワラビが20センチくらいに伸びているのを見つけた。もちろん公園内では草花すべて採ったり折ったりは禁止されている。
このロシオの町も町外れのキャンプ場も真平らの砂地にあり、四方を見渡しても松林より高いものはなく、太陽は地平線から上がり地平線へ沈む。この時期、この町へ訪れるのはキャンプサイトへ来た人たちばかりだが、夏の競馬シーズンや、宗教祭典時には一躍100万人もの人たちで賑わうという、面白い町だ。
砂地のエル・ロシオを去って、いったんセビリアまで行き、セビリアの環状線からカディスへ向かって南下した。この道も昨年通ったところだから、特にカメラを構えることはなかったけれど、途中の遠い山並みと若草の萌えるような耕作地の色合いが早春を思わせる。
ミセス・ナヴィに又近道を指示されラス・カベザス・デ・サン・ホアン(Las Cabezas de san juan)の狭い通りに入り込んでしまい、亭主のぼやくこと。でも遠目には素晴らしい町だった。
カディスへ分かれる高速道路わきは塩田か湿地帯のように大小の水田様の水たまりが見え特に一つの池にはフラミンゴが群れをなしていた。エル・ロシオのフラミンゴがここまで南下してきたのじゃないかと思った。でも今まであれほど多くのフラミンゴを見たことがない。残念ながら高速で走っている車中からは写真は撮れなかった。
ロッシェのキャンプサイトはカディス(Cadiz)から20kmほど南に位置する。ポルトガルより南にあるせいか日中は気温が上がって、20分も日向ぼっこをすれば暑くて真っ赤になってしまう。この地方には冬がないのかしらと思う。きれいに耕された畑にはえんどうの芽がしっかり育ってきているし、こんなに大きなオレンジの木はポルトガルでもギリシャでも見たことがない。
このロッシェキャンプサイトの周辺も砂地できれいな松林がどこまでも続いて、縦横に散歩道が伸びている。この小太りのポーニーは青い目をしていて人なれしているが横につながれた番犬が吠え立てて、馬泥棒を警戒しているらしい。
松林が終わると膝丈くらいの草地が海岸近くまで広がり、野生のローズマリーが青い花を満開にしてミツバチを誘っている。ローズマリーはラム肉をローストするときに一緒に焼くと香りがいい。NHKの番組でハーブティーにも使えるというので束にして採って来た。
コニル港(Port Conil)は昨年も散歩に来たところ、向かいの灯台の辺りに野生の白い水仙が咲いていたのが忘れられない。港に流れ込む河口脇に赤さびた碇がたくさん置かれている。去年もそのまま変わっていないからもう使われていないのだろう。去年は一体何に使うのだろうと不思議でならなかったが、これは地中海独特のマグロ漁の網を固定するのに使われる。しかし多年の乱獲でマグロがほとんど捕れなくなってこの碇は捨て置かれたまま赤さびているのだ。
松林の途切れた広い野原一面のピンクのじゅうたんは、芝桜様の野生の小花で ”やあ今年も咲いていたのね” ととっても嬉しかった。
上部スペイン、ポルトガルの地図でブルーの線は2004年のキャンプ旅行、赤線は2010年の旅、今回の旅は黒線で表したが良く見れば3回ともポルトガル南部だけは重複している。それだけ南ポルトガルは気候がよく居心地もよく、どれだけ居ても飽きることがない。
ヨーロッパ各地からの元気な退職者がこの地で5-6ヶ月越冬するのも当然かも知れない。
1月上旬から2月10日過ぎまでに雨が降ったのが2時間ほどだったと言うからこの国は今年の夏は旱魃になるのじゃないかとひそかに心配している。でも私たちの居る間は降って欲しくないと勝手なことを考えている私。毎日青空だけどTシャツで歩けるようになったのは2月も半ば過ぎからだった。
キャンプサイトから町へ行く途中の道端に、あるこの巨大な植物は下のほうから花が咲き始め、ずんずん上に進んでいるが、あまりの重さに自分の体重が支えられ無いようだ。無数の花にはミツバチが這い回って蜜を吸っている。このサイトに3週間居て、毎回町へ出かけるたびに花を観察していたが、まだ3分の2くらいまでしか花が咲いていなかった。
ある日キャンパーの近くの木に緑の小さなカメレオンが上っているのをドイツ人の隣人が見つけた。周りのキャンパーからもいろいろな国籍の人たちが見に来てひとしきり賑やかだった。ポルトガルにもカメレオンが生息するなんて思いもしなかった。このカメレオン、周りの騒ぎを屁とも思わず悠々と木の上まで登り、木の葉と同化してしまったので、翌朝はどうなったものかは誰も知らない。
