雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

スポニチ主催のモトクロス

2006-12-11 06:35:34 | M/Cレース
1964年11月8日、和歌山紀ノ川で「第1回西日本モトクロス」が開催された。

「スポーツニッポン主催」のレースで、多分スポーツ紙がモトクロスの主催をしたのは、この西日本シリーズが最初で、ひょっとしたら最後であったかも知れない。

当時まだモトクロスも一般に知られていなかったし、レースについてもライダーの社会的地位も、そんなに高いものではなかった。
カワサキとしもレースに力を入れていたので、出来ることなら一般の人たちに対し、新しいモータースポーツとしての位置づけでモトクロスのPRをしたかったし、レースひいては二輪車のイメージの向上を図りたいと考えた。

64年の秋ごろから、スポニチに働きかけスポニチも乗り気になり、開催の運びとなったのである。

この第1回大会に、星野一義が岡部の名前ではじめてのレース出場を果たしたことは、先日のブログ(11月8日星野がはじめてレース場を走った日)で紹介したが、そんな記念すべき第1回の大会であった。

このシリーズは、65年、66年にも続けて開催され、第5回大会までの記録が残っている。
関西の地元でもあり、カワサキは力を入れたので、優勝の機会も断然多かった。

スポニチに結果が掲載される広告宣伝効果もあり、第3回の加古川大会には、関西のマウンテンライダースはもとより、関東から名門城北ライダースが参加するなど内容の充実した大会に発展していった。

ノービスクラスでは、星野一義、吉村太一が共にデビューした年で、毎大会デッドヒートを二人で展開したのを覚えている。
90ccのレースが出来たころで、BSからも田中隆造など主力メンバーが多数参加した。
カワサキは、山本、歳森、三橋、安良岡、梅津、岡部やコンバットの星野をはじめ若手が多数出場した。
関西の地元のライダーたちの登竜門となったと思う。

そのレースの状況と結果は、スポニチ紙面で一般に広く紹介されたので、3年目の
6月には、関西でもモトクロスは定着し、「神戸っ子」や「毎日新聞学芸部」の取材を受けたりもした。

66年11月3日、第5回西日本モトクロスが和歌山県紀ノ川で行われたところまでは、私の記録にあるのだが、翌年からレースの担当を離れ、東北に行ったのでその後どうなったか、定かではない。

この「スポニチ主催の西日本モトクロス」が関西のモトクロスの底辺を広げるとともに、一般のひとたちの理解を深めたことで、十分に所期の目的、役割を果たしたと思っている。

当時のスポニチの高田局長や毎日広告の中島さんには、本当にお世話になったこと感謝したい。
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