★新しいカワサキのイメージ創造を目標に、新しいことにチャッレンジを続けてきた数年であったが、
それはゼファーやジェットスキーの好調に支えられて経営基盤が万全であったことが追い風であったことは間違いない。
この年あたりから、カワサキの一人勝ちの様相は変化して、シェアはまだまだ高かったのだが、二輪市場は縮小の一途で損益的には非常に苦しい状況が続いたのである。
当初の目標、カワサキの新しいイメージ創造はほぼその目標を達成したと言っていい。
博報堂の調査によるとカワサキのイメージ総量は、ホンダと肩を並べたのである。
この年までに、ゼファーは延べ8万台と売れたし、1000人からスタートしたKAZE会員も5万人を記録して、
この年の5月8日には、つくばサーキットを借り切って『ゼファー8万台、KAZE5万人のサンクスフェア』を開催した。
岩城滉一とそのグループが50台のバイクで参加してくれたりしたし、主催者発表では12000人、低く見ても8000人は下らないユーザーたちが全国から集まったのである。
当時はJJSBA関連のジェットスキーレースも最高の時期であった。
たまたま、昨日送られてきたKAZEのジェットスキー機関誌には、千里浜大会25周年とあるが、
1996年の大会が最高だったのである。
羽咋海岸1キロに亘って、パドックが並び、世界最大の1000台を超えるジェットスキーが集まり、多分記録だと思うが1日98レースが展開されたのである。
羽咋市がホントにギネスに登録しようと計画したりしたのである。
★二輪とジェットスキーのこの二つのイベントは、その規模において、最大だったと思っている。
ちょうど田崎さんが事業部の副本部長のころで、二つのイベントとも一緒だったし、この年直入りのエンデユーロコースも出来てこの開会式にも一緒に出かけたりしている。
それからまた15年も経って、また一緒に今年から『孫文を語る会』で協働する。
20代の若いころ、『源平芸能合戦』でスタートして以来、レースやを始めいろいろと、一緒にやれたのも何かのご縁である。
この年、ジェットスキーレースでは、死亡事故もあった。
流石に翌週のレースは自粛しようかと思っていたら、『そんなことでめげずにやればいい』と励ましてくれたのも田崎さんである。
この年の3月には、関東のサーキット松井田の『大規模開発の事前協議申請の許可』が下りたのだが、取り付け道路の地主の反対は年末まで続いていた。
モータースポーツ部の岩崎茂樹君は、国内の物流会社に参加してくれて、2代目の部長にはつい先日、このブログにも登場した大津信君が就任をしている。
二輪専門の自動車学校設立申請も提出して、その学校の教室のためにKMJは、神戸市玉津町に移転したのもこの年なのである。
★国内グループのOB会、『慶睦会』がスタートしたのもこの年7月である。
『慶睦会』はもうみんな故人になられたが田中誠さん、苧野豊秋さん足立孝夫さんたちの音頭で計画され、スタートの計画には参画した。
大体、会社のOB会などは、最後にその会社にいた人たちで造られるのが普通である。
だが、このグループは、その成り立ちからもいろいろあって、川重籍の人は、出向元に戻ってしまうし、バイク屋さんに独立開業した人もいるし、メイハツ、メグロの方、販社籍の方など多種多様なので、
● 会員になれる資格は、『1日でもこのグループにいれば参加の資格あり』
● 年会費などは徴集せず、当日催し物の会費だけ
● 全国にメンバーがいるので、幾つ会を造っても、その幾つに参加するのも個人の自由
と言うことで、当初東京、明石、九州でスタートしたのである。そんなことで清水屋さんなどは明石にも参加されたが勤めが長かった九州の会長などもされたのである。
そんな当初のコンセプトが、いま一番生きてるのは、東京なのかも知れない。メイハツ時代の懐かしい顔も見られるようである。
★家での出来事は、
コロがクルマにひかれて突如死んでしまったことである。
3歳ほどの短い命だったが、捨てられていたのを娘と一緒に拾ってきて育てていた犬だった。ずっと一緒に布団の中で寝ていたのである。
人生で、あんなに涙を流したこともない。
4月17日のことだった。
そして、6月19日にトムとラブを買っている。
そして、6月28日に娘に長男が生まれた。
そんな、平成6年(1996)だった。
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