私たちのキャンパーの後ろには誰も住んでいない英国車のキャラバンがあり、その人たちが残していった猫が居る。この猫を周りの人たちが毎日餌をやって面倒見ているらしい。その餌を狙って毎早朝、尾長にブルーのきれいな鳥がたくさんやってくる。猫としては自分の食料を奪われるのが面白くないらしい。木の上に登ってこの鳥達を狙っているが、賢い鳥は猫をからかって木の先端を飛び回り、まるでトムとジェリィの漫画を見ているみたいだった。
散歩の途中に見かけたポルトガルの案山子、ところ変わると案山子もこんなにファショナブルになる。まだ日の暮れない空に浮いている銀色の三日月、確か去年もこの頃に月を写したっけ。
オルニャオのサイトのすぐ近くには野鳥保護地域があり、散歩がてら数回訪れた。千鳥やかもめや鴨に混じって20数羽のフラミンゴが餌を食んでいる。それにしてもあの細い足で片足で立って眠れるなんて・・・・・・。
オルニャオから隣の町フゼタ(Fuzeta)まで遠出した。片道2時間で線路脇の真っ直ぐな農道(塩道?)の横から海までは塩田が広がっている。2月末のこの国は春の真っ盛り、野生の花が色とりどり、野鳥も多種見られる。
真平らな塩道もフゼタ近くになると岡のうえに真っ白の町が見えはじめ、道路と平行に走る電車は一時間に一本くらい、電車の胴体の落書きが余りにひどい。
オルニャオのキャンプサイトには3週間いた。あまりに大きなサイトで奥行きが深く、入り口の行け受付へたどり着くまで500メータ位は歩かねばならない。それに大きな松の木がほとんどを覆っていて、テレビの衛星中継受信機を設置するのが一苦労。けれどこの町はサイトを一歩出れば一般市民の生活の場であり、スーパーマーケットも数軒あるが、毎週土曜日の港の魚、野菜市場の賑わいが素晴らしい。いつもは一緒に出歩く亭主が土曜日だけは一人で行って来いという。今までどこかで待っていると言うと気が気でないが、土曜日だけは自由に時間をかけて楽しむことが出来る。
この青野菜はポルトガル独特のものだそうで、千切りにした葉を袋詰めにして売っている。それはスープの具にするらしい。珍しいから買ってみたら、なかなかいける。普通のキャベツの緑の部分はよく煮込まないと青臭いか生では苦かったり辛かったりする。ところがこれは癖がなくていったん火を通すとすぐ食べられる。大いに気に入って市場の売り手のおじさんに野菜の名前を書いてもらい種を買ってきた。
今年の春はこれを植えてみよう。1990年代トルコで初めてロケットを食べてみた。その時はあまりの美味しさに2皿も食べてしまった。その翌年ヨルダンへ行き種を500gも買った。それ以来10年ほどロケットが我が家の庭で育っていた。最近ではイギリスのスーパーでもロケットは珍しい野菜ではないが当時は見当たらなかった。この葉牡丹のお化けのような野菜もヨーロッパへ広がってゆくのかも知れない。
1970年代、ズッキーニ(又はコジェットと呼ぶ)は日本では売られていなかった。珍しいものだからと金沢の両親に種を送ったが食べ方を知らせなかった。両親は借りていた大きな畑にこれを植え、どんどん育ってあんなまずいものは無いと苦情を言われた。金沢にはとてもよく似た野菜で漬物用のかた瓜がある。かた瓜は実を大きく実らせて収穫するが、ズッキーニは実の小さい,柔らかいのが身上。巨大な実があまりたくさん生って、村の人たちが見に来たそうだ。
オルニャオも飽きたからとアーマセル・デ・ペラのサイトへ移った。このサイトは8年前に気に入って1週間以上も滞在していた。昨年も来た時にWifiが無いと言われあきらめて町に近いもう一軒のサイトへ行った。このサイトは設備がよく松ノ木も少ないから日当たりが良い。冬の長期滞在者にはうってつけの素晴らしいサイトだ。でも夏は40度以上になるこの地では,住み辛いだろう。
このサイトの片隅にイギリスの国旗が翻るキャラバンがあり、住人のハリーというおじいさんと”8年前におしゃべりしたね”と言ったら”君の名前は覚えてないけどこの向かいにキャンパーが停まっていたね。”と言われた。
8年前ハリーの奥さんが癌で亡くなり、それでも一人でここに来ていた。今年で17年もポルトガルで越冬していると言う。
