大槻幸雄さん。
カワサキの名車Z1の開発チーフエンジニアとして知られているが、カワサキがジュニア6H耐久レースでスズカに登場した時の監督でもある。 今もZ1会のゴルフコンペで年3~4回お会いしている。
私と大槻さんとの出会いは、この頃のレースを通じてのものであった。
レース関係では1965年、66年の2年にも満たないお付き合いであったが、本当に沢山の忘れられない想い出がある。
レースでのいろいろな話はまたの機会に譲って、ひょっとしたら大槻さんも忘れておられるかも知れない、東北での想い出を書いてみたい。
レースや広報を担当した後、1967年1月から新しく仙台事務所を開設し、東北6県の営業を担当することになった。
まだ「実用車のカワサキ」の時代で、カワサキにとって東北は九州と並んで最重要市場であった。
各県に代理店があり、温泉地などでサブ店(販売店)を集めての会合が、その年の営業の幕開けという習わしになっていたようだ。
2月21日、宮城県の作並温泉を皮切りに会合が開かれた。
私もはじめての経験だったが、各県の代理店の主催だから、その社長の挨拶の後、メーカー側としての祝辞と挨拶、方針説明、開発方針、技術説明などが予定され、その後は座敷での宴会という昔のスタイルである。
大槻さんには開発関係、技術説明をお願いし、23日秋田市、25日岩手県花巻温泉、26日八戸市の会合と、約1週間に亘って援けて頂いた。
そのときの日記を読み返してみると面白い。忘れてしまっていることも多いのである。
覚えているのは、
レースの想い出話に花を咲かせたこと。
大きな馬力の、ごっつい車を造る計画を持っていること。この話の大槻さんは熱っぽかった。 これが多分、後のZ1のことだと思う。
この話は、はっきり覚えている。
すっかり忘れてしまっていること。(日記記載のまま)
22日、見習う点多い。大槻さん、歴史に興味と造詣の深いのに驚く。意外だった。
26日、夜、八戸のまちをぶらつく。27日夕方、課長任用のSSCのため帰られた。お世話になった。
28日、青森の会合で。大槻さんが帰られたので、技術説明を代わりにやる。
何度も聞いたので、不慣れではあったが、自分ではよく出来たと思う。
人間の記憶力というのは、当てにならないものである。
日記に書いているのだから、その時には間違いなく関心事であった筈である。それなのに、全然覚えていない。
「歴史に造詣が深いには意外」と書いているが、今思えば勉強家の大槻さんだから当然とも思える。
多分その頃の大槻さんのイメージは、レースでめちゃめちゃ厳しかったから、勉強家というイメージが湧かなかったのだと思う。 それ位厳しかった。
技術オンチで通っている私が「技術説明をした」というのは、いい心臓を通り越している。
それも「よく出来たと思うという感想」は、厚かましい限りである。
このときの一連の会合は、私の就任披露でもあり緊張していた。
そんな私にとって大事な1週間を、援けて頂いたということは本当に有難かった。
懐かしい東北での想い出である。
(先日、大槻さんより「船場モータース岡田博さんの思い出」にコメントを頂いて、「大槻さんとの想い出」を書いているのですが、山本隆君も大槻さんのコメントを読んで、またコメントをくれました。)
カワサキの名車Z1の開発チーフエンジニアとして知られているが、カワサキがジュニア6H耐久レースでスズカに登場した時の監督でもある。 今もZ1会のゴルフコンペで年3~4回お会いしている。
私と大槻さんとの出会いは、この頃のレースを通じてのものであった。
レース関係では1965年、66年の2年にも満たないお付き合いであったが、本当に沢山の忘れられない想い出がある。
レースでのいろいろな話はまたの機会に譲って、ひょっとしたら大槻さんも忘れておられるかも知れない、東北での想い出を書いてみたい。
レースや広報を担当した後、1967年1月から新しく仙台事務所を開設し、東北6県の営業を担当することになった。
まだ「実用車のカワサキ」の時代で、カワサキにとって東北は九州と並んで最重要市場であった。
各県に代理店があり、温泉地などでサブ店(販売店)を集めての会合が、その年の営業の幕開けという習わしになっていたようだ。
2月21日、宮城県の作並温泉を皮切りに会合が開かれた。
私もはじめての経験だったが、各県の代理店の主催だから、その社長の挨拶の後、メーカー側としての祝辞と挨拶、方針説明、開発方針、技術説明などが予定され、その後は座敷での宴会という昔のスタイルである。
大槻さんには開発関係、技術説明をお願いし、23日秋田市、25日岩手県花巻温泉、26日八戸市の会合と、約1週間に亘って援けて頂いた。
そのときの日記を読み返してみると面白い。忘れてしまっていることも多いのである。
覚えているのは、
レースの想い出話に花を咲かせたこと。
大きな馬力の、ごっつい車を造る計画を持っていること。この話の大槻さんは熱っぽかった。 これが多分、後のZ1のことだと思う。
この話は、はっきり覚えている。
すっかり忘れてしまっていること。(日記記載のまま)
22日、見習う点多い。大槻さん、歴史に興味と造詣の深いのに驚く。意外だった。
26日、夜、八戸のまちをぶらつく。27日夕方、課長任用のSSCのため帰られた。お世話になった。
28日、青森の会合で。大槻さんが帰られたので、技術説明を代わりにやる。
何度も聞いたので、不慣れではあったが、自分ではよく出来たと思う。
人間の記憶力というのは、当てにならないものである。
日記に書いているのだから、その時には間違いなく関心事であった筈である。それなのに、全然覚えていない。
「歴史に造詣が深いには意外」と書いているが、今思えば勉強家の大槻さんだから当然とも思える。
多分その頃の大槻さんのイメージは、レースでめちゃめちゃ厳しかったから、勉強家というイメージが湧かなかったのだと思う。 それ位厳しかった。
技術オンチで通っている私が「技術説明をした」というのは、いい心臓を通り越している。
それも「よく出来たと思うという感想」は、厚かましい限りである。
このときの一連の会合は、私の就任披露でもあり緊張していた。
そんな私にとって大事な1週間を、援けて頂いたということは本当に有難かった。
懐かしい東北での想い出である。
(先日、大槻さんより「船場モータース岡田博さんの思い出」にコメントを頂いて、「大槻さんとの想い出」を書いているのですが、山本隆君も大槻さんのコメントを読んで、またコメントをくれました。)