今年も後余すところ4日になった。
今年ではなく、永くお世話になった単車事業について40年間を振り返ってみることにした。
自分勝手に1960年代、70年代、80年代、90年代の4期に分けて昔話として気軽に書くことにする。
同じ時期を一緒に過ごされた方も多いのだが、そんなこともあったと昔を懐かしんで頂けたら幸いである。
1960年代 創生期
1970年代 成長期
1980年代 苦難&激動期
1990年代 安定成長期
解りやすくする為に、ざっと4期に分け、何回かに分けて書いてみたい。
「1960年代 創生期」
私が単車の営業に配属になったのは、1961年12月である。
既に単車事業はスタートしていたが、まだB7や井関のタフ50などの時代で、この頃から単車に居られた人は少ない、そんな時代であった。
アメリカの販売会社KMCの設立が68年、3社合併で新しい川崎重工業がスタートしたのが69年だから、ほぼそれまでの10年間である。
国内市場だけで、一時は事業中止と思われる時期もあったのだが、B8が何となく売れて、青野ヶ原のモトクロスで運よく勝って、日本能率協会の調査の結果脈ありと判断されて、単車再建が決定された。
事務屋は本社や勤労などから、技術屋は主としてJET部門から集められた。
岩城常務も単車事業部本部長に着任された。
事務屋では、 塚本、矢野、浜脇、北村、種子島、前田、岩崎、藤田さんなど。
技術屋では、 高橋、桑畑、田村、石原、田崎、大前さんなど。
元から単車の人は技術部を中心に
山田、堀江、中村、井出、渡辺、大槻、安藤、高橋(宏),川崎、稲村、百合草、野田、井川、大西さんなど。
国内販社関係では、
田中、苧野、清水屋、加茂、松田、池田、永田、内田、小竹、平井、大井、石塚,宇田川、岡島、富永、さんなど。
レースメカニック、ライダー関係では
水町、松尾、福田、藤原、榎本、加藤,飯原、清原さんなど。(社内)
三橋、安良岡、金谷、山本、歳森、梅津,岡部、星野さんなど。
抜けている方も当然多いと思うが、その後もずっと永く単車に関係した人や私の印象に残っている方を、勝手に挙げさせて頂いた。
名前を並べただけで当時が思い出せるから不思議である。
この時期は、国内、海外の第一線に初めて出た人も多い。
国内には、矢野、野田、井川、岩崎、藤田さんや私。
海外には、浜脇、安藤、田崎、種子島、内田、野田さんなど。
みんな若かったが無茶苦茶頑張ったその頃の経験が、その後本当に役に立ったと思う。
苦労も多かったが、
国内、海外とも、レースチームが活躍したこと。
国内だけでなくアメリカ市場への進出し希望が見えて来たこと。
W1,A1、H1など話題のの大型スポーツ車が発売され、「スポーツのカワサキのイメージ」の基盤が出来たなど、明るい話題もまた多かった。
60年代前半には、未だ三菱重工業、富士重工業、新明和工業、トーハツ、ブリジストンなどの大企業をはじめ多くの企業がこの業界にいたのだが、
この厳しい競争の中でカワサキだけが生き残れたのは、
大型スポーツ、海外市場をメーンと位置づけた基本戦略が間違っていなかった結果だと思う。
将来ホンダ、スズキ、ヤマハに伍して、二輪業界の一翼を担うことに繋がったことは、この大きなコンセプトを確立された先人たちのお陰であり、敬意を表したい。
個人的に関係の深かった人は、
苧野さんは直接の上司として、山田さんはレース関係で、高橋さんとはレースと国内の販社でお世話になった。
一緒に仕事をした仲間と呼べる人たちは、レースで大槻、安藤さん、メカニックやライダーたち、田崎さんとは、組合の常任幹事、TVの源平芸能合戦出場、レースなど。東北時代の宇田川、石塚さんなど、ずっと後までのお付き合いだった。
66年にはカワサキオートバイ販売への社名変更、68年にはアメリカKMCの設立、そして、69年には川重、川車,川航の3社合併があった。
まだまだスタートしたばかりの単車事業であったが、将来の基盤は築かれた、そんな時代であった。
私自身は、単車営業、広告宣伝、レース、東北営業を担当の時代であった。
この時代を一緒に苦労した人たちの「仲間意識」が、「単車事業部独特のいい雰囲気」のベースになっている。