毎日晴天の続くある日、近くのサルガドス湖へキャンパーで出かけた。この湖はフラミンゴやいろいろな野鳥が群れていて立派な木道が設置されている。しかしベンチやトイレの設備が無くて、一日中楽しむには日陰もない。
草原に羊の骸骨があった。野犬に襲われたのかもしれない。昨年ここへ来たときはちょうど羊の出産時期で白い母羊から生まれる2頭の子羊が白と黒で不思議でならなかった。この日は羊はどこにも見当たらない。
この長い木道の脇の砂地にポツポツ咲いているのが小さな野生のアイリスで高さも10-15センチくらい。まるで星のようだ。
木道を通るバードウオッチングのグループや、自転車で走る年寄り夫婦、乳母車を押しておしゃべり夢中の若者たちなどでここは賑わっている。
3月の満月は昇ってくるのが遅く8時過ぎて遠くの岡の上に赤い月が出た。隣のペラ村の教会の塔と月だけが見える幻想の夜。
この南ポルトガルで一番珍重されているブルーダック。昨年は葦の茂みで満足な写真が写せなかったが、今回は川の対岸の葦の茂みで新芽や根を引き抜いて食べていた。この色はさすがに珍しい。
アーマセル・デ・ペラ の町からキャンプサイトは1km近く離れている。道端にはあらゆる野の花が咲き乱れている。3月はイギリスでも水仙、クロッカス、桜などが花盛りだろう。
キャンプサイトのプールも水ぬるむ季節になったとは言え、いまだ泳いでいる人を見かけない。すぐ近くのテニスコートでは元気な年寄りがテニスに打ち興じている。
さすが暑い国だからゴムの木が10数メーターに伸びコンクリートに負けない巨大な根を張っている。ゴムの木は観葉植物だとしか観念がないがこれほど大きくなるとやっぱりゴムを取るのはこの木だと思わせる。
町の入り口にカトリックの共同墓地がある。お墓を彩る花は全部造花で,生花は枯れるだけでなく残った水に蚊が湧くからオーストラリアでは禁止されていた。きっとこの国でも同じ理由だろうと思う。時に気がついたのが生前の写真を墓に貼ってあること。それも死者の若かりし頃の一番良い写真に違いない。
今年は2月になってヨーロッパ全体に寒波が襲った。特に地中海沿岸から中東にかけ大雪だった。ドナウ川が凍ったのも何十年ぶりだとのニュース。北アフリカでもアルジェリア、モロッコに雪が降った。今日3月19日のニュースではイランが雪に見舞われているそうだ。
昨年は2月に満開だったミモザの花が今頃辺りを金色に染めている。 きっと北ポルトガルではまだつぼみが固いだろう。南国の昼顔は濃い桜色で野原や土手を這っている。英国の昼顔にこれほど濃い色を見たことがない。
2-3月に満開だったアーモンドの花はもうすっかり散って、青い梅に似た実がつき始めた。アーモンドはこの地の特産品で秋に収穫される。殻をむいたアーモンドがマーケットでは1kg、6ユーロ(約600円)で売られている。
通りの家の庭の枇杷のみが熟れ始めた。まだ早稲なのだろうけど、枇杷がロンドンに出まわり出したのもここ20年以内。枇杷の実などまだまだ知らない人たちが多い。食べた後の実を土に埋めるとしっかり芽がでてくる。観葉植物には葉が大きすぎるけれど、もう30年ほど前一本だけ鉢植えにして前庭で育てていた。高さ1メーターくらいで鉢の大きさも一人では持ち上がらないくらいだった。
2週間のホリディから帰ってみると、鉢ごと盗まれていた。それまで枇杷など興味のなかった亭主が、枇杷の木を見るたび”あれはうちの木じゃないか”という。
サルガドス湖へは野原の細道を歩いて1時間ほど、道端や野原が野の花で彩られている。エニシダは巨大な潅木になり今が真っ盛り、白い花が雪のように咲き誇る。
左上は珍しい白っぽいミモザ。
この国で見られないのが満開の桜で、たまたまワシントンのポトマック川沿いの八重桜が満開なのをニュースで見て、我が家の周囲の桜に思いをはせた。
ポルトガルからスペインへの道はいろいろあるが、一番の近道は世界遺産の指定されたエヴォラ(Evora)を通ってスペイン国境の町バダホス(Badajos)へ抜ける道、この道は過去何度も行き来しているので今回の帰国には緑の線で道を示したい。
バダホスから昨年一週間滞在したカセーレスまで直線の近道を通る。一日450Kmを一気に走り抜けた。
この初日は相変わらずのポルトガルの春、空はぬけるほど青く国道は車が少ない。乾燥した畑はオレンジ、オリーヴ、ブドウ、コルク樫の林のみ、これがどこまでも続いている。
