「初期のモトクロス戦略」-2
相馬が原のMFJ第1回全日本モトクロスでは、5位にも入れない散々な成績であった。
マシンもライダーも根本的な強化が求められた。
マシンは技術部門で専門的に対応できたが、ライダーの育成強化は、社外に頼らざるを得なかった。
即戦力としては新たに安良岡健を補強した。
これでジュニアクラスは、山本、歳森、三橋、安良岡、梅津、岡部、と一応の即戦力の頭数は揃った。
若手のライダー育成をカワサキコンバットの三橋、安良岡君に一任することにし、コンバットと別契約を結んだ。
当時としては思い切った内容であったと思う。
月額20万円の運営費で、若手ライダーの人数、選択、宿舎、生活、練習、運搬車など育成費用の一切をコンバットに委託した。
当時のサラリーマンの年収が50万円に満たない時代であったから、月額20万円は相当な額であったと思う。
少々甘かったかも知れぬが、全国からモトクロスを目指す有能なライダーが多数集まった。
三橋の若手に対する指導やしつけは、結構厳しかった。
何人居たのか明確に把握していないが、厚木にアパートの部屋を借りて、多いときは10人に近かったのではないかと思う。
この中のメンバーから星野、栗山、金子などが育ち、木村、西や増田などの更に若手のライダーへと繋がっていくきっかけとなったのである。
ライダーについては、質、量ともに他を圧倒することを目指し、最盛期のレースでは、専用車で運ぶマシンの数は50台にもなったと思う。
契約ライダーは広告宣伝課嘱託とし、レースは販売促進活動と位置づけた。
ライダー契約金は当時の水準以上の十分に優遇されたものであった。
カワサキとしては、「他メーカーに勝てるもの」は、この時期モトクロス以外にはなかったのである。
当時、本社からの開発費で広告宣伝費として特別対策予算が出ていたが、その中から優先し集中してレースに予算を投じていた。
このような特別対策は、250ccのF21Mがデビューし、カワサキのレースが確固として世に認められるまで続いた。
レース初期、最も豊かにレース活動をした時代の「レース戦略」であった。
モトクロスでは 山本隆、星野一義、歳森康師、岡部能夫、梅津。
ロードでは 三橋実、安良岡健、金谷秀夫。
若手として 清原明彦、従野孝司、増田耕治、木村夏也、西。
など次のスターも育った。
懐かしく思い出される。みんな若かった、いい時代であった。
相馬が原のMFJ第1回全日本モトクロスでは、5位にも入れない散々な成績であった。
マシンもライダーも根本的な強化が求められた。
マシンは技術部門で専門的に対応できたが、ライダーの育成強化は、社外に頼らざるを得なかった。
即戦力としては新たに安良岡健を補強した。
これでジュニアクラスは、山本、歳森、三橋、安良岡、梅津、岡部、と一応の即戦力の頭数は揃った。
若手のライダー育成をカワサキコンバットの三橋、安良岡君に一任することにし、コンバットと別契約を結んだ。
当時としては思い切った内容であったと思う。
月額20万円の運営費で、若手ライダーの人数、選択、宿舎、生活、練習、運搬車など育成費用の一切をコンバットに委託した。
当時のサラリーマンの年収が50万円に満たない時代であったから、月額20万円は相当な額であったと思う。
少々甘かったかも知れぬが、全国からモトクロスを目指す有能なライダーが多数集まった。
三橋の若手に対する指導やしつけは、結構厳しかった。
何人居たのか明確に把握していないが、厚木にアパートの部屋を借りて、多いときは10人に近かったのではないかと思う。
この中のメンバーから星野、栗山、金子などが育ち、木村、西や増田などの更に若手のライダーへと繋がっていくきっかけとなったのである。
ライダーについては、質、量ともに他を圧倒することを目指し、最盛期のレースでは、専用車で運ぶマシンの数は50台にもなったと思う。
契約ライダーは広告宣伝課嘱託とし、レースは販売促進活動と位置づけた。
ライダー契約金は当時の水準以上の十分に優遇されたものであった。
カワサキとしては、「他メーカーに勝てるもの」は、この時期モトクロス以外にはなかったのである。
当時、本社からの開発費で広告宣伝費として特別対策予算が出ていたが、その中から優先し集中してレースに予算を投じていた。
このような特別対策は、250ccのF21Mがデビューし、カワサキのレースが確固として世に認められるまで続いた。
レース初期、最も豊かにレース活動をした時代の「レース戦略」であった。
モトクロスでは 山本隆、星野一義、歳森康師、岡部能夫、梅津。
ロードでは 三橋実、安良岡健、金谷秀夫。
若手として 清原明彦、従野孝司、増田耕治、木村夏也、西。
など次のスターも育った。
懐かしく思い出される。みんな若かった、いい時代であった。