雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

1980年代前半 昔話ー18

2006-12-30 06:30:19 | カワサキ単車の昔話
「1980年代 苦難と激動期」-(1)80年代前半

1970年代は各メーカーとも積極的な海外進出と新車投入により、業容の拡大を実現し世界の二輪産業を席捲する成長を遂げた。

1980年代に入る頃から、急激な成長のひずみが見られるようになり、この対策が大きな課題となったのである。

1.ハーレー社のダンピング訴訟問題
2.HY戦争による影響

そしてカワサキだけの問題であったが、
3.UAWの労働問題

ダンピング問題は、アメリカ市場での価格が国内価格に比し低過ぎるためにハーレー社が損害を受けた、と提訴したのである。
カワサキでは、当時の国内販社の「赤字や経費率」がダンピング問題に直結して解決を要する問題として浮上したのである。

これに対しては、国内販社の再編成、構造改革を行い赤字体質の脱却を図った。
部品会社の分離も経費対策の一環であった。
幸い、Z400FX、400LTD,250FTなどのヒット商品の投入もあってこの問題は意外にスムースに解決をしたのだが。

このあと続いて、国内の50ccのシェア競争に端を発した「HY戦争」は、アメリカ市場にまで飛び火し、全メーカーに影響を与えることになった。
過剰在庫になり値引き競争は激化した。
83年にはアメリカ政府はハーレー社を守るために700cc以上の輸入関税の増額を決定するなど輸入規制の措置を講じたりした。

これに関連して、在庫圧縮のためのKMMの生産調整が、UAWの労働問題になり大問題となった。

更に、当時アメリカ全体で問題となっていた、PL問題も経営の足を引っ張るものであった。

これらの問題が一挙に出て、81年頃から事業部もアメリカ側も苦境に追い込まれるのである。

これらの問題は、財務、資金、法規の要素が多かったため、この解決のため本社専門スタッフによるプロジェクトチームが編成され、アメリカ側、事業部とともにドラスチックな対策が打たれた。100億円の桁の大掛かりな対策であった。

この対策の効果は直ぐに現れ、カワサキの単車事業存亡の危機を救ったのだが、財務対策などが中心であったので余り広くは知られていない。
私は、たまたま前半国内販社、プロジェクトチーム発足と前後して企画担当となったので、その経緯を知っているのである。

UAW問題は、その後も尾を引くがこれは主としてKMMの佐伯さん以下の努力で乗り切ることが出来た。

この時期、これら問題に対応された人たちの名前を、思い出す範囲で、順不同で。

本社サイド     大西、堀川、松本、児玉、砂野、横山、田中、武内、佐藤、小川,松岡,中間、原田さんなど

アメリカサイド    田崎、高田、佐伯、野田、奥寺、富永さんなど

事業部サイド    青野、高橋、内田、五百井、前田さんなど

この問題の解決は、事業部だけの力ではとても解決できる種類のものでなかった。
このような大きなプロジェクトを、本社と現場の協力で成し得たことは、その後の単車事業に非常にいい影響を与えたと思う。
本社のスタッフも若い人たちが多かったし、このプロジェクトのお陰で単車への理解も深まったし、単車フアンも出来た。

こんな激動期を乗り越えて更に進むのだが、いろいろと激動の時期はまだ続くのである。


「ダンピングやHY戦争を調べていて「二輪車産業に関する私的考察」に出会いました。二輪車産業に関心のある方にお奨めです。
ダンピング以下の件、参考にさして頂きました。」

コメント (1)
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