時々中世の立派な城下町が現れたりするが、バイパスを通り抜けるだけ。エヴォラの北では大理石の採石地が続き、大小の石はまるでゴミ箱をひっくり返したみたい。
バダホスからカセーレスへの一直線の道(EX-100)は起伏も少なく、町や村も少ないため、交通量が少なくて快適なドライブだった。
カセーレスの町の入り口で大きなスーパーに入りポルトガル、スペイン最後のショッピング。昨年スペインからポルトガルへ行った時、ディーゼルはスペインのほうが安かった。昨今のポルトガルの財政困難と石油の世界的高騰でポルトガルはこの2年ほどガソリンやディセルの値段が上がっている。だからスペインまで来て入れたのに今回はスペインのほうがもっと高くなっていた。
カセーレスのキャンプサイトで一泊し翌朝セゴヴィア(Segovia)の北東400kmのリアザ(Riaza)のキャンプサイトを目指す。
地図ではカセーレスの北から斜め直線にスペインを横断する国道N110が一番早そう。
3月21日は私たちの39年目の結婚記念日、空も快晴、カセーレスから35kmほどで大きな谷川を横断、このテージョ河はポルトガルのリスボンに流れ込むと聞きリスボンを懐かしく思い出しながら先を急ぐ。
N110の始まるプラセンシア(Plasenncia)の町は特別大きな大聖堂が町を圧巻している。立ち寄ってゆけないのが残念。ここから谷川に沿った道は二車線の田舎道で両側には高い山が連なりその山の両壁面が山頂近くまでしっかり耕やされ段々畑になっている。そしてここは村から村へとすべての段々畑が桜の木で、まだほとんどはつぼみだが、さくらんぼの大収穫地なのだと気がついた。
さくらんぼの実る桜の花は観賞用の桜ほど華やかさが無く、早いのは白っぽい花が咲いている。でもこれだけの山肌を埋め尽くす桜が一辺に咲いたら見事だろう。
道は進むに従い谷間が迫ってきて前方の山に暗い雲が湧き上がってきた。そして深い谷間の道は急激なジグザグの登り道になり、山頂の1275メータでは冷たい霧雨になっていた。
山頂の見晴台から見下ろす風景も、晴天だったらどんなに素晴らしいだろう。急激な天気の変化と直線であるはずの道路に驚きつつ、通り過ぎた城下町の薬局の看板の温度計が0度を示していた。
そこから200kmほど天気はどんどん悪くなり道路わきは雪で白くなり部分的にボタン雪が降ったりした。でも道路はぬれた状態で水蒸気が立っていて雪が積もることはなかった。
急な雪でキャンプサイトが閉まっていなければ良いがと心配しつつ午後3時過ぎやっとたどり着いた。雪は今朝から降り出したと言う。
キャンパーをサイトに停めるため指定の地にキャンパーを乗り入れた途端雪にタイヤが空回り動けなくなった。サイトの人たち数人がかりで雪の中から押し出してくれ、今夜はサイトの道路わきに駐車することにした。悪いことは重なるもので、衛星放送受信機をキャンパーの屋根に取り付けるのにソファーの上に登っていた亭主が滑り落ちて左腕を打撲皮膚の2箇所をえぐってしまった。
この39年間で最低の結婚記念日になってしまった。
ポルトガルで特に安くて美味しいのがオレンジと魚。オレンジは12月から3月が収穫時期で2週間前このキャンプサイトへ移ってくる道中の両脇に、オレンジを売る車がいたるところに見られた。小粒のオレンジ5kgが1ユーロ(100円)大粒5kgが2ユーロ(200円)だった。数日前そのオレンジを求めて5kmほど走ったがどこにも見当たらない。たったの2週間で売れつくしたはずがないとまた5kmを行ってやっと一台のオレンジ売りの車を見つけた。
もう品薄に成ったのかもしれない。大粒5kgが2.5ユーロ(250円)だった。お土産にとも思い10kgも買ってしまった。これもキャンパーならこそ。
この大きなボニート(カツオ)は6.7ユーロ(670円くらい)と素晴らしく安い。新鮮な間に一部を刺身にして食べ、残りは皮や骨を除いて冷凍にした。この地に居る間になるべく魚を食べようと思うが、魚が2日続くと嫌がる亭主は全くの肉食人種。英国人で小魚を頭から食べられる人はあまり居ない。最近日本では高級魚に格上げされたと言う鰯は1kg4ユーロ(400円)で亭主には頭も中骨もとってオリーヴオイルでから揚げにしてやっと食べてもらう。
