★昭和から平成に変わってから、もう7年が経とうとしている時期である。
自分の年齢も62歳、現役生活ももう後残り少ない年次である。
もう少しちゃんと覚えているかと思うのだが、特に会社の出来事は、若し日記がなかったら、全然思いださないことも多いし、勘違いしていることもある。
人間の記憶力などホントにいい加減なものだと思う。
今までは、入社以来長くても4年ほどで新しい仕事に変わっていた。そのために何となくちゃんと覚えているのだが、昭和の終りに国内市場を担当して、約8年間同じ目標で、同じメンバーたちと同じ仕事をしたので、記憶が入り混じってしまっているのである。
★そんなこともあって、会社以外のことは非常によく覚えている。
1995年は大変な年だったのである。
1月17日、阪神大震災、朝ビックリして飛び起きた。三木は幸いにして、揺れたが建物の倒壊などはなかったのである。停電になってしまって情報はは入らなくなってしまったが、揺れが収まってからはちゃんと犬の散歩もしたし、明石の会社まで車で出勤をしている。途中の信号は停電していたが、道はいつもの通りであった。
会社の中も大したこともなく、倉庫のバイクが横倒しになったぐらいであった。流石に川重の工場の方は休みで誰もいない。高橋社長の自宅は芦屋なのだが報告の電話をしたら、『お前どこにいるのだ』と仰る。『会社ですよ』と答えたら、『エライことになってるぞ』と言われるのである。
10時を過ぎたころテレビがついて、テレビを見て仰天してしまったのをよく覚えている。三木や明石は殆ど何事もなかったし、また情報も何もなかったのである。
今でもよく覚えているが、家を出る時すでに停電になっていたので、家内に飼っていた熱帯魚の水槽の温度が下がり過ぎないように湯を足してくれと頼んで出てきたのである。朝家を出るときの一番の心配事がそれだったのである。
3月20日には、東京のサリン事件が起こった。
これがまた仰天するような想像も出来ない事件であった。1月と3月にこんな大事件が連続して起こった、そんな年だったのである。
★家のことで言えば、
前年飼い始めたTOM & LOVE がめでたく子孫を残したのである。
その出産ぶりは感動的であった。何も、誰も教えたりしないのに、母親はホントに立派であった。男親のTOMはただ、ウロウロしているだけだった。
この写真、我が家で結婚式の写真以外、唯一写真屋さんで撮って貰った高価な写真なのである。
TOM & LOVEは死んでしまったが、この子たちの1匹は、石塚君のところにいるのだが、まだ生きているのだろうか、もし生きていても16歳老犬である。
この年何かと、忙しかったのか、疲労が溜まっていたのか、秋口からどうもふらふらして真っすぐ歩き難くなったりした。
初めてMRIの検査を何回も受けたりしたのだが、大丈夫と言う一応の診断だったのだが・・・何年か後に『くも膜下出血』になったりしたから、何かおかしかったのかも知れない。
今の生活から思うと、会社勤めの現役は、ストレスが溜まる激務であることはよく解る。大変だった時期なのである。
★前年は、会社の状況も大変だったのだが、この年は一転順調に復活した。自動二輪は3月からずっと30%以上のシェアで、ホンダさんを抑えてトップを走っていたのである。ただ全体の市場規模は縮小の一途だったので、経営が楽だったということではなくて、そのための構造対策に邁進していた年である.
マーケットを担当する企業として、単に新車を販売する機能を超えて、『グループの人たち全員を食わすためには』と言う視点からの構造対策であった。
翌年1月1日を期して新体制の整備を検討していた時期である。
62歳と言うとサラリーマンも終りに近い。
この年の6月、大庭社長は高橋さんを副社長に、田崎さんは事業本部長に、大槻さんを技監から一挙に常務に登用するなど、大庭さんらしい人事をやられた。私は技監の身分だったのだが、同期の連中で役員になった人たちも退任してしまって同期で現役に残っていたのは3人だけになっていた。
然し、翌年度はKMJの社長も高橋さんは引かれて、事業本部長の田崎さんが引き継ぐことになるので、いろいろ気を遣われたのはよく解った。私の方が年次では1年上なのである。そんなことで田崎さんとも相談して翌年は私が引くということにはなっていて、秋口から中島直行君に国内は引き継ぐことになったのである。
ただ、松井田問題や、自動車学校、業界関連のPWSA会長などいろいろやっていて、田崎さんからも松井田と自動車学校は頼むと言われていたのである。
新KMJ体制の整備は、翌年1月1日付でスタートすることで、本社サイドなどへの説明なども全て引き受けていたのだが、時代も変わって職制上そのヒヤリングを受けてくれる相手は、横山さんや、小野さんと言う同期の連中だったし、更にその上の社長は大庭さん、副社長は高橋さんと言う体制だったので、何年か前の単車事業本部で仕事しているような気軽な気持ちでの本社対応であった。
ただ、サラリーマン生活も終りに近いなと言うことだけは実感できたのである。
★この年の6月に、ずっとお世話になった松本副社長が退任されている。
カワサキの二輪事業は、若し松本さんが居られなかったら、復活していたかどうかは解らない。あの一番苦しかった時期に社債のほぼ全額を単車のために振り向ける決断をされたのは松本新さんなのである。
このあたりのことを本当に解っている人はほんの一部で、案外いないのが大会社の組織で、また解りようもないのである。
当時の毎月の取締役会では、ホントに異例のことだが、単車の子会社KMCの月例報告が特別定例議題になっていて、その報告者は大庭単車事業本部長ではなくて、松本財務本部長だったのである。
当時のKMCの社長が田崎さん、そしてその財務をヨコから支えたのはカワ販からKMCへ逆出向していた富永、日野君など、田崎さんの依頼を受けて毎月松本さんにKMC報告をしていたのが私なのである。財務本部長自らの報告だったので、KMC問題は苦しい中での新社屋建設なども、問題なく通ったのである。
難しい構造問題の解決は、なかなか理解が難しい。松本さんはその点第一勧銀から川重に来られたので、その辺の理解は非常に柔軟で、単車の良き理解者だったのである。
松本さんが退任される直前に、国内の状況報告と今後の方向について、報告出来たのがよかったなと思っている。
平成7年(1995)はこんな年だったのである。
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