今年ではなく、永くお世話になった単車事業について40年間を振り返ってみることにした。
自分勝手に1960年代、70年代、80年代、90年代の4期に分けて昔話として気軽に書くことにする。
同じ時期を一緒に過ごされた方も多いのだが、そんなこともあったと昔を懐かしんで頂けたら幸いである。
1960年代 創生期
1970年代 成長期
1980年代 苦難&激動期
1990年代 安定成長期
解りやすくする為に、ざっと4期に分け、何回かに分けて書いてみたい。
「1960年代 創生期」
私が単車の営業に配属になったのは、1961年12月である。
既に単車事業はスタートしていたが、まだB7や井関のタフ50などの時代で、この頃から単車に居られた人は少ない、そんな時代であった。
アメリカの販売会社KMCの設立が68年、3社合併で新しい川崎重工業がスタートしたのが69年だから、ほぼそれまでの10年間である。
国内市場だけで、一時は事業中止と思われる時期もあったのだが、B8が何となく売れて、青野ヶ原のモトクロスで運よく勝って、日本能率協会の調査の結果脈ありと判断されて、単車再建が決定された。
事務屋は本社や勤労などから、技術屋は主としてJET部門から集められた。
岩城常務も単車事業部本部長に着任された。
事務屋では、 塚本、矢野、浜脇、北村、種子島、前田、岩崎、藤田さんなど。
技術屋では、 高橋、桑畑、田村、石原、田崎、大前さんなど。
元から単車の人は技術部を中心に
山田、堀江、中村、井出、渡辺、大槻、安藤、高橋(宏),川崎、稲村、百合草、野田、井川、大西さんなど。
国内販社関係では、
田中、苧野、清水屋、加茂、松田、池田、永田、内田、小竹、平井、大井、石塚,宇田川、岡島、富永、さんなど。
レースメカニック、ライダー関係では
水町、松尾、福田、藤原、榎本、加藤,飯原、清原さんなど。(社内)
三橋、安良岡、金谷、山本、歳森、梅津,岡部、星野さんなど。
抜けている方も当然多いと思うが、その後もずっと永く単車に関係した人や私の印象に残っている方を、勝手に挙げさせて頂いた。
名前を並べただけで当時が思い出せるから不思議である。
この時期は、国内、海外の第一線に初めて出た人も多い。
国内には、矢野、野田、井川、岩崎、藤田さんや私。
海外には、浜脇、安藤、田崎、種子島、内田、野田さんなど。
みんな若かったが無茶苦茶頑張ったその頃の経験が、その後本当に役に立ったと思う。
苦労も多かったが、
国内、海外とも、レースチームが活躍したこと。
国内だけでなくアメリカ市場への進出し希望が見えて来たこと。
W1,A1、H1など話題のの大型スポーツ車が発売され、「スポーツのカワサキのイメージ」の基盤が出来たなど、明るい話題もまた多かった。
60年代前半には、未だ三菱重工業、富士重工業、新明和工業、トーハツ、ブリジストンなどの大企業をはじめ多くの企業がこの業界にいたのだが、
この厳しい競争の中でカワサキだけが生き残れたのは、
大型スポーツ、海外市場をメーンと位置づけた基本戦略が間違っていなかった結果だと思う。
将来ホンダ、スズキ、ヤマハに伍して、二輪業界の一翼を担うことに繋がったことは、この大きなコンセプトを確立された先人たちのお陰であり、敬意を表したい。
個人的に関係の深かった人は、
苧野さんは直接の上司として、山田さんはレース関係で、高橋さんとはレースと国内の販社でお世話になった。
一緒に仕事をした仲間と呼べる人たちは、レースで大槻、安藤さん、メカニックやライダーたち、田崎さんとは、組合の常任幹事、TVの源平芸能合戦出場、レースなど。東北時代の宇田川、石塚さんなど、ずっと後までのお付き合いだった。
66年にはカワサキオートバイ販売への社名変更、68年にはアメリカKMCの設立、そして、69年には川重、川車,川航の3社合併があった。
まだまだスタートしたばかりの単車事業であったが、将来の基盤は築かれた、そんな時代であった。
私自身は、単車営業、広告宣伝、レース、東北営業を担当の時代であった。
この時代を一緒に苦労した人たちの「仲間意識」が、「単車事業部独特のいい雰囲気」のベースになっている。