ショッピングに行くたびに必ず魚を2種以上買い、3枚におろして冷凍した。そんな魚で冷凍庫が満杯になりつつある。
それで冷凍食品を上手に格納する方法をここに書き置きたい。
ミンチ肉は買い置きにしておくと急ぎの時にも大変便利、しかしスーパーなんかのパックに入っているのを、そのまま冷凍しておくと嵩張るし解凍にも時間がかかる。だから必ず一食分づつ小分けにビニール袋に入れてのし棒かビンで平らに広げる。それを巻いて棒状にして冷凍する。大変早く解凍されるし、たとえばバーガーなどを作るとき、いためたたまねぎや人参それにパン粉、卵なども同じ袋に入れて手でもみ混ぜ合わす。それをバーガーの形にすれば容器も汚れずに済む。
是非ためしてほしい。
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8年前このキャンパーを買い入れヨーロッパの旅にでる前、亭主は糖尿病の初期だと診断された。投薬無しで食事療法をするよう言われたが、一体何が良くて何が悪いか判らない。結局3ヶ月で10kgも体重が減って骨と皮のようにやせてしまった。それで午後のおやつに市売のケーキを一切れづつ食べるようになったらまた糖尿復活、それで考えたのがこのフライパンでも焼ける砂糖なしのケーキ(クッキー)で私はこれをオリーヴケーキと名づけた。
この中の材料は個人の好みとありあわせの材料でどうとも変えられるし、是非必要なものと言えばオリーヴ油と干しブドウのみ。そして糖尿病や腎臓病の病人食にするのなら、この材料が最適だと思う。ここには漂白粉、砂糖、塩は絶対使わない。しかし美味しいケーキだけが目的なら漂白粉も砂糖、塩もご自由に。
まず小麦粉は全粒粉(ホールミールフラワーと呼ぶ。)量も適当だが2-300グラムくらい、医療用語で言うと白米や白いパン、砂糖などは消化がよく食べた分がすぐ体内に糖分として吸収される。すると急激に血糖値が上がり糖を分解するため、すい臓が大奮闘しなければならない。これを365日何十年も繰り返している間にすい臓が疲れてくる。すると糖尿が出てくる。
全粒粉には麦の表皮や胚芽が含まれ、食後もゆっくり消化されるか繊維素として排泄される。
次に小麦のぬか(Wheat Bran)を100gくらい。これは健康食品店で売っている。
ここにライ麦粉とあわ・ひえの粉(ミレッツ・フラワー)を適宜加える。
次にリンシード(Linseed)無ければひまわりの種やゴマ、かぼちゃの種など自由に。そしてアーモンドは充分加えたい。もしなければ胡桃でもよし。
とうもろこしの粉(コーンミールまたはポレンタと呼ぶ。)少々。これだけで甘みを取るため干しブドウをどっさりいれる。
オレンジ一個分の皮を千切りにしたもの。そしてこれらを完全に混ぜ合わせる。
この中にオリーヴ油をどっさり(全体の粉が色が変わるくらい)入れて混ぜ合わす。
卵3個を入れて混ぜ合わし、牛乳(スキムミルクか,半脂肪が好ましい。)を入れて耳たぶより柔らか目にする。
熱く熱したフライパンにオリーヴ油を少々いれケーキ種を流し込み平らにならし、蓋をして一番小さな火にして45分焼く。
蓋の上でひっくり返し反対部分を20-30分焼く。焼きあがったら暫らく冷まして切り分ける。Good Luck !!!
雪に埋もれたキャンプサイトにはとっても素晴らしいトイレやシャワー、洗濯の設備があり、スペインでも屈指の高級キャンプサイトだった。
昨夜はもう雪は降らなかったが、雪は凍ったままで、真っ白。雪雲は去って2日前までの晴天になった。
今日はパンプローナまでの300kmを行く。ピレネー山脈の近くだから昨日の雪でパンプローナも埋まってしまったかも知れぬ。
9時半ごろにサイトを出発して10分ほど走ると雪で埋もれていた畑や牧場が急に一塊の雪も見えなくなった。
果樹園には梨とアーモンドの花が満開で、ポルトガルより1ヶ月は遅い春だ。
ピレネー山脈が遠くに見えるところは高度も上がっていたのか、また道端まで雪が見られたが、パンプローナへの100kmほどは平野で若緑の牧場がすがすがしい。
パンプローナに後35kmのタファラ(Tafalla)の町を通りぬけたが、街路樹(たぶんスズカケだろう)の横に伸びた枝をつなぎ合わせ、これで葉が伸びてくると素敵な陽陰の道になる。北スペインの町では夏の暑さもこうして緩和しているようだ。