明日はポールのお葬式が行われる日曜日、私一人でもう3-4年も運転していなかったトヨタの自家用車を運転して娘の家は行った。日曜日の昼間、道路はすいて一度もエンストもせず無事に往復してこれた。今まで一人で運転したことがなかった。
これで自信をもってブライトンから来る息子を連れて葬儀場へ行ける。この葬儀場はわが家から車で20分ほど、もう2度も行っているから行程もよくわかっている・・・と確信していた。
月曜日の午後1時ころにやってきた息子を連れて、近くのスーパーへ行ってきた。息子のほうも私の運転を信頼してくれた。
7月31日から英国も熱帯気候になりロンドンは日中気温35-37度、英国の一般家庭には暖房は完備していても冷房装置はない。
私は母が77歳で未亡人になった時着ていた喪服をもらってきた。日本のワンピースは半そででも生地は厚く裏がついているから、まるでサウナに入っているみたい。
近くだからと3時15分に家を出た。息子に真っ赤なバラの花束を持たせて、お棺の上に飾るつもりだった。
私の地域からメインロードで、本当は左折そして右折するところを右折・左折してしまった。道を知っていると思い込んでいる私は葬儀場の名前や場所も覚えていない。行けども行けども葬儀場は見当たらず、車の中は窓は開けてあるが(車の冷房は壊れて効かない)暑さと焦りで全身汗みずく、顔から流れる汗を拭くこともできない。とうとう途中で止まって娘に電話して元来た道を引き返すことにしたのは3時40分、途中の道から息子とパトリックが電話で道案内してくれ、葬儀場に停車したのが4時5分前だった。
とにかく事故にも会わず、遅れずに間に合ったのはポールが見守ってくれていたに違いない。焦っていったい何度エンストしたことか。
お葬式は30分だけ、宗教の一切入っていないお葬式で、棺桶が祭壇に安置されるまではボッチェリとセーラ・ブライトマンの Time to say good bye の歌声がながれている。参加者は私を入れて5人だけ、それでもマスクをしなければならない。
お葬式の進行係の女性がポールの人生行路を説明する。これは1週間前に彼女からの要請でコンピューターでおおよそを話し、彼女の書いたストーリーを私が訂正したもので、悪ガキだったポールの子供時代や、私たちのなれそめ、それに二人でバックパックやキャンパーでの旅行のことなどを話してくれた。
次に娘婿のパトリックがポールのことをスピーチ、娘がマスクをしたまま詩の朗読、彼女はそれまでに泣いていたらしく鼻をすすっていたから、いったい何を言っているのか聞こえなかった。
私と言えば全身汗みずく、相変わらず頭や首から流れる汗と完全に車の運転で狂ってしまった頭ではこれがポールのお葬式と判っていても、感情がついていかず、孫と私だけが涙も流さずシレっとしていた。
式の真ん中ではポールが知っているただ一つのクラッシックミュージック・Fingal's cave が流れた。彼が子供時代の音楽の先生がこの曲をレコードで何度も聞かせてくれたという。
お棺の上には娘がオーダーした白の蘭と白のカーラー、グリーンのアジサイの花が立派に盛られ、私の真っ赤なバラの花はみすぼらしいくらいだった。
お棺が祭壇から消えていくときには、戦時中英国人が鼓舞奮起した英国人女性、ヴェーラ・リン(Vera Lynn)の We'll meet again の歌声が流れた。
斎場を出ると、葬儀社の人がお花はここに置いても枯れるだけだから持っていきなさいと言われ、もらってきた。
帰りはパトリックが私の車を運転してわが家に帰り、息子が夕食においしいご馳走をクックしてくれた。私は帰ってサウナのような喪服を脱ぐことしか考えられなかった。
娘たちは8時過ぎ帰り息子は9時半に帰って行った。
この夜暑さと疲労で参っているのに眠れず3時過ぎまでテレビを見ていた。やっぱり一生で初めてのポールのお葬式、そこで大変なへまをやったのがいつまでも応えている。
お葬式から一週間後、友達がまた彼女の庭のお花をもって会いにきてくれた。
毎日電話やFacetime, Skypeで友達が安否を気使ってくれ、おしゃべりしている。お葬式後もう10日目になるのに、ポールの遺灰はいまだに持ってきてくれない。