ジェットスキーはアメリカで産まれて、日本で商品化された。
1975年からアメリカのリンカーン工場で生産が始まり、同時に販売が開始された。
その後10年程は、アメリカで6~7000台の販売が安定して続いたが、440,550ccが出た84年ごろから急激に売れ出した。
丁度二輪車の在庫過多で苦しい時代であったので、カワサキにとっては単車事業そのものの救世主の役割を果たしてくれた。
一挙に25000台と急上昇し、まだ競争相手もなく独占であったので、一挙に利益源の中心商品となったのである。
国内でもその頃から、JJSBAのレース活動が定着し始めた。
国内をはじめ世界への商品展開を図るべく企画部門に新プロジェクトを立ち上げスタートした。
1985年オーストラリアから、鶴谷将俊君(現川重商事社長)が帰国して専門でその任にあたるころから動きは活発化した。
ジェットスキーはもともと発動機部門で開発されたので、単車のなかには当時は本格的に乗れる人もいない状況であった。
発動機で個人的にレースに出場していた福井昇君がいることが解り、企画部門に参加してもらった。
ヨーロッパも国内も全く経験のない、新商品の展開であったが面白い経験をしなしがらも、着実にプロジェクトは進行した。
鶴谷、福井君(現ジェットスキープラザ明石)を中心に国内では、西武自動車の人たち、カワサキの販売関係では当時のJJSBA会長の苧野さん、藤田孝明君らでこのプロジェクトを成功に導いた。
国内でも、300台であった販売が1000台になり、ピークには7000台までになった。
ソウルオリンピックの開会式当日に、スタジアムの直ぐ横を流れるハンガン(川の名前)で行われたデモンストレーションにオリンピック委員会より正式に招聘を受け、アメリカ、ヨーロッパ、オーストラリアからの男女のトップライダーたちと日本からもライダー並びに前述のメンバーたちが参加した。
そのチームの団長をさせて頂いたのも私にとっていい思い出である。
ジェットスキーの販売の増加にともなって、単車やオートバイから、CP事業本部、カワサキモータースジャパンなど、事業部の名称や社名の変更が行われた。
二輪とともにジェットスキーにも沢山のいい想い出や、仲間がいる。
また、機会をみてひとつひとつ、ご紹介したい。
(ジェットスキーはカワサキが商品登録をしている商品名です。一般にはPWCーパーソナル、ウオーター、クラフトーと日本では言われています。)
1975年からアメリカのリンカーン工場で生産が始まり、同時に販売が開始された。
その後10年程は、アメリカで6~7000台の販売が安定して続いたが、440,550ccが出た84年ごろから急激に売れ出した。
丁度二輪車の在庫過多で苦しい時代であったので、カワサキにとっては単車事業そのものの救世主の役割を果たしてくれた。
一挙に25000台と急上昇し、まだ競争相手もなく独占であったので、一挙に利益源の中心商品となったのである。
国内でもその頃から、JJSBAのレース活動が定着し始めた。
国内をはじめ世界への商品展開を図るべく企画部門に新プロジェクトを立ち上げスタートした。
1985年オーストラリアから、鶴谷将俊君(現川重商事社長)が帰国して専門でその任にあたるころから動きは活発化した。
ジェットスキーはもともと発動機部門で開発されたので、単車のなかには当時は本格的に乗れる人もいない状況であった。
発動機で個人的にレースに出場していた福井昇君がいることが解り、企画部門に参加してもらった。
ヨーロッパも国内も全く経験のない、新商品の展開であったが面白い経験をしなしがらも、着実にプロジェクトは進行した。
鶴谷、福井君(現ジェットスキープラザ明石)を中心に国内では、西武自動車の人たち、カワサキの販売関係では当時のJJSBA会長の苧野さん、藤田孝明君らでこのプロジェクトを成功に導いた。
国内でも、300台であった販売が1000台になり、ピークには7000台までになった。
ソウルオリンピックの開会式当日に、スタジアムの直ぐ横を流れるハンガン(川の名前)で行われたデモンストレーションにオリンピック委員会より正式に招聘を受け、アメリカ、ヨーロッパ、オーストラリアからの男女のトップライダーたちと日本からもライダー並びに前述のメンバーたちが参加した。
そのチームの団長をさせて頂いたのも私にとっていい思い出である。
ジェットスキーの販売の増加にともなって、単車やオートバイから、CP事業本部、カワサキモータースジャパンなど、事業部の名称や社名の変更が行われた。
二輪とともにジェットスキーにも沢山のいい想い出や、仲間がいる。
また、機会をみてひとつひとつ、ご紹介したい。
(ジェットスキーはカワサキが商品登録をしている商品名です。一般にはPWCーパーソナル、ウオーター、クラフトーと日本では言われています。)