第1回MFJ全日本モトクロスが1964年、相馬が原で開催された頃から仕事上でもレースに関係するようになった。
相馬が原の頃は未だ直接ではなく横から眺めていただけだったが、地方では連戦連勝であったのに、5位にも入れぬ状況でトップレベルとの差を痛感して、本格的な強化対策に入るきっかけとなった。
第2回大会は名古屋で65年3月に行われたが、125ccでトップを走りながら、ノービスで星野がパンク、ジュニアで歳森が片肺になって優勝を逸した口惜しい思い出がある。
64年11月にデビューした星野一義のはじめての大きなレース出場であった。
ちなみに当時のカワサキの125ccマシンは2気筒だったのである。
第3回は66年4月に高松。
このときもファクトリーに優勝はなく、大阪赤タンク会の木村夏也君が125ccノービスで優勝した。
MFJ全日本でのカワサキのはじめての優勝は、ファクトリーではなかったのである。
初期の時代は、城北ライダースの全盛期で、久保、矢島、菅谷、榎本など多士済々であったし、荒井、小島,三吉などのベテランも強かった。
66年後半、F21Mが登場しカワサキはモトクロスでの確固たる地位を築いていった。
第4回は郡山の自衛隊の演習場で67年5月に行われた。
このときは東北担当の営業に転任していたが、MFJの山田事務局次長に頼まれて福島オートの中西社長と一緒に自衛隊の場所を借りるお願いに行った。
中西さんは陸士出の元偉いさんで、門までわざわざお迎えがあり、スムースにお借りすることが出来た。
先輩後輩の関係はすごいなと思った、そんな思い出がある。
ヤマハがニューマシンDT1を登場させた。
優勝は90山本、125星野、250はヤマハの鈴木忠さんだった。
第5回は68年8月、札幌。
たまたま、東北、北海道の代理店会議が札幌であって、観ることが出来た。
これに合わせて計画してくれたのかも知れぬ。
優勝は、90山本、125星野、250鈴木であった。
第4回大会以降は直接のレース担当を離れて、本当に気楽にレースを楽しめた。
優勝メンバーを見ても、新しい時代に入ったことが解る。
カワサキはこの頃、山本、星野、岡部,歳森、梅津と揃えて最盛期であったと言えよう。
当時のモトクロス界では激しい競争もいろいろとあったが、クラブ間の交流も盛んでスズキ、ヤマハの人たちやライダーとも仲良く付き合えたのがいい思い出として残っている。
相馬が原の頃は未だ直接ではなく横から眺めていただけだったが、地方では連戦連勝であったのに、5位にも入れぬ状況でトップレベルとの差を痛感して、本格的な強化対策に入るきっかけとなった。
第2回大会は名古屋で65年3月に行われたが、125ccでトップを走りながら、ノービスで星野がパンク、ジュニアで歳森が片肺になって優勝を逸した口惜しい思い出がある。
64年11月にデビューした星野一義のはじめての大きなレース出場であった。
ちなみに当時のカワサキの125ccマシンは2気筒だったのである。
第3回は66年4月に高松。
このときもファクトリーに優勝はなく、大阪赤タンク会の木村夏也君が125ccノービスで優勝した。
MFJ全日本でのカワサキのはじめての優勝は、ファクトリーではなかったのである。
初期の時代は、城北ライダースの全盛期で、久保、矢島、菅谷、榎本など多士済々であったし、荒井、小島,三吉などのベテランも強かった。
66年後半、F21Mが登場しカワサキはモトクロスでの確固たる地位を築いていった。
第4回は郡山の自衛隊の演習場で67年5月に行われた。
このときは東北担当の営業に転任していたが、MFJの山田事務局次長に頼まれて福島オートの中西社長と一緒に自衛隊の場所を借りるお願いに行った。
中西さんは陸士出の元偉いさんで、門までわざわざお迎えがあり、スムースにお借りすることが出来た。
先輩後輩の関係はすごいなと思った、そんな思い出がある。
ヤマハがニューマシンDT1を登場させた。
優勝は90山本、125星野、250はヤマハの鈴木忠さんだった。
第5回は68年8月、札幌。
たまたま、東北、北海道の代理店会議が札幌であって、観ることが出来た。
これに合わせて計画してくれたのかも知れぬ。
優勝は、90山本、125星野、250鈴木であった。
第4回大会以降は直接のレース担当を離れて、本当に気楽にレースを楽しめた。
優勝メンバーを見ても、新しい時代に入ったことが解る。
カワサキはこの頃、山本、星野、岡部,歳森、梅津と揃えて最盛期であったと言えよう。
当時のモトクロス界では激しい競争もいろいろとあったが、クラブ間の交流も盛んでスズキ、ヤマハの人たちやライダーとも仲良く付き合えたのがいい思い出として残っている。